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思い出に残る食事
- 69 :名無しさん :2000/03/11(土) 04:50
- 祖母の家では毎年お正月には餅屋に頼んだ餅でお雑煮をつくります。
いつもお正月には祖母の家に行ってそのお雑煮を食べていたんだけど
ある年「たまには家でお正月を過ごしたい」ってわがまま言って行かなかった年がありました。
家では母が祖母と同じようにお雑煮をつくってくれたんだけど
どこか味が違うような気がするんですね。
三が日が過ぎてから祖母の家に遊びに行ってこの事を話したら
私のために餅を残して置いたよ、と言ってお雑煮をつくってくれました。
「やっぱりおばあちゃんが作ったお雑煮が一番美味しい」と言ったときの祖母の笑顔が忘れられません。
あと何回一緒にお正月を過ごせるかわかりませんが、それ以来お正月は絶対に祖母の家に行くようにしています。
なるべく長い間、あのお雑煮を食べたいなあと思います。
- 70 :高卒後 :2000/03/11(土) 06:15
- 一人暮らしを始めたんだけど、親がよく米とか野菜送ってくるじゃん。
そういう荷物の中に、たらの芽が入ってたんだよ。
その日、母からの電話で「送ったたらの芽、天ぷらにすると良いよ」
なんて言われてさ。でもマンションの電化コンロじゃ天ぷらなんて出来ないから
「もうちょっと考えて送ってくれよー」なんて答えちゃって。
その2日後、用事があって実家に帰ったとき、母が手に絆創膏貼ってるのね。
最初見たときは「またなんかヘマしたんだろ」なんて思ってたんだけど、
妹から話を聞いたら、たらの芽を取りに行ったときに怪我したって。
知ってる人もいると思うけど、あれってトゲがあって採るときに刺さったりするんだよね。
それ聞いて、俺のためにわざわざ採ってくれたのかー、ってすごい罪悪感覚えた。
マンションに帰って、段ボールの中で痛みかけてたたらの芽を出して、
浅いフライパンで無理矢理に天ぷら作って食べた。
衣が生っぽかったのを今でも覚えてる。
- 71 :ごめんなさい :2000/03/11(土) 06:18
- 小学生か中学生の頃、母親と大喧嘩して
母親がそのまま家出してしまったことがあって
その翌日は、タイミングの悪いことにお弁当が必要で。
泣きながらどうしようと困っていたら
いつもは口も聞かない兄が早起きしてお弁当を作ってくれた。
甘い味の卵焼きを焼いてもらったら、焦げてて、見た目も悪くて
それがすっごくイヤで、また大泣きして。
いつもなら殴って怒鳴って終わり…な兄がもう一度丁寧に焼き直してくれた。
味なんて、もう忘れたし他のおかずが何だったのか忘れたけど
その失敗した卵焼きの苦さが忘れられないな……と。
- 72 :>61! :2000/03/11(土) 06:23
- 私にも同じ体験があります。
やはり母が、私への好意を踏みにじって・・。
母は、私にご飯を作ってくれたこともない。実の母なのに。
生まれて初めてまともに作ったご飯を、箸もつけず目の前で流しに
捨てられました。
だから今でも、私には楽しく食事することができません。
スレとずれていてごめんなさい。
- 73 :名無しさん :2000/03/11(土) 06:26
- 他板で紹介されていたので読んでみたが……泣けるじゃねーか。(T_T)
- 74 :名無しさん :2000/03/11(土) 08:43
- 前に付き合っていた彼氏の家で彼の好きなサンマを焼いた。
私は他の料理も作っていたので彼が先にサンマを食べ出した。
「おいしい、おいしい」と彼は言っていたけど、
私が口をつけたとき、そのサンマは生焼けだった事に気づいた。
彼に対する申し訳なさ、恥かしさから私は逆ギレし、
「なによ、まずかったら正直に言ってよーーー」と皿に乗っていた
サンマをそのまま生ゴミ入れにぶち込んでしまった。
振り返ったときに見た彼の悲しそうな顔が頭に焼き付いて、
あの時以来、サンマを焼く事が出来ないでいる。
本当にあの時はごめんなさい。
- 75 :名無しさん :2000/03/11(土) 10:00
- 3人組の仲良しがいた。
そのうちの一人はバターケーキが大嫌いだった。
ある日1人がケーキを買ってきたから食べようという。
箱をあけたらショートケーキが2つとバターケーキが1つ。
ケーキを買ってきた子はバターケーキが嫌いな子のことが
嫌いだった。
もちろん分かって買ってきたのだ。
バターケーキが嫌いな子はそれからショートケーキも嫌いになった。
- 76 :私の子供の頃はアイスが高級品だった。 :2000/03/11(土) 10:38
- くだらない話なんですがひとつ・・・。
家は3人兄弟で、小さい頃はいつもお腹空かせてた記憶がある。
小さい頃のご馳走は母がたまーに買ってくれる
レディーボーデンのバニラアイス。大きなカップのアイスで
大好物だった。めったに食べられないものだった。
ある日母が、「これから夕飯なんだからアイス食べたら駄目だよ。
御飯が食べられなくなるんだから。もし食べたら捨てちゃうからね。」
と私達兄弟に言い聞かせて夕飯の買い物に出掛けた。
当然私達は我慢できなくて。「一人一口だけだったら大丈夫だよね。
捨てちゃうなんて脅しだよね。」
って、小さいスプーンでアイスをすくって一口だけ食べた。
買い物から帰ってきた母は冷凍庫のアイスの蓋をあけて
ねずみが齧ったような跡を見つけて激怒。
「あれだけ食べるなっていったでしょ!」
私達兄弟が涙目になっている横でアイスを流しに捨てた。
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
と泣き叫ぶ私達の前でレディーボーデンはみるみる溶けていった。
・・・こんな事なら一口とは言わずもっと食べておけば良かった・・・。
なつかしく恥ずかしい思い出です。
- 77 :名無しさん :2000/03/11(土) 13:58
- あげます
- 78 :名無しさん :2000/03/11(土) 14:21
- あたしの家は共働きで家に帰ったらいつも一人でした。
毎日、お菓子は台所に袋菓子を分けたものが姉の分と二つお皿に
置いてありました。今考えるとそれだけでも十分うれしかったはずなのに、
よその家では母親がケーキなど焼いてくれてるって思っていた私は、
作ってってわがままを言ってました。
休みの日、不器用でお菓子なんて作ってくれなかった母親が
クレープを作ってくれました。
焼いたクレープ生地にチョコレートシロップをみたいなものを
塗っただけのものでした。おいしいものではなかったけど、
それが初めて食べたクレープでした。クレープを見たら思い出します。
母親は今も元気で働いてます。帰ってきたら覚えてるか聞いてみようかな。
- 79 :名無しさん :2000/03/11(土) 14:22
- 小学校2年生の時の思い出です。
担任の先生は50だか60だかのおばちゃんで、
その年が教員生活最後の担任だった。
俺らの学校は1年生から2年生になるときはクラス替えがなかったから、
先生と俺らは2年目だった。
一番最後のお楽しみ会で、歌唄ったり、誰かの下手な手品見たりした後、
先生が「最後にみんなで食べよう!」と、なにかをみんなに配った。
「ミロ」(ココアみたいなお湯とか牛乳とかに溶かして飲む粉)だった。
当時「ミロ」が出だしたころで、テレビとかでコマーシャルガンガン
やってたから、先生も選んだんだと思う。
誰かが「先生、これ、このままじゃ食べれへんで」と言った。
先生は「そうなん」と言った。なにか他にも言ったかもしれないが
覚えてない。
結局、みんな「ミロ」をそのまま手ですくって食べた。
なんでか分からないがそういう雰囲気だった。
なんか間抜けな話なんだけど、今でもよく思い出します。
- 80 :>76 :2000/03/11(土) 18:20
- もうーこどもってやつは、正直っていうんだか
純情っていうんだか(^_^)必死さ加減が好きだな〜。
(大きくなっちゃうとアイスは自分で買えばいいんだもんね)
- 81 :名無しさん :2000/03/11(土) 19:23
- 昔よくミロとかクリープとか粉のままスプーンで食ってたなぁ。うまかった。
思い出に残ってる一番じゃないけど。学級みんなでやるのはヘンかも(^_^;)
- 82 :>81 :2000/03/11(土) 21:02
- 79のは変とは言わんだろ。
- 83 :とうちゃん、ごめん! :2000/03/11(土) 22:30
- 小学生の頃、家の両親は共働きで凄く忙しそうにしていた。
いつも遠足とかに行く時,お弁当を持って行くんだけど、母は
仕事の関係なんかで,お弁当を作れない時がありました。
その時は,父がお弁当を作ってくれていたんですが、私は嫌な
子供で、どうしても父の作った,おにぎりが食べられないで、
いつも帰りに捨てていました。今だに、おにぎりは食べられない
けど、なんかここを,読んでたら思い出してしまいました。
なんか,悪いような、なんで親の作ったものが,食べられないのか
悲しいような,複雑な気持ちになりました。。。
- 84 :すいか :2000/03/12(日) 00:51
- 子供の頃からスイカが大好きで、ことあるごとにスイカへの愛を
語っていたら、高校3年の誕生日に仲のよかった子たちがお金を
出し合ってスイカをプレゼントしてくれました。
私の誕生日は2月で、そんな時期にスイカを食べられるなんて
嬉しくて、ホントに嬉しくて、冷蔵庫に大事にしまって毎日毎日
取り出してはながめて、幸せでした。
結局もったいなさ過ぎて食べるきっかけを失い、3月半ばのある日
異臭を放っているのを母に見付かり捨てられてしまいました。
あの時はとても悲しかった。
もらってすぐに食べればよかったと後悔しながら、腐って溶けた
みたいになったスイカの残骸をちょっとだけ食べました。
とってもまずくて吐きそうだったけど、友人にもスイカにも申し訳
なくてグッと堪えて呑み込みました。2度とスイカを腐らせて捨てたり
しない!とその時決めました。
今でもちょっと傷みかけのスイカに出会うとこの2月のスイカを
思い出します。
真夏の野菜室は結構腐りやすいのです。
でもちょっとくらいの腐りだったら食べちゃいます。
まだお腹をこわしたことはありません。
いい話のあとにこんな腐りネタでごめんなさい。
- 85 :カルボナーラ :2000/03/12(日) 02:00
- 遠い昔の中学生時代、つきあって間もない彼女とスパゲティを食べに行った。
しかし当時、うちのおかんのレパートリーといえば、ナポリタンとミートソースのみ、
彼女の前で気取りたい年頃だった俺は、そんなベタなものは頼めないと見栄を張り、
当時なんとなく聞いたことがあったような気がしたカルボナーラを注文した。
しかし俺の取り越し苦労をよそに、彼女の注文したのはミートソースであった。
それでも見栄っ張りな俺は「俺、スパゲティではカルボラーナが1番好きかなあ」と無駄口、
すると無垢な彼女は「私カルボナーラって食べたことない、何が入ってるの?」と尋ねてきた。
俺は「ヤバイ」と焦ったが、幸い彼女の後ろ、別の客のテーブルにウエイトレスが、
「カルボナーラと○○○○お待たせしました」と運んで来たのが見えた。
2つの皿のうち1つはトマトソースに貝やエビなどの魚介類が見て取れた、
今思えばペスカトーレだろう、もう1つの皿は白っぽいクリームソース状で、
その時確認できた具材はベーコンだけだった。
それを見た俺は、メニューの中に「ベーコンと何とかのスパゲティ」なる品名があったのを思い出し、
とっさに(あの白いのは「ベーコンと何とかのスパゲティ」だ、ということは
あっちの魚介類のトマトソースのスパゲティこそが、カルボナーラに違いない)と判断し、
「ナポリタンみたいなケチャップ味で、貝とかエビとかが入ってるやつだよ」と得意げに説明した。
さらに、「エビが丸ごと入ってるから好きなんだ」等と要らぬ付け足しを繰り返していた。
やがて運ばれてきたカルボナーラに「ここのカルボラーナはうちで作るのと違うなあ」などと
哀しい言い訳を繰り返すばかりの俺に、気まずさを察知して無口な彼女。
しかも何度も繰り返す「カルボ“ラーナ"」という言い間違いに気付くのは、その後何年も経ってからだった。
カルボナーラをセブンイレブンで買って食べると思い出す、でも店では未だに注文できない。
- 86 :名無しさん :2000/03/12(日) 02:08
- 文章長いけど、お前等いい奴ばかりだな。
- 87 :卵かけご飯 :2000/03/12(日) 04:40
- 高校の時、大学生だった先輩が田舎に帰るので、アパートの部屋を借りて
彼女と泊まり込み、猿のように覚えたてのセックスをしまくった。
途中お腹が減ったので何か食べようということになったが
服を着るのももどかしく、部屋にあるもので済ますことにした。
彼女は何の料理もできなくて、仕方ないのでご飯に生卵をかけて食った、
卵かけご飯を食ってはH、また腹が減っては卵かけご飯、そしてH・・・
若いということはああいうことなんだと思う。
品位ガタ落ちで失礼。
- 88 :>87 :2000/03/12(日) 04:57
- あー、君にはペナルティだ。
10日以内にメッコール5本を飲んで
経過のレポートを提出する様に。
- 89 :バッカーです :2000/03/12(日) 05:01
- いや、タマゴってところがいいじゃないか
- 90 :いいじゃん :2000/03/12(日) 06:14
- 元々「状況とともに思い出す食事」スレッドだったんだし(笑)
いつの間にか(最初からか?)泣かせる話ばかりになって、
他の話する人がなんとなく書き辛そうだし。
もちろん俺も泣かせる話にハマッてる1人なんだけど。
このスレッド、名作だね....
- 91 :名無しさん :2000/03/12(日) 07:58
- ん、じゃ軽く一本行きまーす!
中学の時。土曜の放課後、隣のクラスの男の子が、教室でお弁当を
食べるのを、何故か真ん前で見ていたことがあります。
私はそのクラスの女の子と一緒に帰ろうと思って待ってたし、
顔は知ってるけど話したこともない男の子は、今から部活だったと思う。
で、黙って見ている私の前で、しゃかしゃかと弁当を食べ終えた彼は、
最後にその銀の弁当箱にこびりついてたごはんの一粒一粒をお箸で
ひょいひょい取って口に運び、きれいにおべんと箱をカラにして
フタを「ぱたん」としめました。
すっごいカッコ良かったんですよ〜、それが。
気持ちいいっつーか。食べっぷりも良かった。
別にそれでその子に惚れたりはしなかったんですが、
それ以後「ごはんをおいしくきちんと食べれる人」「お箸を
正しく扱える人」という、好きな人の条件が増えました。
- 92 :名無しさん :2000/03/12(日) 17:52
- やっぱり初給食かなあ。
給食食べる前に「三角食い」ってのを教えられた。
パン→おかず→牛乳を繰り返す小学校給食特有の様式美なんだけど
(現在もあるのだろうか?)
俺はすっかり「パンを全部食べて、おかずを全部食べてから牛乳を全部飲む」
ことだと勘違いしてしまった。
ちょうどその時のパンは食パン2枚。
6歳の子供にはあまりにもハードルが高すぎた。
しかしその日のおかずはカレーシチュー。大好物だ。
何とかその桃源郷に辿り着こうと、必死に食パンを口に詰め込んだ。
牛乳という助けは借りられない(と思いこんでいた)、
頼みのマーガリンも1枚目で尽きた。昼休みも残り10分。
後半分で地獄の食パンを食い終える・・・という直前で
痺れを切らした担任が「あなた、カレー嫌いなのね? 嫌いなら食べなくてもいいのよ」
と、俺の目の前でカレーシチューをあのでっかいアルミの鍋にジャーと戻した。
俺はその午後泣き通しだった。
- 93 :名無しさん :2000/03/13(月) 03:15
- 同棲してた女が最後に作ってくれた食事、オムライス。
あれ食うとやっぱり、出て行ったあの女を思い出すな、昔の事だけど。
- 94 :名無しさん :2000/03/13(月) 03:29
- 給食でのこしたら、びんたされた、学校に不信感
- 95 :名無しさん :2000/03/13(月) 04:26
- 最近一人暮らしを初めて自炊しています。
何食べてもお母さんを思い出します、ホームシック状態(;_;)
- 96 :アステカ中毒 :2000/03/13(月) 06:39
- 学校の給食は偉大だった・・。豚肉のしょうが煮が食べたい・・
- 97 :名無しさん :2000/03/13(月) 07:07
- おばあちゃんの話を見て思い出しました。
私には兄がいて、兄はおばあちゃんがつくるクリームシチューが大好きでした。
ホワイトソースも自分で作る本格的なもの。
実は私はそのおばあちゃんが苦手で、初孫だからといつも兄ばかりひいきして…
と、すこしひねくれていたんです。実際、私がきらいなものも食卓に
だしたりして、大泣きしたこともあったくらいで…。
そのおばあちゃんがなくなった時、涙もでませんでした。
嫌いというより苦手だったので、近寄りにくかったせいもあるんですが。
先日、自分でホワイトソースを作ってシチューを作ってみたのですが
なかなかおばあちゃんが作ってくれたような味にはならない。
結局、あまりまんぞくしないままそれを食べたのですが、こんなことなら
作り方を聞いておけば良かったと思いました。
今思えば、好き嫌いが激しかった私の為に、いろいろ作ってくれた
おばあちゃんの事を思い出し、当時の自分の行動を恥じました。
このスレッドを見て、おばあちゃんがなくなってから初めて泣きました。
今度、墓参りに行こうと思いました。
ここはいいスレッドですね。ありがとう。
- 98 :名無しさん :2000/03/13(月) 07:55
- 給食だけどさ
じゃがいもをオレンジジュースで煮たという
奇怪な代物がでて、それが極めてまずかった。
一体誰があんなまずいものをこの世に送り出せたのかと
長年思ってたが、こないだ知人が作った「芋のオレンジ煮」
なるものを食べたら、めちゃ美味かった
給食のやつとは全然違う。
なんでこんなに差が出たのかしらね〜と思ったよ
- 99 :若き日の過ち :2000/03/13(月) 08:52
- 二年前の誕生日、主人に嘘をついて恋人ととある山荘にいました。
浮気のつもりが本気になり、彼と一緒に死ぬつもりだったのです。
奇しくも、恋人が私の誕生日のために料理を作りはじめた時、
山荘の扉が開いて主人が現れました。言ったのはただ一言。
「帰ろう。」それだけ。私を詰るでもなく、私の恋人を殴るでも
なく。それから三時間、車に揺られて自宅まで戻りました。
無言の車内でしたが、どんなにショックをうけていても、空腹
にはなるものですね。ぐーぐー私のお腹が鳴っているのが聞こえた
のか主人は寂れた町に立ち寄り、ファーストフードのドライブ
スルーでハンバーガーとポテトフライを買ってくれました。
「食べなさい」とまたまた一言だけ。普段はファーストフード
なんて大嫌いな彼なのに。私はハンバーガーをかじりながら、
何がおかしくて自分の誕生日に、車の中でファーストフードの
ハンバーガーを食べなきゃいけないんだと考え、泣けて泣けて
仕方ありませんでした。
主人に謝ることが出来たのは、ハンバーガーを食べ終わって
やっと一息ついた頃。一緒に死のうとまで心に決めていた彼
とはそれ以来会うこともありませんでした。彼が作ってくれて
いたドイツ料理も、覚えているのは匂いだけです。
結局私は主人のもとに残り、十年経った今は何とか普通に
暮らしていますが、今でもあのハンバーガー・ショップ(チェーン
店)の看板を見かけると申し訳ない様な、切ない様な思いが胸一杯
に広がり、鼻の奥がつーんとして視界がぼやけてきてしまいます。
- 100 :>99 :2000/03/13(月) 11:33
- 真面目に読んでたのに最後の4行でハラかかえて笑っちゃったよ〜
- 101 :茶々 :2000/03/13(月) 12:24
- 彼氏が中古だけど車を買ったので、ドライブで海に行こう!
という事になりました。
車の中で食べようと、浜辺でつぶ貝の醤油たれの串焼きを買って
隣で彼氏が運転して、私は串焼きを食べていました。
串焼きはおいしくて夢中で食べてたら、片手でもっていたスチロール
のトレイが傾いて、座っているシートにもちょっとタレがこぼれて
しまいました。
しまった!と思いあわててウェットティッシュでふいても
染みは取れません。車内に甘辛いたれの匂いが広まっていって、
彼に申し訳なくて半泣き状態で謝ったら、突然彼は運転しながら
大笑いしはじめました。
「夢中で食べているから、いつかこぼすと思っていたんだよ」
「だったら、一言言ってくれれば良かったのに」
「車は中古なんだから別に気にしなくていいよ。
おいしそうに食べているから、邪魔したくなかったんだよ。」
うれしくて、申し訳なくて、心の中がじわーんと暖かくなったのを
覚えています。
- 102 :名無しさん :2000/03/13(月) 14:06
- >茶々さん
ええ彼氏ですなぁ。大事にしてね。
- 103 :>99 :2000/03/13(月) 14:19
- 創作よろめき料理モノですな。
イイ線まで行ってたのに時空が・・・・
2年前と10年前統一してほしかった。
よって6点!
- 104 :nora :2000/03/13(月) 15:15
- オレの叔母の作るカレーライス。
ウチは喫茶店なんだけど共働きなので、子供の頃は叔母の家に預けられてた。
その叔母の作るカレーが大好きで、20歳を過ぎた今でも近くに用があるたびに叔母に電話をかけ
「叔母ちゃんのカレー食いたいから遊びに行くよ」って、甘えます。
すでに子供も独立して、叔父も亡くなっているので1人暮らし状態の叔母は
遊びに行くといつも喜んでカレーを作ってくれます。
正直、喫茶店のウチのカレーよりも美味いんだな、これが。
叔母ちゃん、長生きしていつまでもカレー作ってくれよ。
また遊びに行くね。
- 105 :まんぼう :2000/03/13(月) 15:35
- >103さま
103様が指摘してくれるまで、99の何がおかしいのか全然わかりませんでした。そういやそうですね。ちょっとは感動したのにな。
砂糖が貴重だと思っていたばあちゃん。
ばあちゃんの作る「イチジクの甘露煮」はきれいなワイン色だけど、歯が浮くほどの甘さ。
でも、私や弟が遊びに行くといつも出してくれるので、そのとき
だけは「やせなきゃ」ということを忘れて食べていました。
ばあちゃんは同居していた嫁の愚痴もこぼしたことも、他の
誰かの悪口を言うこともない、楽しみといえば年に一回
町内の老人会で温泉に行くことくらいの、控えめな人でした。
ある時、ばあちゃんと一緒に住んでいるいとこ、いとこの友達、
私とで遊んでいるとき、いとこの友達が遊びのルールについて
けちを付けたので、「そんなに文句があるなら、もう帰れば」
と言ったら、ほんとに帰ってしまった。
事情を知ったばあちゃんは私に、
「おめ、なんでそんげこと言った・・・。」とだけいった。
ばあちゃんに怒られたのはそれが最初で最後だった。
8年前、ばあちゃんが死んだとき、香典の中で、
誰も(ばあちゃんの子供、孫たち)知らない名前のものが
いくつかあった。おばさんは、
「きっと、ばあちゃんが作った野菜をもらってくれた人だろ」
といっていた。
どこかの庭で、もがれていないイチジクの実をみると、
地味だけど、暖かかったばあちゃんの存在と重なって、
イチジクの甘露煮の甘さと歯のうずきと、友達を追い返した
後悔が一緒になって思い出されます。
- 106 :ロールケーキが100円だった時代 :2000/03/13(月) 15:39
- はじめてのお使いだと思う、母に朝のパンを買ってきて、と100円を渡された。
当時食パンが100円もしなかった時代だと思う。
100円を渡された俺は必死で100円の値札のついたパンを探した、
「お釣り」というシステムを知らなかったからだ。
やっとの事でジャスト100円の商品を見つけた、それはロールケーキだった。
それを買って帰ると、なんでケーキなんか買ってきたの、と思い切り叱られた。
お釣りとか引き算とか、まだ教えてもらってなかったのに...
トラウマ。
- 107 :名無しさん :2000/03/13(月) 15:59
- せっかくいいスレッドなのに作り話しないでよー>99
- 108 :99です :2000/03/13(月) 16:05
- ・・・本当は10年も昔の話だったのですが、それじゃ年がばれる
と思い、2年と脚色したのに、やはり最後でぽろりと本音が・・・;。
せっかくいいツリーで、こちらも恥ずかしい話を(拙い文ながら)
書き込みしましたのに、意図しなかったこととは言え、テンション
落としちゃって申し訳ないと思っています。見栄をはった馬鹿(の上に
ばばあ)ではありますが、創作、ネタではありませんので、お許しいただきたいと
思います。m(_)m。
なんかでもこのツリーっていい人が多いみたいで嬉しいです
(他の掲示板だったら今頃叩かれまくりですよね)。いい年
して大泣きしながら読んでいますので、私の大ボケに構わず、これ
からもいいお話をどんどんよろしくお願いします。
- 109 :名無しさん :2000/03/13(月) 16:32
- >107
創作でも楽しめればいいんじゃないの?
- 110 :遠野 :2000/03/13(月) 16:41
- 56>57,58 謎の食い物情報ありがとうございました。
アケガラス・・は市販されますか? もう少し詳しく知りたい。
胡桃ではなく節分の豆のようなのが混ぜてあったのもありました。
乾かした草で綺麗にいくつも結んであったので「飾りもの」の可能性も
捨てきれてなかったのです。・・・とりあえず食べ物でよかった(^_^;)
別スレたてたほうがいいかな。
- 111 :!WU? :2000/03/13(月) 17:41
- ほんとにみんないい話ですね。
感動話もくすっと吹き出しちゃうのも、みんなみんな好きです。
毎日ここを見るのがとても楽しみです。
心があったかくなります。
「日本一あったかい食べ物の話」って本が出せそう。(^_^)
- 112 :明るい田中麗奈 :2000/03/13(月) 18:47
- 42の話を書いたとき、「あの頃なにかもっと重要な思い出があったはず」という思いが拭えませんでした。それを思い出したのでちょっと長いですがよかったら聞いて下さい。
小学校3、4年のころ私には同じクラスに親友が1人いました(42のカード仲間とは別)。毎日、学校にいるあいだはもちろん、家に帰ってきた後も空き地や空き家に入って基地づくりなどをして遊んでいました。私が住んでいた町は、その頃市街地の拡大の波が押し寄せていて、空き地や空き家が多かったのです。
空き地に捨てられた廃材を使って、いつになく大きな基地を作り上げたことがありました。基地は2人だけでつくったものでしたが、だいたい出来上がったころには興味を持った近所の子供も集まってきていました。私は完成した基地の中でまずなにをするかについて親友に提案しました。私がスーパーまで行って私のおごりでアイスを買ってくるから、そのあいだ基地を守ってくれ。親友は喜んで、「○○出撃せよ」と隙間だらけの基地の中に潜り込みました。
(つづく)
- 113 :明るい田中麗奈 :2000/03/13(月) 18:49
- 私がカップのバニラアイスを2つ買って帰ってくると、基地の中にいたのは中学生でした。親友は中学生に追い出されて私の帰りを待っていました。私にも中学生を相手に文句を言えるだけの勇気はなく、どうすることもできずに中学生を見ていました。中学生は私がアイスを持っているのに気づき、「お、くれるのか」と言いました。そのとき私は何を考えていたのでしょうか。どうしても思い出せないのですが(この思い出自体もしばらく忘れていたのです)、おそらく私は平静を装い続けたかったのでしょう。私は躊躇なく「あげるわ」と答えて大切なアイスをひとつ、へらもつけて中学生に渡してしまったのでした。残ったひとつをどうしようか、もともと俺が買ったアイスだし、早く食べないと溶けてしまうなどと考えているうちに親友はどこかへ行ってしまったので、私は基地のことを中学生に説明しながらそのアイスを食べてしまいました。
中学生が帰ったあと、親友が現れて、口にした言葉の音声がいまも耳に残っています。「食べ物のうらみは一番だからな」
私は小5になる前にその町から引っ越しました。その一件で疎遠になってしまった親友には中学生になってから一度だけ会いましたが、ほとんど話すことがありませんでした。あんなに毎日一緒に遊んだのに最初に思い出すのはバニラアイスのことでした。住宅地だったその町は現在では繁華街に吸収され、マンションやホテルや遊戯施設や飲み屋ばかりになってしまい、私の子供の頃の風景はもう残っていません。
- 114 :>110 :2000/03/13(月) 19:28
- 遠野の名産品を案内したサイトがあります。
明けがらすは、ここの「和菓子1」にありますよ。
http://www.shokokai.com/tohno/
- 115 :名無しさん :2000/03/13(月) 19:47
- 小さい時、うちは両親が共働きで、土曜日とかはおばあちゃんにあずけられていました。
「今日は休みだから遊べるよ」といった父にとても私は喜んでいました。
だけど、急に仕事が入り出勤することに。がっかりしていると
以前、料理番組でやっていたコロッケをつくって、私に持たせてくれました。
そのコロッケは普通のコロッケなんですけど、パセリの茎をさして
みかんのようにするものなの。
忙しい中、作ってくれた父に感謝。
- 116 :名無しさん :2000/03/13(月) 20:51
- 中学高校と体育会系だったのでいつも死ぬほど腹を減らしてた。
途中で間食もしていたが家に帰る頃には空腹でほとんど倒れかけになっていて、
風呂より着替えより何よりもまずメシ、という状態だった。
熱い汁物は喉を通らないので牛乳のリッターパックを片手にご飯を
掻き込み、定食屋換算で4人前くらいのおかずと4合の米(+牛乳1リットル)
を平らげた。母親は呆れて、いつも
「誰もとらないんだからもっとゆっくり食べなさい」
と言っていた。
父親は晩酌なんぞをしながらその姿を面白そうに眺めていて、
んで
「じゃ、俺も少し飯にしようかな」
かなんか言う頃には(四合炊きの釜なんで)飯は当然残ってない。
母親が申し訳無さそうにそう言うといつも決まって父は笑いながら
「いいよ、じゃあ蕎麦がきでも作ってくれ」
(*そば粉を丸めたもの)
腹が減っている間はヒトの事など構っている余裕はないが、
満腹になった頃に(ほぼ毎日のように)展開するこの光景を
どことなく心苦しく思っていた。
高校を出て家を離れ十年近く経ったいまは割と人並みの食事量になったが
蕎麦がきと言う言葉を聞くとなんとなく肩身が狭い感じがする。
(……いや、父親はまだ健在なんですけどね)
- 117 :名無しさん :2000/03/13(月) 23:26
- しかし、あの頃の食べ盛りの時代の食欲って
我ながら凄かった。とにかく食べまくってたなぁ
ウチの両親は、俺が昔に比べて食べる量が減っていくのを
しきりに食卓の話題にしていたが
多分、俺の食事量が減っていくのが、俺が成長していってるってことで
嬉しかったのと、自分たちがそのぶんトシをとっていっているのを
再認識する材料になってたんだろうな、と思う。
- 118 :名無しさん :2000/03/14(火) 03:56
- なんて気持ちのいいスレッドなんだ
- 119 :名無しさん :2000/03/14(火) 06:36
- ってことで、あげ!!
- 120 :>117 :2000/03/14(火) 07:31
- あと、昔の豪快な食事量がなつかしい、てのもあるでしょうね。
なんかいいご両親だねえ。大切になさってね。
- 121 :名無しさん :2000/03/14(火) 10:07
- 毎日一回ここを見て、爽やかな気持ちになります。
ささ、もっと続けてください。
次の方どうぞ。
- 122 :名無しさん :2000/03/14(火) 15:05
- 子供のころから唐あげが大好きだった。
ある日学校から帰り、急に食べたくなり、母にすごくせがんだ、いつもなら「明日ね」とあしらわれるのだが、その日はあまりのしつこさに「もう、わかった、わかった」とお皿にどっさり作ってくれた。
そして母は買い物に出かけていった。
その帰り母は事故にあった。買い物袋にはまだ
食べ盛りの子供に食べさせるためだろう、鶏肉と唐あげ粉が入っていた。もう二度と味わえないあの唐あげ。
- 123 :名無しさん :2000/03/14(火) 15:49
- 中学生の頃、悪さ仲間と家に溜まってた時友人が「お腹空いた」
と言うのであり合わせの材料でチャーハンを作ったんです。
そしたらみんな美味しいって平らげてくれて嬉しかった。
その後も数回家に来て「あんたのチャーハン美味いから食べたい」
って言われて、その度にぺろりと食べてくれた。
その頃の仲間とは仲違いしたり離れたりで誰一人として付き合い無いけど
たまに作るとその頃のこと思い出したりして懐かしい気分。
- 124 :名無しさん :2000/03/14(火) 16:35
- 唐あげと、「美味しい」っていう言葉で思い出しました。
子供の頃、友達の家に泊まりに行きました。晩御飯は私の大好物の唐あげでした。
その家のおばさんに「おばちゃんの唐あげとお母さんの唐あげと、どっちがおいしい?」
と聞かれました。私は躊躇なく「お母さんの唐あげ」と答えました。
おばさんは、ちょっと悲しそうな顔をしながら、何度も「本当?
お母さんの方がおいしいの?」と聞きましたが、その度に私は
「お母さんの方がおいしい」と答えました。
その後、おばさんが入院しました。お見舞いに行きましたが、
私は病室のドアの所までしか入れてもらえませんでした。
遠くの窓際のベッドでおばさんは横たわっていました。
おばさんは、びっくりするほど小さくなってしまった顔をこちらに向け、
泣きながら「○○ちゃん。元気でね」と私に向かって言いました。
あの時、おばちゃんの唐あげの方がおいしいって言えばよかった。
そんな嘘をついたからって、バチが当るわけでもないのに。
おばちゃん、私の大好物の唐あげを一生懸命作ってくれたのに、
悲しませてしまって、本当にごめんなさい。
- 125 :名無しさん :2000/03/14(火) 17:33
- それは敗戦の時。夫はロシア兵に連れて行かれたまま帰らず、
やっとの思いで一人娘を連れて日本に帰り着いた。
頼りの姉は、家族で東京から疎開していて連絡が付かず、
すがる想いで故郷の親戚を訪ねていったら、おばさんは、良く帰ってきたねと白いご飯を炊いてくれた。
それを見たとき、ほかほかのご飯の香りで、ああ、日本だ。内地に帰ってきたんだと
今まででなかった涙がぼろぼろあふれてきた。
手を合わせてから、箸を付けた。何年かぶりの白いご飯は本当に美味しかった。
しかし、ふと気づくと娘は少し口を付けただけで食べようとしない。
国民学校にちょうど1年生で通い始めたところで敗戦を迎えたのだが、
3月生のせいか体が小さい。やっと帰ってこられたのに、
こんなにおいしいご飯を食べる力も無くしてしまったのかと思い、
ご飯を食べれば力も元気も出るから食べなさいというと、
「このご飯美味しくない。あたし、黄色い普通のおいしいご飯が食べたい。」といった。
娘は、満州生まれだからコーリャン飯の方が白飯よりもなじんでいたのだ。
その言葉を聞いたとたん、なんだかあれやこれや色々な思いが一時に胸にあふれてきて、
私はまた泣いた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
漬け物だけで何倍もご飯をお代わりする私を見て、
「おまえは、あの子の娘なのに、ほんとうに白いご飯が好きだねぇ。」と、
この話を何度も何度もして、そのたびに泣いてた婆ちゃんも、もういない。
- 126 :独歩さん :2000/03/14(火) 17:38
- さめざめ
- 127 :>124 :2000/03/14(火) 17:41
- 子供の時って正直過ぎる故の残酷さってあるよね。
大人になってからそれをとても感じる。
子供心にお世辞とかっていえないのかもしれないけど、後悔した時には
いうタイミングを失ってしまったり。せつないね。
- 128 :>122さん :2000/03/14(火) 18:17
- 号泣。(T_T)
- 129 :名無しさん :2000/03/14(火) 19:20
- ばりばりのキャリアウーマン(のはしり)だった祖母は料理は全く駄目。
三度の食事はいつもお手伝いのおばさんの仕事でした。ところが祖父が
死の床に就いた頃、祖母は自ら台所に立ち、料理らしきものを作って祖父
のもとへ運んで食べさせてあげるようになりました。
私は当時五歳か六歳。祖父を見舞いに行ったら、ちょうど祖母が昼食の
用意をしているところに出くわしました。
「ああ、ちょうど良かった。加奈子も食べて行きなさい。」
祖母の手料理なんて食べたことがなかったので、期待と不安でいっぱい
でした。で、出された料理は、お味噌汁の中にご飯が入っていて、煮込んで
ある奴でした。しかも、まずい。
「おばあちゃん、これ、全然おいしくない」
一口だけ食べて投げ出してしまった私に謝りながら祖母は同じ食事を
祖父のもとに運んでいきました。お匙にその雑炊(もどき)をとって
祖父に食べさせてあげている姿を、私は黙って見つめていました。
「うん。うまい。うまいなぁ」
祖父はにこにこしながら与えられた食事をおいしそうに食べています。
子供心にびっくりしたのを覚えています。その後、こっそり居間に戻り、
冷たくなった残り物の雑炊(もどき)を食べてみたのですが、やっぱり
まずかった(笑)。
でも今でも、嬉しそうに「うまいなぁ」と言って妻の手料理を食べていた
祖父の姿と、誇らしげに食べ物を口に運んであげている祖母の姿が忘れ
られません。あの、煮過ぎで辛くなった雑炊(もどき)の味も・・・。
- 130 :もう15年前 :2000/03/14(火) 20:02
- 親元を離れ、就職のため上京した私の唯一の頼りは、1年先にやはり
就職でこちらにきていたものすごく仲の良かったひとつ年上のいとこ。
まだまだ生活に慣れない梅雨の頃、職場に突然親から電話が。
「いとこの○ちゃんが倒れたらしい。近くにいるのはお前だけだから
行ってやってくれ。」
上司に事情を説明し、病院へ。病床には弱りながらも意識のしっかり
した彼がいた。
別室で医者に事情を聞くと、ずいぶん前から心臓が弱り続け、もはや
手のつけられない状態だと。
さっき話した彼には、死なんて認識はまったくない。中学で母を亡く
した彼へのさらにひどい運命のしうちに声にならない叫びをあげ拳で
壁を殴る私。
駆けつけた彼の父が残り、その日は寮に帰った。
もう会えないとはわかっていたが、そばにいるのは辛すぎた。
夜中に叔父から電話があり、「死にました」ポツリと告げられた。
翌々日駆けつけた彼の妹とうちの親たちと、悲しみながらも慌しく簡単な
葬儀を行なった。そして、彼は小さな骨壷になって妹に抱かれ新幹線で
帰郷した。
見送りの新横浜で、親が崎陽軒の「シュウマイ弁当」を買ってくれた。
新幹線を見送る雨上がりのホーム、ポツンとひとり残された私。
大げさだがこの世でひとりぼっちになった気がした。
寮に帰り、途方にくれながら1人で食ったあの弁当、味はしなかった。
- 131 :名無しさん :2000/03/14(火) 20:22
- 鬱病の私にはへヴィなお話しの数々でした。
皆さんどうぞ一食一食の食事を大切にして下さい。
- 132 :名無しさん :2000/03/14(火) 21:34
- 会社で読んでて泣きそうになってしまいました。
欠伸の振りしてごまかしたりして……
- 133 :>124 :2000/03/14(火) 21:47
- ごめん、私そのおばさんより、124さんの方がかわいそう、って
思った。
>「おばちゃんの唐あげとお母さんの唐あげと、どっちがおいしい?」
これに対して124さんが「どっちもおいしいよ」っていえばよかった
んだよなぁとも思うけど、そのおばさんが普通に「おいしい?」って
聞いたら124さん絶対素直に「うん!」って言ってただろうにな、
って思って(泣)。結局おいしかったんだよね。その唐あげ自体は。
- 134 :昨日の話 :2000/03/15(水) 01:31
- 「ホワイトデー何欲しい?」と聞かれたので
「マシュマロ一箱」と答えました。
一箱までは行かなかったけど、なんのひねりも無い
白いマシュマロを3袋と、目覚まし時計をくれました。
雑誌に載っているような気の利いたプレゼントなんて
出来ない彼がちょっとかわいい。
たいした話じゃなくてごめんなさい。
- 135 :ふと思った :2000/03/15(水) 01:49
- 伊丹十三の「たんぽぽ」
なんてどうですか?
- 136 :名無しさん :2000/03/15(水) 16:07
- あげー。
- 137 :名無しさん :2000/03/16(木) 06:45
- ここに書きたい思い出がひとつあったのだが
思い出してみるとあまりにも辛すぎてどうしても書けない。
- 138 :明るい田中麗奈 :2000/03/16(木) 13:15
- >137 そんなに辛い食べ物があるのですか?
- 139 :へほほ :2000/03/16(木) 13:56
- まだ、港北ニュータウンが造成地だった頃
初めて母親とピクニックにいったのよ。
たぶん、幼稚園くらいの頃かな。
田んぼやら草原しかないようなところを
てくてく二人で歩いているだけだったんだよね。
でも、自分は、母親と二人でピクニック、ってだけで
なんだかものすごくうれしくて、そのときは
単純に近所を散歩、ってのと変わりなかったんで
お弁当なんか作るわけも無く、そのへんの店で
菓子パンとかジュースとかそんなもんだけ買って
持って行ったんだけど、途中、一休みして食べた
チョココロネがすごくおいしくて。
外で物を食べて、おいしいと思ったのは
あれが始めてだった。
チョココロネを見るとあの時のことをいつも
思い出す。
- 140 :名無しさん :2000/03/16(木) 15:29
- 井川比佐志の妻が瀕死の床から立ち上がり
飯つくるシーン。僕も思い出しました。
それとも生卵口移しを思い出したんですか?
- 141 :明るい田中麗奈 :2000/03/16(木) 16:07
- >名無しさん そのシーンは実に日本的で余韻がありました。でも「たんぽぽ」ときいて私が思い出したのは、後者でした。ナインハーフ(だったかな?)を見たとき、「たんぽぽ」のパクリだと思ったものです。
- 142 :紫 :2000/03/16(木) 16:15
- 兄と私と小学高学年から中学の頃。真夜中も真夜中深夜2時頃
毎晩酔っぱらっての父ご帰還。接待だかなんだか知らないけれど
その頃事業は絶好調だった。
「おーい起きろぉ寿司だぞ」毎晩決っておみやげの折。
中身は梅しそ巻だけの折。その梅はコリコリカリカリで刻んであって
あんな梅にはお目にかかれないな。
こっちは寝てるのに起され毎晩同じ折なんで適当に食べたり食べな
かったり。いいかげんにしてよと有難みもなかった。
ある遠足の日お弁当箱開けたら梅しそ巻が入っていたりして。
随分はぶりよくやってきた父だけどおきまりの没落して,最後の最後は
都会のアパートで一人で逝っちゃった。
今でも梅しそ巻食べると,「これはホンモノの梅しそ巻じゃない。梅は
カリカリした刻んだものでないと」などと思っています。
兄もそういうそうです。
- 143 :名無しさん :2000/03/16(木) 16:18
- >141 逆だよ。「たんぽぽ」が「ナインハーフ」をぱくったの。
- 144 :明るい田中麗奈 :2000/03/16(木) 21:18
- なるほどその可能性も高いね。どっちが先にできたのかな。「たんぽぽ」の製作は1985年らしいけど。私は先に「たんぽぽ」見たので「ナインハーフ」が真似したと思い込みました。あまり邦画を贔屓にしない私ですが、「たんぽぽ」のほうがずっと良いと思います(比較するのが無理かも知れませんが)。久しぶりに見てみようかな、たんぽぽ。
- 145 :名無しさん :2000/03/16(木) 21:51
- >144
頻繁に現れて殆ど食事と関係ない話ばっかするのはやめてけれ。
いちいちレスに反応しなくて良いからさ。
改行もしてないから読む気失せるのよ。
これにもレスしないでけれ。
- 146 :まだ思い出じゃないんだ :2000/03/16(木) 22:06
- ねえ。悲しい時でも辛い時でも、やっぱりごはんって食べるよね。
でないと生きて行けないものね。
私は先週とてもとても辛いことがありました。しばらくは何も食べれ
なかった。でも今日はちゃんと3食食べてた。だって私の気持ちとは
関係なく、おなかがすくんだもの。なぜかおかしかった。
今はとても言えないけど、いつか、みんなのように、思い出として
つらかった気持ちを文章にできたらいいな。
おいしいごはんを食べたいな。
- 147 :ぷるぷる :2000/03/17(金) 00:44
- ここを読んでいると、涙が流れてしょうがありません。
食べ物って一番身近なもんだから、みんないろんな思い出があると思います。
じゃあ、俺もひとつ。
父が自分で作った、前の晩から水に浸していた大豆をミキサーにかけて
煮ました。それを煮てみんなで綿の布でこしました。
それから、わざわざ沖の海から汲んできた海水を入れるとおぼろ豆腐になりました。
それに塩をかけてみんなで食べたのを覚えています。
父はもういませんが、美味しいものを子供に食べさせようとしていたんだと
思います。感謝です。
- 148 :明日もキャベツ・・・ :2000/03/17(金) 01:30
- 親元を離れてしみじみ思ったこと。
親はいつも子供を心配していて、あらゆることに直接首をつっこんでは
こないかわりの間接的な愛情(心配)表現として一番多いのは食事のことでしょう。
大人の年齢になった自分が、大学で遠く離れた地域にいる妹に
宅配便として送るものがそこいらのコンビニで買えるような
食べ物類ばかり・・・。
親と同じ行動をしていた。
そういう私も親に食べ物をよく送ってもらうんですが、
一人暮らしの私にかぼちゃ7個・キャベツ3個・白菜2コ・大根2本は
ちょっと食えんわ(笑)、おかん。
腐らしたら捨てればいいっておっしゃるけどね、せっかく送ってくれた
あなたの「きもち」を捨てる気がして捨てれないのよね〜。
だから送ってくれたその日から当分、3食白菜食ってるときあるよ(笑)
しかし、すばらしい、すばらしい、このスレッド。
日々の生活で汚れがちな心の洗濯ができるよ。
ずっと残っててね、ココ!
- 149 :名無しさん :2000/03/17(金) 02:30
- >56,110さん
きのう、お昼休みに八丁堀をぶらぶらしてて
青森物産センターってとこに入ったんです。
そしたら、どうも遠野さんのおっしゃってる
謎の食べ物はこれじゃないかなってのがあった。
それは、ズバリ「干し餅」。
ラベルには、四角い白いのを藁でくくって
軒先に吊るしてる絵が。
食紅をまぜこんで筋模様をつけたり、あろうことかバターで!風味を
つけたりと、いらんことはしてあったものの
味は、さくさくしてうす甘く、ほんと、パイみたいにこぼれる。
腰の弱いおかきというか、なんか、遠野さんの説明と
符合するとこがすごく多いものでしたよ。
違うかなー。
- 150 :K子 :2000/03/17(金) 03:03
- 小さい頃。お父さんが日曜夜はお好み焼きを焼いてくれた。
すごくはりきって、「K子、たくさん食べや」って言って、
焼き方、材料、鉄板にまでこだわって。美味しいもの私に食べさせたかった
んだろうな。
それなのに「お父さんはちゃんと育てられてないんや。悪いけど両親から
下品に育てられてるんちゃうの?」
なんて食べ方のささいなことで言ってしまった。悲しそうな顔してたお父さん。
戦争中、疎開先に親が迎えに来てくれなくて、ひとりですごく遠いとこから歩いて
帰ってきた話も知ってる。いいもん食べさせてもらえなくて身体小さくていじめられたから、
娘にだけは小さい頃からおいしいもの食べさせようとしてくれてた。
あんなことどうして言ってしまったんだろ。
自分が許せない。ごめんなさいって言いたかった。もう遅い・・・。
- 151 :黄金飴 :2000/03/17(金) 04:01
- 昔、自分が小学校卒業したあとに、自宅を新築することになり、
少し離れた場所の借家に移り住んだ。
その頃によくなめていた黄金飴という飴を食べると、
その頃の思い出が甦ってきます。
中学校の入学式の次の日は休みだと母に言われて休んだら、
担任から電話がかかってきてびっくりしたこと(母の勘違いだった)
冷暖房がなくてつらかったこと。
しきりがなくてストレスがたまったこと。(1人Hがやりにくかった)
ゴキブリがでてこわかったこと。
母方の祖母と父親がケンカして父親が自分の両親の家に行ってしまい、
何ヶ月か別居していたこと。
などなど。
そして半年以上が経過して無事、家は完成し、家族は新しい家に引越し
した。その後その借家は取り壊されて、駐車場になった。
高校生の頃に同じ黄金飴を食べてみたらば、
中学に入りたての思いでがぶわーって広がってきて、
とても切なくなりました。
- 152 :>150 :2000/03/17(金) 06:18
- 号泣。
俺もオヤジの作ってくれたこげた卵焼きまずいなんて言わなきゃ良かった。
食えば良かった。今親になってあのときの親父の気持ちわかるようになった。
- 153 :明るい田中麗奈 :2000/03/17(金) 09:36
- >150 泣ける。普段かまってやれない分反省してはりきりすぎて娘にカウンターを食らう父親の悲哀がよく伝わってきます。
>145 おまえもな。
(ナインハーフも1985年製作のようです。従って、どちらかが他方をぱくったということはなさそうです)
- 154 :>148 :2000/03/17(金) 10:59
- その「きもち」、すごくわかります。
一人暮らしを始めてもう4年。今でも、たまに実家から荷物が届く。
みかんの絵のダンボール箱の中身は、
おせんべい、チャーハンの素、レトルトカレー、豚肉こま切れ3パック、りんご1袋などなど。
荷物が届いたのを見計らったように実家から電話が。
「ごめんね、なんか取り留めのないもの送っちゃって…」と謝る母。
「あんなに肉食べきれないよ」とか、「レトルトカレーならいっぱいあるのに」とか強がってみる。
すると母は必ず、取り繕うような口調で「冷凍しとけば」「いっぱいあっても困らない」とか言い訳を始める。
でも、取り留めないものでも、送ってくれた「きもち」が嬉しい。
「ありがとう」、なかなか言えないけど、今度、言ってみるか。
…食事の話じゃないですね、すみません。
- 155 :名無しさん :2000/03/17(金) 12:50
- ココいいね・・・・
2CH暦半年位だけど・・・
こんなにいいスレッドは初めてみたよ!
- 156 :!WU? :2000/03/17(金) 12:56
- おなかすいた、でもなにもないや、、、と思った瞬間に思い出すのが、おかんが送ってくれたインスタントラーメン。
普段「インスタントなんて食べると身体壊すよ!」って言ってるのに、なぜか送ってくる荷物の中には必ず入ってる。
きっと自分のものぐさな性格を見抜いてるんだろう。
茹でただけのラーメン、具もないラーメン。
だけど送ってくれたおかんの顔を思い出すと、おいしく食べられるんだから不思議なもんだ。
母の日にはおいしいもんでもこっちから送ってあげたいな、と思う。
- 157 :けん :2000/03/17(金) 17:35
- うぅっ!なんて仕事効率を落とすスレッドなんだ。
少しずつ読まないと大泣きしてしまう。
俺の仕事はどうでも良い!(2ちゃんを見てる時点でもうダメだが)
続けてくれ!感動を!!
- 158 :マヨラー :2000/03/17(金) 18:24
- えーと、子供のときに両親が別居していて
私達姉妹は母と一緒にに暮らしていたのですが
別居して2年目に父が東京から私達に会いに来てくれたのです。
3日ほどですが一緒に過ごすことができました。
父はその時の夕食の為にマヨネーズを作ってくれました。
私と姉も手伝って・・妙にはしゃいだのを覚えています。
とってもたくさんのマヨネーズができました。
その味はなんとなくしか覚えていないけれど
手作りマヨネーズと聞くと今でも胸がジンジン痺れます。
あれから両親が離婚して17年もずっと連絡とれずにいるのですが・・
とにかく、それから私はマヨラーです。
下手な文ですいません。
- 159 :名無しさん :2000/03/17(金) 18:45
- >158
お父さんと連絡・・・いつか取れるといいですね。
私も両親が離婚してお父さんと連絡取れない状況ですが。
きっとお父さんもそのマヨネーズの味、思い出す事
あるんじゃないかなぁ。
- 160 :名無しさん :2000/03/17(金) 19:24
- >明るい田中麗奈 さん
だれかが共感してくれのは、いいことだと思う。
だから続けてくださいね。
私の中にも、何か話があるのでしょうけど
思い出すのが恥ずかしくて出てきません
いつか出てきたら書かせていただきます。
こういうスレッド他でも作ったらいいね。
「思い出に残る●●シリーズ 感動編」
- 161 :名無しさん :2000/03/17(金) 23:47
- このスレッドは大好きなんだけど、
145の言うように明るい田中麗奈って人が雰囲気を壊してる。
なに仕切ったつもりになって無駄レスつけてるの?
それと、お願いだから改行ぐらいしてください。
お前もな、っていちいちレスつけなくていいよ。
私は前にネタ書いたら今回は文句だけ、明るい・・さんもネタは良かったけどね(笑)
- 162 :名無しさん :2000/03/17(金) 23:51
- なんで食べ物のはなしで
こんなに面白いのかはふしぎですね〜
食べ物が人と人とを結んでいる部分が
あるのは知っているけど…これほどまでとは。
中国では毎食絶対、家族と食べるという話を思い出しました。
昼、子供は学校から家に帰ってくるらしい。
(みんながみんなという訳ではないと思うが…)
それほど大事という事らしい。(何を置いても食が一番)
加えてもう一言、、、「2ちゃんも、捨てたもんじゃないじゃん!」
- 163 :名無しさん :2000/03/17(金) 23:55
- 親しくなりたい人を食事に誘う訳が分かった気がする。
- 164 :名無しさん :2000/03/18(土) 01:15
- いつも田舎のおばあちゃんは仏壇に毎朝炊き立てのご飯を
供えるのが日課でした。夕食にはいつもその日の朝に供えた
ご飯を食べていたそうです。僕が物心ついた頃にはカチカチの
ご飯を食べるのが辛い年になってしまい、お茶漬けにして
「ごはんですよ」を混ぜて食べていたのを覚えています。
そんなおばあちゃんが5年ほど前に事故で死んじゃいました。
買い物の帰りだったらしく、買い物のビニール袋の中に
傷だらけの「ごはんですよ」が入っていました。
お葬式も終わって、家族みんなでその「ごはんですよ」で
お茶漬けを食べました。涙がいっぱい、いっぱい出ました。
- 165 :嫌なガキだった :2000/03/18(土) 02:47
- 小学校の卒業記念に、両親はイチジクの苗を買って植えてくれました。
父と二人で、成長するのを楽しみによく木を眺めたものです。
それなのにいざ実がなって父がジャムを作ってくれると、そのジャムが
なんだか汚いような気がしたんです。鳥がつついたかもしれないし、
虫だって食べたかもしれない。それに父はジャムなんか作ったことは
ないはず、そういったくだらないことが理由でした。
結局私はほとんど食べませんでしたが、そのうちに引越しが決まって
木は切られてしまいました。今なら無農薬手作りジャムの良さも
わかるし、木を大事にしていた親の気持ちもわかる・・・。
- 166 :名無しさん :2000/03/18(土) 03:02
- 彼の家に初めて遊びに行った時の事。
私の大好物の生麩を彼のお母さんが出してくれたので
ちょっと感激しながら1口食べたら、生麩の中に髪の毛が入ってた。
「うわっ!!」と思ったんだけど、そんな事言ったらわざわざ京都まで
買出しに行ってくれたお母さんに申し訳ないし・・・。
ここは根性の見せ所だ!と涙ぐみながらにっこり残さず食べた。
その後彼とは結婚しましたが、お義母さんは未だに
「あんなに感激してくれて、私も涙出ちゃったのよ〜」
と言ってくれる優しい人です。
- 167 :スイカジュース :2000/03/18(土) 03:51
- まだ私が高校生だった頃、父の田舎に帰ったときに、
おじいちゃんがスイカジュースを作ってくれた。
おじいちゃんは呆けてて、ミキサーにスイカの皮まで入れて、
茶色いスイカジュースが出来上がってしまった。
それを、私に「飲め飲め」と進めた。
おばあちゃんも、両親も「そんな物飲まなくて良いよ」と言ったが、
私のために、畑で重いスイカを採ってきて、一生懸命作ってくれた
おじいちゃんに申し訳なくて、一気に飲み干した。
「美味いか?美味いか?」と何度も聞くおじいちゃんに、
「うん、美味しかったよ」と、何度も嘘を付いた。
数年後、癌で亡くなったおじいちゃんのお通夜に出席した。
「いやー、成仏してくれて、清々したわ〜」と、
どんちゃん騒ぎする親族を後目に、私は一晩中おじいちゃんの側で、
「スイカジュース、ほんとに美味しかったよ」と言い続けた。
あの青臭い、苦いスイカジュース。
今でも味を覚えてます。
- 168 :お好み焼き :2000/03/18(土) 04:22
- それは叔母がホスピスに移る少し前のこと。
叔母は乳癌が再発して肺に転移し、余命数ヶ月と言われていました。
遠くの大学に通っていた私は、帰省したときに叔母を見舞いに行きました。
叔母はこの時すでに告知を受け、病院を離れ、実家に戻っていました。
私が訪ねたとき、叔母はときどき咳をしつつ、お好み焼きを作っていました。
思い残すことがないように、食べたいものを食べておくのだと。
「○○君もどう?」 私の分も作ってくれました。
そのお好み焼きは本当に美味しかった。でも、
(あと数ヶ月でこの人はこの世から居なくなってしまうのだ。四十代の若さで)
そう思うと、悔しくて、悲しくて、胸が詰まってしまい、
私はほんの数口しか食べられませんでした。どうしても食べられなかった。
ごめん、さっき家で昼ご飯食べたからと言い訳すると
そう、と叔母は寂しそうに笑いました。
結局、これが今生の別れになってしまいました。
叔母を偲び、時折お好み焼きに挑戦することがありますが
どうしても、あの味には到達できません。
あのとき、自分も作るのを手伝ったのですが…
無理をしても全部食べておくのだったと、今でも悔やまれてなりません。
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0ch BBS 2004-10-30