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思い出に残る食事

602 :ううう :2000/05/20(土) 13:46
うう。暖かい涙が。

603 :名無しさん@1周年 :2000/05/20(土) 16:38
子供のころのオヤツの思い出を書かせてもらいます。
私の母と祖母(姑)は折り合いが悪く、また父も昔気質
の人間でしばしば母に暴力を振るうそんな環境でした。
殊に祖母と父の兄夫婦(わたしの伯父夫婦)がいっしょ
に母を責め立て、しばしば母を泣かせ、追いつめるのを
見るのが子供心にも苦痛で、たまらなかった。
そのなかで母の唯一の楽しみはたまにいくパチンコでした。
私の子供のころ食べたオヤツの記憶はパチンコの景品のお菓子。
かなり飽きがきていたのですが、母が泣きながらパチンコをしている
のを私も妹も知っていたので文句が言えなかった。
なにせパチンコの景品ですから、あまり気の利いたものはなかったんですよ。
森永エールチョコレートとか、都昆布とか。缶詰もありましたね。

やがて祖母が死に、数年たつと突如母の逆襲がはじまりました。母を虐めた
伯父夫婦に対し絶縁宣言をしたのです。母の変身に驚き、うろたえる父に対し
母は「自分をとるか、兄夫婦をとるか」の二者択一を迫りました。けっきょく
父は母をとり、兄夫婦と絶縁しました。パチンコで鍛えた勝負度胸の差で
しょうか。それ以降、父は母に対し暴力を振るうでもなく従順な良い夫に
変身をしました。

現在、父はすでに亡くなりましたが、母はますます元気です。月に1度
二人の孫(私の子供)に宅急便でお菓子を送ってきますが、どのお菓子に
も小さなインデックスが附いていて「38」とか「45」とか変な数字
が書いてあります。孫は大喜びでですが、私たち夫婦は顔を見合わせ苦笑い




604 :名無しさん@1周年 :2000/05/20(土) 16:56
なぜ学校の先生は給食残すとあんなに怒ったのだろう...


605 :名無しさん@1周年 :2000/05/20(土) 17:45
↑そのせいで、私は今でも食事を残すことへの恐怖感があります。
だから、人との食事ってちょっと苦手。そういう意味で、給食は私にとって
「嫌な」思い出に残る食事です。

606 :名無しさん@1周年 :2000/05/20(土) 19:49
「わかめごはん」が好きだった・・・。

607 :>604 :2000/05/20(土) 20:19
ゲロ吐かす迄無理に食わせた教師もいます。
暴力を使ってまで食わせた教師もいます。
私の時代は。

今そんなことやったら…、即刻懲戒処分ですよね。

608 :>591 :2000/05/20(土) 21:47
笑うとこじゃないってのは承知なんですが、ガソリンスタンド経営で火の車って
のがなんかツボに来たというか「本当にすげえ」と思ってしまいました。
素敵なお父さんでよかったですね。なんかじんときちゃいましたよ。

609 :名無しさん@1周年 :2000/05/20(土) 22:21
うちの父親は鶏肉が嫌いで、絶対に食べない。
俺は牛肉よりも鶏肉の方が好きなので、子供の頃は
母親が2種類の肉を買っていた。

大人になってから、理由を聞いたら
「少年時代、凄くビンボーで
 肉は(ほとんど食べられず、しかもたまに食べられても)
 鶏肉しか食べられなかったから。」
とハズカしそうに言った。

父は自分の苦労話をほとんど俺には話さなかったので、
なんだかとても新鮮な感じがした。


610 :名無しさん@1周年 :2000/05/20(土) 22:45
金や銀の包装紙の、お魚系のおつまみ。小さい直方体なんですけど、知ってます?
家族の中で祖父だけが私の味方でした。
私の前ではお酒を飲みませんでしたが、そのおつまみをおやつによくくれました。
祖父は私が小学校低学年の時亡くなりました。
そのおつまみをみるといつも祖父の事を思い出します。


611 :>611 :2000/05/21(日) 03:20
ツナピコのことかな?
(あえて名称を伏せてるんだったらすみません)

612 :名無しさん@1周年 :2000/05/21(日) 07:28
学校へ持っていく弁当にふりかけではなくお茶漬けをかけられた。

613 :538 :2000/05/21(日) 10:00
以前、祖父母の話を書いた538です。先日祖父と会い、色々な話しをしました。
私は愛情表現が苦手なので、気持ちが伝わったか分かりませんが、
こういう気持ちで祖父に接することができたのは、このスレッドのおかげです。
誰にお礼を言いたいのか分かりませんが、本当にありがとうございました。
祖父と会った日にふたりで食べたソフトクリームも、思い出に残るのかなー。

614 :名無しさん@1周年 :2000/05/21(日) 10:35
小五の林間学校のことです。
食事は連日、冷凍コロッケ、冷凍オムレツ、
冷凍ポテサラ、赤ウインナー、赤い寄せハムなど
子供心にも子供ををなめきった献立でした。
私の隣に座っていた女の子が、なんだか憂鬱そうです。
私「どうしたの」
彼女「よく食べられるね、こんなの」
私「どうして」
彼女「合成ちゃくしょくりょうと(ひらがなで聞き取った)
合成○○○のかたまりじゃん。オムレツだってほんとの卵じゃないよ」
私「……」どう対応して良いかわからなくなった私は、
とりあえず不機嫌そうな彼女をそっとして、食事とおしゃべりを楽しんでいました。
ふと気付くと、隣から押し殺した泣き声が。
彼女が泣いています。
ふだんクールな優等生の子なので、ちょっと驚きました。
「だ、大丈夫」と声をかけると
「もうやだ……」といって、下を向き、吐いてしまいました。
車で迎えに来たお母さんに連れられ、帰宅した彼女は
新学期以降、学校を休みがちになってしまいました。
体調不良のせいもあるけど、
彼女の家では、添加物を避ける食生活を徹底敢行していたみたいで
食べてはいけないもののオンパレードに
神経がまいってしまったみたいです
(加えて、バカなことをしてはしゃげない優等生の気苦労もあったんだろうけど。)
「買ってはいけない」を読むと、自分の子には
こういうことを小さいうちから頭に叩き込んだ方がいいか、ちょっと考えてしまいます。

とりあえず、人が食べてるものに
「よくそんなの食べられるね」と言ってはいけない、とは言うと思う……が。


615 :名無しさん@1周年 :2000/05/21(日) 10:42
614、別に省略されてないみたい。

616 :名無しさん@1周年 :2000/05/21(日) 18:28
小学校時代、食が細くて給食の食べるのも遅ければ、残すのもしょっちゅうだった。
班ごとで食べる給食では、食べるのに一番時間がかかったり、残したりする人には
罰ゲームをよく科していた。
食かんにまとめて集める残飯を一口だけ食べさせられることもあったし、班員の
食器を全部片付けさせられたり。

親もあまり給食食べていないと、友達とか先生から報告されるらしく
なんでそんなに食べないのかと、少々きつく聞いてくることもあった。
とくに、当時残したパンはきんちゃくに入れて持って帰ることになってて、
パンを持ちかえるのが恥ずかしかったり、「またなんか言われるかも・・・。」
なんて考えたりして、ちょくちょく残ったパンを机の中とかかばんのポケットに
押しこめて隠しては、見つかってやっぱり怒られてた。

1番目の子供だったし、今でも自己表現が得意じゃなかったりで、母としても
ほんとうに悩んだり、思考錯誤したりしていたことを、これを書きながら思い出す。

中学以降は通学時間がかかるところに行ったためか、人並みよりも食欲が旺盛に
なり、当時では考えられないほどの食いしん坊になってしまいました。
そして家族では現在弟がその小学校に通ってますが、毎日のようにお代わりしてるようです。
そういえば、あれほどやかましかった「パン持ち帰り運動」も、食中毒対策とかで
なくなってしまったようです。

617 :あげ :2000/05/22(月) 00:44
あげ

618 :名無しさん@1周年 :2000/05/22(月) 02:16
あげ

619 :名無しさん@1周年 :2000/05/22(月) 03:19
小学5年の秋だのこと。給食に柿がでた。私は家でも柿を食べたことはなくて、残した。
クラスのほとんどが残して、柿が入ってたアルミのバケツに投げ込んでた。
昼休み、女教師が放送で全員を教室に呼び戻した。
で、柿を食えという。そういわれても、食べかけやら吐き出した種やらがぐちょぐちょに混ざった
ものをどう食えというのか。教室は騒然となった。
教師は、「目をつむってバケツに手をいれ、はじめに触れたものを取れ」
不正がないように、教師がそれを見張るという。
五時間めのチャイムが鳴っても、泣き出す子がいてもキレた女教師は許さなかった。
私は誰かの歯形のついたものを涙といっしょに飲み込んだ。
吐き気を必死にこらえた。だけど、他の子が吐いちゃって、つられて吐く子がでた。
女教師はそれでも私たちを許さなかった。

あれから20年近くたっても柿は食べられません。あのときのクラスの子、
ほとんどの子がそうなってしまった。
オトナになって、えーすごくおいしいのに〜とか言われると、かなしい。
おいしいはずのものをこんなに拒絶するトラウマつける教育っていったい・・?


620 :すき焼き :2000/05/22(月) 10:55
私が子供の頃、うちの実家はすき焼きと言えば豚肉が常だった
それを友達に言ったら「なぜ牛肉じゃないのか?」って怒られた。
でもそんなの気にしてなかった。豚でもじゅうぶん美味しかったし

先日、実家に帰ったときにすき焼きが出てきた。中身は牛肉だった
母親に思いきって聞いてみたら
「あの当時は牛肉が高くてね。あんた食べ盛りだし質よりも量を食べてもら
いたかったから。あたしの家(母親の実家)は戦後すぐで食べ物が無くて本当に
苦労したから、あんたたちがお腹をすかせる事だけはしたくなかった」
って言われた。

今度、実家に行った時はぜひ豚肉のすき焼きを作ってもらおうと思っている。


621 :>620 :2000/05/22(月) 18:41
ウチもね、幼少の頃のすき焼きは豚肉だったよ。豚肉以外のすき焼きは
考えられなかった。理由は多分620と同じだと思う。親には聞いてないけど。
牛肉のすき焼きを食ったのは、社会人になってからだな。
つーかネタになってなくてごめんよ。

622 :名無しさん@1周年 :2000/05/22(月) 22:02
>620
我が家でも全く同じ理由で豚スキでした。思い出そうとしても牛肉の料理は
浮かびませんねえ(苦笑)

いま、私の家の周囲には肉の安売りを看板にするスーパーが林立し、牛肉の
値段の安くなったのには驚きます。
先日「たまには豚肉のスキヤキが食べたい」といったところ、家内に
「ゼイタク言わないで!」と叱られてしまいました。
すでに自宅周辺では豚肉と牛肉の価格逆転がもう数年前からの常識だそうです。
ただただ苦笑いでした。



623 :名無しさん@1周年 :2000/05/22(月) 23:49
>620

うちではずーっとすき焼きは牛肉でしたが、
それ以外の肉料理では、豚・鳥・くじらばかりでしたね。

ビーフステーキは、年に2回あったかなあ?

624 :モトイタ :2000/05/23(火) 00:40
小学校の給食で、付け合せに「にんじんのグラッセ」が出て、
当時、肥満児への道を突き進み掛けていた、僕は、お替りで山盛り人参を
食べていたが途中で気持ち悪くなってしまい、
その後、にんじんが嫌いになりました。

何年か後、6年生になり、その日の給食のメニューは「おでん」、
僕は、おでんを盛っている、鈴木さん(女子、仮名)に、
「人参は、入れないでね」と言うと鈴木さん(仮名)は、
お皿に 人参ばかりを盛り始めました。

怒った僕は、「(おでん)もう要らない!」と、自分の席に戻りました。
直後、日直が、頂きますの挨拶をしましたが、僕は、自分だけ おでんが
食べれない事が悔しくて、思わずポロリと涙が...
涙を流した後、鈴木さん(仮名)が、
「(食べたいなら食べたいって)言えば、いいじゃん!」と言って
おでんを(イヤイヤ)盛ってくれました。

多分、鈴木さん(仮名)は、あの時の事を覚えていないだろうけど、
僕は、おでんの人参を見ると、今でもあの給食で、一人だけ おでんが無い
悔しさと悲しさが鼻の奥を刺激します。

因みに、自分では おでんに人参を入れません(笑)
昨日の夕飯の人参も奥さんに隠れて、ムスメに食べさせました。

625 :名無しさん@1周年 :2000/05/23(火) 07:39
いいスレッドですね。私もひとつ思い出しました。
私が高校生の頃。放送部員だった私は、その日放送室で校内放送の
制作をしてました。アナウンスをしてたら、もう3月だというのに、
両手が真っ青で冷たくなるのです。おかしいなあと思いながら、
部活を終え、寒くはなかったのに手をあっためたくて紙袋に5つも
たいやきを買って帰りました。そこのたいやきは、あんこがいっぱいで
大好きだったんです。家に着くと人だかりが。
とりあえず母親を見つけ事情を聞いたら、おばあちゃんが死んだとのこと。
つい3時間程前に、畑で抜いた大根を洗いに川へ入って溺れて死んだって。
その頃って、私の両手が真っ青になってた頃じゃん・・・。
とにかく驚きと混乱でふらふら自分の部屋へ行き、何をしていいのか分からず、
とりあえずたいやきを必死で食べた。むせながら、味とかもわからんくて、
4個めぐらいでたいやきが、塩っぽくなり、食べ終えたあとぼおっとしてたら
たいやきの入ってた紙袋がいい匂いで、あったかくって、それでやっと泣けた。
そのおばあちゃんは、小さい頃いっしょに住んでたけど、
嫁であるうちの母親に追い出されてしまった人で、気性の荒い母によく
しかられていた私をかばって、また母にいじめられてしまう人でした。
私は今でも、おばあちゃんは放送室の私に、死ぬ前に会いにきて、
手を握っててくれたんだと信じています。
そしてたいやきを見ると、いろんなことを思い出します。
特に、茶色の紙袋入りの。



626 :>625 :2000/05/23(火) 08:49
ほろほろ・・・。朝一番に来そうだよ・・・。

627 :名無しさん@1周年 :2000/05/23(火) 15:18
あげ、よいしょっと。

628 :名無しさん@1周年 :2000/05/23(火) 20:13
厨房時代の冬、家出をした。最初の頃はツレの家を泊まり歩いていたが、
やがて行く所もなくなり、野宿もキツくなり、空腹も限界だった。
そこで、「婆ちゃんの店」を思い出した。
通学していた小学校の前にあった、文房具屋も兼ねる駄菓子屋だが、食料品も置いていた、
俺が幾多の万引きを繰り返してきた店だった。
・・・店に行くとあの頃と同じく無人だったので、容赦なく魚肉ソーセージを万引きした。
やがて、婆ちゃんが出てきたので「ジャンプない?」と聞くと(ないのは分かっていた)、
「ないよ・・・明日だよ」と笑顔で言った。俺は無言で店を出た。
夕暮れの誰も来ない小学校の体育館の裏で、俺は魚肉ソーセージを貪り喰った。
食べながら、情けないやら寂しいやら寒いやらで、涙が止まらなくなった。
そして、俺の家出は終わった。

やがて春が来て、「婆ちゃんの店」の前を通ると「忌中」の紙が貼り出されていた。
俺はそのとき初めて婆ちゃんの名前を知った。

あんな惨めな食事はしたくないと思いながら今まで生きてきた。
もちろん、万引きをやめたのは言うまでもない。



629 :うーん :2000/05/23(火) 22:24
>628さん
魚肉ソーセージ、一杯あげる。涙と一緒に。

630 :名無しさん@1周年 :2000/05/24(水) 00:29
創作活動ごくろうさん
なぜか「ムー」の「私のミステリー体験」を連想させるな

631 :名無しさん@1周年 :2000/05/24(水) 02:58
私が高校何年かの元旦、我が家では珍しく家族4人全員が食卓に
揃い、「あけましておめでとう」と挨拶を交わした直後のことでした。
お雑煮が出来るのを待つほんのわずかな間のちょっとした会話が元で
かんしゃく持ちのパパンが突然キレ、「でーい」とばかりにテーブル
をひっくり返してしまったのです。ママンが前日、面倒だ面倒だと
ぐちぐち言いながらも結局作ったおせちやらお煮しめやらは一瞬に
してぐっちゃぐちゃ。かなきり声を上げて泣き喚くママン。その声に
さらに怒りが増幅したのか、花かつお(うちの地方ではお雑煮にけずり
節をふりかけるのが習わしなので、それ用に袋入りのけずり節がテー
ブルに置いてあった)をわし掴みして散らばった料理の上にぶちまけ
るパパン・・・お前は花咲かじいさんかっつーの。
まさに阿鼻叫喚地獄絵図。自閉気味だった弟(当時小6か中1くらい)は
この吉外沙汰に黙って二階の自分の部屋へ・・・。
その後私は、ママンとともにまだイケてる料理を拾い集め、再び器に
盛って食したわけですが、そのときの、いつもよりかつおのダシが効いた
煮しめの味が忘れられません(涙)。
ちなみにうちのパパンはお酒は一滴も飲めません。にもかかわらず「正月
だから」という理由で「ママ、おちょうし付けてよ」と調子に乗った
のを「やめとき、もったいない。どーせ飲めへんくせに」と一蹴されたが
ために起こった悲劇でありました。
度しがたや度しがたや。

632 :名無しさん@1周年 :2000/05/24(水) 03:55
高校生の頃付き合っていた彼とアイスクリーム屋に入った時の話。

そこには私の苦手な女の子がバイトしてて、その日もいた。
私が注文したアイスはチョコレートアイスにナッツとか
いろいろ入っていた。
それを見て同じ物を注文した彼。
一口食べた彼は大きな声で(ラガーマンだった)
「これモチが入ってるよ!!!」
店内に響き渡った。

いえ、それは「モチ」でなく「マシュマロ」(笑)
店内にいる方、バイトの方、みんな大笑いでした。
苦手な女の子も、いつもは笑わないけどさすがに笑ってた。
笑ってなかったのは私だけ。

彼とは結局別れてしまいましたが、
アイスクリーム屋を見ると思い出します。



633 :名無しさん@1周年 :2000/05/24(水) 04:14
外食の話題はダメ

634 :名無しさん@1周年 :2000/05/24(水) 04:52
ミスタードーナツのスープ。
大学入学のために上京して数日。入学手続きをしに、夕方ひとり大学へ行った
日のことでした。
手続きに合わせて入学式よりひと足はやく3月20日頃に引っ越してきたわたし
は、なんとなく心細い気持ちになっていました。地元と違う都バスのバスのカ
ラーリングに悲しい気分になったりして。
校門を出てちょっとのところに、ミスタードーナツのオレンジ系の店があって
、なんとなく入りました。
スープを飲みながら、器もスープも椅子もテーブルも、この店の中だけは仙台
と一緒だ、と思いました。ファーストフードも時にはとてもよいものです。


635 :名無しさん@1周年 :2000/05/24(水) 05:17
家はたぶん世の中的には恵まれていると思います。父は社会的地位の高い職業
で八方美人なので、まわりからも何不自由ない暮らし、そう見られています。
でも家の中ではちょっとサイコパス、しかも昭和一ケタ生れなので、食事は大
変でした。米の自給率が下がるから、輸入の小麦を使ったパンなんか食べちゃ
いかん、というわけで、パンを食べてるのを見つかると大騒動でした。そのく
せ蕎麦とうどん、カステラなんかも大好き。その材料は輸入物なのでは、と思
うも、それをつっこみでもしようものならテーブルも椅子もぶっこわされるの
で口にチャックの忍の一文字。
あるとき母(パンが好物)が米びつに隠しておいたパンが父に見つかって大騒
ぎ。危険なので家族が非難してしばらくしてキッチンに戻ると、パンにはアン
モニア臭のする黄色い液体が、、、。
あ。思い出しちゃった。書くと思い出すなあ。どちらかといえば裕福な方だと
思いますし、子供の時からうらやましがられることが多かったです。ほんとは
人にはとても言えない悲惨なことがいっぱいなんですけどね。貧乏だったけど
あったかかった、っていいですね。

636 :>635 :2000/05/24(水) 07:54
「ちょっと」ではなくてかなりいっちゃってますよそれは。
今の時代なら半日で離婚されるところ。
「貧乏だけどあたたかい」というのはたしかにいいことだけど貧乏=あたたかい
というわけでもないよね。裕福な家庭がみんな問題あるわけでもないだろうし。
貧乏でも裕福でもない私にはわからん。


637 :>636 :2000/05/24(水) 09:25
叩き上げの社長さんとかには、635さんのお父さんみたいなタイプ、
けっこういらっしゃいますよ。別に昔話ではないと思います。

私の友人にも似たような経歴の人がいます。
周りの人からはみんな「いいお父さんね」「幸せよね」って言われまくり、
実際のトコロ、経済的には確かに恵まれているので、反論できないのです。
子供の頃から家族でお父さんに服従するように刷り込まれていて
彼女は自立するのに大変苦労しました。

私の家は、小さな頃、鯛焼きひとつ買ってもらえなくて泣いたほど貧乏でしたが、
お金持ちが幸せだとは、かぎらないんだなあと、その時初めて、思いました。

638 :ううううう。 :2000/05/24(水) 13:21
泣けて泣けて。

639 :名無しさん@1周年 :2000/05/24(水) 13:52
自分がまだ小学校に入る前のこと、
ある日の夕方の食卓で、目の前に並んだ食事は野菜とか煮物、漬物ばっかり。
えーって思って「今日はこれだけー?」って言ったら叱られた。
食事に文句を言うなと。

月日は経ち、男でありながら大半の夕飯を自分が作るようになっていた。
毎回、毎回、手の込んだものや、バランスのとれた食事を作ることを
心がけていた。しっかし、ちょっとでもアラがあると、
ぶーぶー文句を垂れる。
勝手なもんだ、人間って。

640 :さらら :2000/05/24(水) 14:08
父は大酒のみで、酒を飲むと人格の変わるひとだった。
だから近所でも評判が悪く、ちいさかった私はお酒を飲んだ父にすごくつらくあたった。
父は料理が非常にうまく、本当においしかった。
働かない父は、毎日料理を作ってくれていた。
でも高校になった私は、料理を作るよりも、普通の家庭のように
父に働いてもらいたかった。恥ずかしいと思っていたから。
ある日、いつものようにお酒を飲んで朝から寝ていた父は「水をくれ」と言った。
お酒を1週間くらいぶっつづけで飲んだ後、きまってその後1週間くらい毎日吐くのだ。
それが父のお酒の飲み方だった。
学校へ行く私宅をしていた私は、ぞんざいにペットボトルに水道水を入れ、
父の横に置いた。そしてそのまま、学校へ行った。
その日の父は、唸り声がなんだか変で、でもそれを気にしていたら
遅刻してしまうと思う、気にしないようにして、家を出た。
家に帰ると父は亡くなっていた。
私の家は、働いている母と、父と私だけの家庭で、誰も看取ることもできないまま、
たたひとりで亡くなってしまっていた。
父が、ドクターストップのために、数年前から働けない体だと、亡くなったあとで知った。
働きたくても働けず、お酒に頼るようになってしまたのだと。
そういえば母は一度も父を軽蔑するようなことを言うことはなかった。
あの時気がついて、私が救急車を呼んでいれば、こんなことにはならなかったはずだ。

父が毎日作ってくれた料理の恩を、たった一杯の水ですら返すことができなくなってしまった。
あの時、口に水を含ませてあげればよかったと、今も後悔している。

641 :名無しさん@1周年 :2000/05/24(水) 15:36
もう3日もこの板の奴隷の私。仕事進まなくて困ります。
・・・とか言いつつ書き込んじゃうんだけど。
しかも「食事」ってより「おやつ」話なんだけど。。。

彼の寮に遊びに行った時の出来事です。
道すがらどうしてもアイスが食べたくなった私は、
洗い終わったまま洗濯機に置き去りにされた洗濯物をさかんに気にする彼を
無理矢理誘い、スーパーでアイスを買いました。
彼はエッセル・スーパーカップのバニラ、私は雪見だいふく。
部屋に入り、早速袋を漁る私の姿に、洗濯物を横目に見つつも
「しゃあないなあ、全く」と呆れ顔で付き合ってくれる彼。
しかし、雪見だいふくに串を刺したとたん私の気が変わったのです。
「ねえ、やっぱり洗濯物先に干そうよ、しわになっちゃうし、天気もいいし・・・」
そんな私に、彼はのたまいました。
「・・・アイス固いんやろ。」
全てお見通しだったのでした。
結局、先に洗濯物を干してから食べたのですが、
すっかり溶けてしまったアイスを、それでも楽しそうに食べる彼と、
ベランダの洗濯物とを交互に眺めながら、
私はこの先、数え切れない位の平凡で平和な休日をこのヒトと過ごすんだろうな、
なんてことをぼんやり思った春の日の午後の出来事でした。
(ちなみに、私の雪見だいふくは丁度良い固さになった。彼よ、すまん)
人って案外、些細な出来事で人生の重大な決断をするものなんですかね。
でも彼に「俺の事、もらってくれへん?」と聞かれても、
「気が向いたらね、ふふん」と答えてしまうひねくれ者のワタシ。


642 :名無しさん@1周年 :2000/05/24(水) 17:27
>641
時間がゆっくりと、幸せに流れているのが目に見えるようです。


643 :感動する話じゃないけど :2000/05/24(水) 21:48
小学4年の頃飲んだコーラー。
炭酸きつくて大人の飲みもんだと思ったね。

644 :名無しさん@1周年 :2000/05/25(木) 03:23


645 :名無しさん@1周年 :2000/05/25(木) 13:29
おっと。 あげておかねば。

646 :名無しさん@1周年 :2000/05/25(木) 14:43
うちは母の両親といっしょに住んでいました。私は一人娘。
祖母は活動的で黙っているときのない勝気な人で、母もそんなかんじ。
おとうさんはそんなにしゃべるほうでもなかったので、いつも女三人が
茶の間で盛りあがってるときにひとりで奥の部屋で本よんだりしてました。
おとうさんはアイスやジュースなどこどもっぽいものが好きだたのですが
食べ物は祖母に管理されてたので、普段食べることはあまりなかった。
(私も大学で上京するまで、コーラ、コーヒー、ラーメン食べたことなかったくらい)
で、私が小学生のころ町に初めてロッテリアができた。(うちはイナカなのです)
クルマでいくようなでかい店。
そういうところには絶対行かないような我が家だったんだけど、ある休日
おとうさんが私をクルマでつれてってくれた。
父親と二人ででかけるのはあまりないこと。私にとっては気まずくて、話も
はずまなかった。
ロッテリアでおとうさんはハンバーガーとコーラを二人分注文。
「これはおいしいんだよ」と言ってうれしそうに食べていたけど、私は全然
口に合わなくてほとんど食べなかった。おとうさんが私の分も食べた。
私が大学はいるとき「いいなーおまえはひとりぐらしできて」と冗談で
言ってたけどけっこう本音だったのかなーと思う。
私が大人になってから「ほんとはおばあちゃんといっしょにいるのはいや
だけど、○○(母の名)が好きだからしょうがないなー」と言ってました。
私は父にとって唯一血のつながった家族なのにうちにいるときはほとんと
しゃべらずに、味方をしたこともないなーと思うとすこしわるい気がします。

647 :名無しさん@1周年 :2000/05/25(木) 15:08
>646
今からでも遅くないよ〜。
親孝行って、親と離れて暮らしてみて初めてできるという
こともあるしね。電話でも、手紙でも、メールでもいいんだよ。

648 :名無しさん@1周年 :2000/05/25(木) 15:26
夫と交際を始めて2ヶ月が経った頃、初めて彼の家に遊びに行った。
お母さんに夕食を食べていくように誘われて、無下に断るのも失礼かと思って
ご馳走になることにした。
彼に「うちの夕飯は量が多いよ」という話を聞いてはいたものの、出された
料理の量を見て正直ビックリ。というか唖然。ポトフ風スープ(としか形容
出来ない)に始まって、大皿に分けられたサラダ、肉、魚、野菜の煮びたし、
煮付け、そしてグラタン。更にご飯。
グラタンには牡蠣がたっぷり。牡蠣が大嫌いな私だったけれど、にこにこしてる
お父さんお母さん、そして妹に申し訳ない一心で食べた。実は涙が出そうだった
けど悟られないように噛まずに飲んだ。
なんとか食べ終えたところにお母さんお手製のマロンケーキとコーヒーが出て
来た。平気で食べる一家を見、「ああ、私は絶対ここには嫁げない」と思った。

でも、あれから4年経つけれど、週末には夫と二人でお邪魔して大量のディナー
を頂いている。今も時々、私が涙目で牡蠣を丸呑みしてたことや、マロンケーキ
を食べた直後にトイレの住人になったことが家族の話題に上る。恥ずかしいけど
なんだか忘れられない思い出の食卓です(笑)。

649 :>648 :2000/05/25(木) 17:38
苦手なものを無理やり食べさせられるときほど苦しいものは無いよね

俺も実家に行って大嫌いだったカボチャの煮つけが出てきたときは
めまいがしそうだったけど
相手の手前断れず、半分泣きながら飲みこんだよ
あの青臭い味が本気で嫌いだったんだ〜


650 :649の続き :2000/05/25(木) 18:01
でさ、なんでこんな話をしたのかって言うと久々にカボチャの煮つけ
食べたときにその事を思い出してさ
でも、実家の母親も息子もガンで死んでしまってもう二度と行く事も無い

実家の掘りごたつ、まだあるのかなぁ・・・



651 :名無しさん@1周年 :2000/05/26(金) 09:16
私もあげておこっと♪

652 :名無しさん@1周年 :2000/05/26(金) 16:18
お父さんとカップラーメンのお湯とスープの粉どっちを先に入れるかで大喧嘩した
事がありました。(というか一方的に私が怒っていましたが)
結局「いらない!」と言ってラーメンを突き返しました。
なんかかわいそうな事したなあ。私が食べたいって言って買ってきてもらったのに。

653 :名無しさん@1周年 :2000/05/27(土) 19:56
揚げねば。

654 :名無しさん@1周年 :2000/05/27(土) 21:11
中三の夏休み、受験生だった俺は塾の特訓講座で六時間近く塾にいました。
宿題が多いから夜更かし気味になり、午前中の授業はシャーペンで手の甲をつつきつつ受ける。
ちょっとうとうとすると、即刻「顔洗って来い!」と怒号が飛ぶ。
「夏休みは受験の天王山」と言われて、手を抜くことは許されない。
午前中の授業は体力的にも精神的にもかなりきつかったのを覚えています。

そして、ようやく午前の授業が終わると、友達みんなで近所のラーメン屋へ。
ジャンプやマガジン読んだり、くだらない話で盛り上がったりして、
授業中の眠気が嘘のように大騒ぎしながら食べていました。
お店で働いてるお姉さんが可愛くて、勇敢にも話し掛けたこともあったなぁ(笑)。

昼休みが終わって教室に帰り、先生を待つ。入ってくるなり顔をしかめる先生。
いつもラーメンにめいっぱいニンニクを入れて食べるもんだから、
教室はニンニクの匂いが充満してるんですよ。
食べた本人達は気にならないんだけど、先生や他の生徒には気の毒でした。

あのラーメン屋みたいな雰囲気の食事って、そう言えばあれ以来ないなぁ…。
ちょっとだけ、あの特訓講座をやり直してみたい気分です。

655 :名無しさん@1周年 :2000/05/28(日) 05:22
安芸まっショイ

656 :名無しさん@1周年 :2000/05/28(日) 06:17
もう6時…朝になってしまいました。
夜中から読み始めてずーっと感動して涙流したまま読んでます。
素晴らしいカキコをありがとーー!

657 :子供会社員 :2000/05/28(日) 15:37
エビフライとタルタルソースです
小学校1年くらいのころ、ばぁちゃんの家に遊びに行ったとき
ばぁちゃんはおいらがエビフライ好きって聞いて沢山つくってくれた
でも、食卓には大量のエビフライ&ソースだった
大好きなタルタルソースでなかったので少し泣いてしまった
ばぁちゃんにはすごく悪いことをしてしまった・・・
大人になった今、詫びようとは思ったものの、なんだか言い出せず
そのままばぁちゃんは他界。
ごめん ばぁちゃん。

あのころはどうしてもタルタルソースとこだわってたクソガキなのに
今はケチャップです・・・軟派になりました

658 :名無しさん@1周年 :2000/05/29(月) 02:12
毎日ここを見ています。泣けるわ。

昔、小学校2年生のころ、ある中国人の留学生と知り合いになり、家族ぐるみで
おつきあいをしていました。彼は本国には妻も子もあり、高校教師をして
いたようです。30前後の、とても頭のよい人でした。
本国で英語の教師をしていた彼は、私に英語を教えてくれるというので、私は
毎週彼のアパートを訪ねては英語を教えてもらいました。その日は毎週の
土曜日で、私は学校に行く時にお弁当を持ち、学校帰りに彼のアパートに寄っては
お弁当を食べ、勉強しました。そのうち、彼がお昼を作っていてあげるから
お弁当はいいよ、というので、お弁当を持っていかずに訪ねると、たくさんの
中華料理が用意されていました。
私は野菜が嫌いでしょうのない子なんですが、彼の作るごはんはけっこう野菜が
多いし、餃子も多いんです。だけど、すごくおいしくて、私が食べると
彼もいっしょに食べて、どれがおいしいか、なんて話していました。
私は春雨のスープと餃子、それとエビのすり身を揚げるせんべいが好きで
これだけは毎週作ってもらいました。ひとり暮らしの生活で、ごはんが
淋しかったのかなぁ、なんて今になっては思い出します。そのうち、奥さんも
留学してきたので、ふたり暮らしになったようですが、それでも毎週の
私のお昼ご飯は続きました。そのときの水餃子が忘れられません。



659 :名無しさん@1周年 :2000/05/29(月) 02:32
つづき。
先日、実家の母に彼から電話がかかってきて、今日本に来たんだ、と
いうことで久しぶりに会いました。
10年以上会っていないのに、ちっとも変わっていない彼のようすを見て
安心したし、もうすぐ中国を出て海外に居住する、なんて話を聞いて
私も彼も、10年の間にかわったんだなぁ、と思いました。
その時に「あなたが作った餃子が好きでね、他のものは食べれないの」と
教えてあげたら、とってもうれしそうにしていました。
アルバイトして、お金がたまったら、中国に行こうかな。奥さんにも
久しぶりに会って、餃子を作ってもらうつもりです。
(今では、たまにメールのやりとりをします。パソコンやっててよかった、と
ホントに思いました)


660 :名無しさん@1周年 :2000/05/29(月) 13:17
小学校の時。
母が入院したときに父がお弁当を作ってくれた。
湯を沸かすことすら絶対に自分ではしない頑固な父が・・・。
俵型のおにぎりと、前夜の父のつまみの残りである
まぐろの刺身を焼いたものと、同じく前夜の残りの
おでん。
父ちゃん、なんで俵型のおにぎりにしたんだ?
おば-ちゃんの作るおにぎりが俵型だったのかな。

661 :稲子 :2000/05/29(月) 15:38
10歳以上としの離れた弟がいて、小さい頃はとんでもない癇癪持ちだった。
中学時代、夕飯の支度どきによくぐずり、そういうときは母が相手しないとだめで
夕飯作るのはわたしの役目になっていた。
といっても、味噌汁に焼き魚、青菜のゴマ和えみたいな献立だけど。

さて。弟が3つ、わたしが高校生の頃。
ひさびさに一家揃って外食しようということで、高級そうな日本料理屋に
連れていってもらった。
海老の活け造りが出てきて、さぁ食べようと手を伸ばすと、弟が泣き出した。
「まだ死んでないから、食べちゃダメ!」と。
どうなだめすかしても、ますますひどくわめくばかりで、その海老を全部
なんとか食べたのか、あるいは残したか、味はどんなだったかというもろもろが
思い出せない。

「もう活け造りも踊り食いも食べに行かない」
そのとき両親はそう痛感したと、先日話のついでに聞いた。

662 :名無しさん :2000/05/30(火) 11:08
おぉっと!
常にヘッドラインに入れておかねば。 ね。

663 :あげあげ :2000/05/30(火) 13:34
いいスレだなあ・・・

みんなを泣かせるようなモノでないが・・・
もし、何となく共感できる人がいてくれたらうれしいよ。

高1の夏、高校に入って初めての朝練があった。
いつもは8:00頃に家を出るのだが
その日は、朝5:00頃にチャリンコで
学校まで向かった。
普段、何気なく通って見ている
周りの景色が不思議と違って見えた。
いつもと違う車通りの少ない道、
朝の涼しげな空気、
柔らかいけど「これから暑くなるぞっ!」と
言ってるような朝の日差し。
う〜ん、とってもすがすがしかったよ。

教室について(教室には私以外、誰もいなくて
学校全体も静まりかえっている。)
一人で、家から持ってきたおにぎりを
自分の席で着替えながら、もくもくとパクついた。
(うちの部では、1年は基本的に部室使用禁止だった。)
中身はカニかまを小さく切ったやつを
みそで炒めたもの。(お袋の思いつきの具か?)
し〜んとした早朝の教室で1人で食べたおにぎりが
妙においしかったのを憶えてる。
あの頃(高校生活)のささいな(?)日常の
1コマだったんだけど
なぜかこのおにぎりの味は、
早朝の景色(空気)と一緒に鮮明に憶えてるよ、
不思議だ・・・
あの瞬間のあのおにぎりの味、もう味わえないだろうな。

くだらない駄文ですみません。

・・・ノスタルジックな気分になってしまった。


664 :名無しさん@1周年 :2000/05/30(火) 16:59
ほかの板でも賞賛されてたのできてみたけど・・・
涙腺緩みっぱなしで大変。
エプロンでふきふき読んだけど、あまりに涙の量に
半分で今日はおしまい。残りは明日。
それにしても感動するなー。

665 :名無しさん@1周年 :2000/05/30(火) 18:47
こんなスレッド読んで泣くやつは低脳。

こんなスレッド読んで泣くやつは低脳。


こんなスレッド読んで泣くやつは低脳。

666 :名無しさん@1周年 :2000/05/30(火) 18:55
私は625なんですけど、
実際、創作とかっていわれると、めちゃめちゃ悲しいものですね。
そう思われても仕方ない話なんですけどね。



667 :名無しさん@1周年 :2000/05/30(火) 20:07
よしよし、淋しいんだね>665


668 :名無しさん@1周年 :2000/05/30(火) 20:56
可愛いよ、君が好きだ。>665
だから控えめにね。

669 :名無しさん@1周年 :2000/05/30(火) 21:28
初めて付き合った彼氏がわたしの部屋に初めて遊びに来たとき。
普段のわたしは照れくさくて世間で言われてる「女の子らしい」部分は出来るだけ
見せないようにしていた。でもお腹が空いたのでご飯を作ることになった。
料理は嫌いだったが人並みには作れたわたし(小さい頃からやらせられていた)。
でも緊張で失敗するのは嫌だったので無難なカレーを作った。

「いいよなぁ。。こういうのって。。」台所に立つわたしをうしろで目を細めて
見ていた彼。。恥ずかしかったけど嬉しかった。
この彼は「お前は食ってる時と眠ってる時は女の子だよなぁ。。」とも言ってた。
当時は食が細かったので(ついでにそれなり痩せてもいた・笑)。
あのね、胸が詰まって沢山食べられなかったんだよ(笑)。

670 :名無しさん@1周年 :2000/05/30(火) 21:45
>669
なんだか分かる・・・。

彼と交際半年位に、彼の家族が週末に泊りがけで旅行へ出掛けた。
これ幸いとばかりに、その隙を狙って彼の家で二人で過ごすことにした。
でも彼のお母さんが一枚上手で、居間のテーブルに書き置きが・・・。
「ごはんは二人分炊いておきます。おかずは冷蔵庫に入ってます。」
二人で笑いながらお母さんお手製の食事を食べた。
翌朝、さすがにその日の分のおかずがないので、台所を借りて簡単な
おかずを作った。確か野菜の味噌いためと大根の味噌汁だったと思う。
「なんだか不思議な感じだな。・・・なんだか近い将来をバーチャルリアリティ
で見せられてる気分だ。」と、彼は照れながら言った。私も恥ずかしかった。

・・・付き合い始めた当初は、私も胸一杯で食が細かった・・・。
ケンタ行っても、チキン1本でもう満腹。ファミレス行っても、セットの
サラダだけでもう満腹・・・。

671 :9821V16 :2000/05/30(火) 22:24
僕が中学校二年生の時、今から15年前。それまでアパート暮らしだった我が家は、
同じ町内に出来た新築マンションを購入した。
タイル貼りの瀟洒な作り、エアコン付きの白い壁を、
親から「オマエの部屋だぞ」って言われた時、本当にうれしかった。
引越前に、カギを借りて泊まったほどだった。
でも、それは家計を圧迫する事でもあった。それまで専業主婦をしていた母は、
知人の会社で事務を始めた。それも慣れ、楽しい生活が始まって数年、
高校から帰宅して、部屋にいると、いつもより早く、母が帰宅した。
その顔と、服を見て驚いた。服は泥だらけで、頬には無数の擦り傷があった。
ショックで、心臓がドキドキして止まりそうだった。
そして、母は、僕の顔を見るなり、目を真っ赤にして「病院に一緒に行って」と言った。
訳を聞くと、自転車から転んで落ちたという。
パート先の会社の用事で、郵便局に行くところを、仕事が忙しいために、
時間短縮を狙って、慣れない自転車に乗ったら、転んだらしい。
会社に電話して早退し、タクシーでそのままここに戻ってきたという。
とても細くて、美人で、僕の誇りだった母が、泥にまみれ、傷だらけになっていた。
神聖な物が汚されたようで、なんだかくやしくてくやしくてしょうがなかった。
ここまで無理して母を働かせていたのか、と、自分も情けなかった。
近くの病院にすぐ診てもらったが、幸い、骨には異常なく、擦過傷で済んだ。
一安心した帰り道、「何か買って帰る?」って母に聞いたら、「ふがし」。と一言。
近くの駄菓子屋で10本まとめ買いして、母の後を追った。それを見た母は、笑って、
「こんなに買って来なくてもいいのに〜」と言いながら、
愛用の缶の菓子入れにしまい、いつもと同じように台所に立った。


672 :名無しさん@1周年 :2000/05/30(火) 22:26
>699
>あのね、胸が詰まって沢山食べられなかったんだよ(笑)。
なんか、胸がきゅーんってなったよ。

673 :名無しちゃん :2000/05/30(火) 23:54
小学5年生のとき、同じクラスの女の子の母親が自殺してしまった。
そのときは、みんなびっくりしたんだけど、
しばらくたったら、みんなそのことは忘れかけてた。
そして6年生の遠足の時、その子が持ってきたお弁当は
焼き鮭(切り身まるごと)だけが挟まったサンドイッチだった。
もちろんパンは普通の食パン。
私は、そのサンドイッチをみたとき、何も言葉が出なかった。
ふだん、からかったりしてふざけてたけど、
そのことは気づかない振りをしなければならないと思った。
そして、自分がいつも当たり前に母親にお弁当を作ってもらえる
ことを、本当に感謝した。
今でもあの鮭のサンドイッチの事をたまに思い出します。


674 :名無しさん@1周年 :2000/05/31(水) 06:44
あげ。

675 :ぴた@亀主 :2000/05/31(水) 09:24
>673
ふえぇぇぇぇん(T−T)

676 :名無しさん@1周年 :2000/05/31(水) 10:28
うーん・・・
泣けるような話じゃないんだけどね。

この前、別れた彼女と飯を食いにいったんだ。
本当にいいお友達として、
で、ファミレスに行ったんだけど、
話の中でおれが食事しているときが好きって言われたんだ。

小さい頃からしつけにうるさく言われてて、
そのせいかなぁと思ったんだけど、
その彼女の前ではどう考えてもきれいに食べたことは無かったんだよね。

でさ、昨日聞いてみたのよ。
そしたら、あんまりおいしくないものでもおいしそうに食べるからだってさ。

単なる食いしん坊なだけじゃん・・・

677 :名無しさん :2000/05/31(水) 16:52
2才のころ、両親が離婚して、祖父母に育てられました。
遠足のお弁当や、よそ行きの服などが年寄りっぽくて
ずいぶん不満でした。高校生になって、父の再婚家庭に
引き取られ、(祖父は亡くなり)祖母のところへは、
ちょこちょこと泊まりに行くだけになりました。晩御飯
は、必ず、私の好きなものばかり、わざわざ買いに行って
くれてたのです。そのなかに、もやしの味噌汁がありました。
そのもやしは、全部、ひげ根が取ってありました。今思うと
ずいぶん大変だったと思います。育ててもらった恩返しも
十分できないまま、亡くなってしまいました。いまだに、
もやしの味噌汁は食べられません。



678 :名無しさん@1周年 :2000/05/31(水) 21:14
だから泣かすなと言っておるだろうが。
本当にいいスレッドだなチクショウ。

679 :名無しさん@1周年 :2000/05/31(水) 23:52
>671
>とても細くて、美人で、僕の誇りだった母が、

って、何のてらいも無く言えるというのも、
素敵なことかもしれない


680 :名無しさん@1周年 :2000/06/01(木) 02:08
過去の美化が甚だしいスレッドですね。

681 :名無しさん@1周年 :2000/06/01(木) 09:11
>680さん  思い出って月日とともに美しくなっていくものなのだよ。
だから良いのだよ。

682 :名無しさん@1周年 :2000/06/01(木) 11:21
私の作る美味しい料理を残したのは、ある先輩だけでした。
「夜はあまり食べないから少しでいい」と言うのに、
気合入れて大量に作った私も悪いんですが。
いや、でも、謝りもせずに「少しでいいって言ったじゃん」はないだろう。
あまりのショックにボロボロ泣きながら残った料理を全部食う私の横で、
一生懸命皿を洗う先輩。
間違っても人前で泣くことのない私と、間違っても片付けなどしない先輩の
不気味なコラボレーション。
今はもう怒っていませんが、あの世界一量の多い塩辛いサラダの味は忘れません。

683 :名無しさん@1周年 :2000/06/01(木) 11:26
>682
作りすぎはいけません。

684 :mana :2000/06/01(木) 13:12
いつもジーンとは来てたけど、673の「鮭のサンドイッチ」
を読んで、涙が・・・  仕事中なのに。
創作とか言う人がいるけど、素人がこんなにうまく作れるもの?
「いっぱいのかけそば」よりずっと感動するよ。


685 :ここのスレ読んでると :2000/06/01(木) 13:32
事実は小説よりも奇なりって格言を思い出すよ。
俺も二つほど書いたけど両方とも紛れも無い事実だしね。
他の人のものも、嘘やフカシでこんな話書けないと思うよ。たぶん

「創作」って書いた人は、きっとこういう思い出すらない寂しい人なんじゃない?



686 :>682 :2000/06/01(木) 13:32
何様のつもりなんだろ

687 :名無しさん@1周年 :2000/06/01(木) 13:57
小学2年生の頃の話。

ある日、わたしはトイレに入った。用を足し、出ようかと思ったわたしはドアの鍵が
壊れてて閉じ込められた(自分自身で)のを知った。パニックに陥るわたし。
家族は留守。ひとしきり泣いて落ち着いた頃、耳を澄ましてみた。
我家の隣は父が経営していた事務所。その事務所方面から何やらジャラジャラという
音が聞こえてくる。休日だというのに父が従業員を集めて麻雀をしていたのだ。

「お父さ〜ん!お父さ〜ん!」必死で叫ぶわたし。しかし牌の音にかき消されわたし
の声は父には届かない。。父に頼れぬことを悟ったわたしはトイレの上のほうにある
小さな窓からやっとこさ脱出。(小柄で痩せてて良かった。。)
父の元に行きギャンギャン責め立てるわたしに父は「焼きそばとってやるから」。。
そう、わたしの好物が焼きそばであることを念頭に置いての懐柔作線である。

「そんなことで許さない!」と思ったのも束の間、焼きそばの出前が届いた時点で
わやしの怒りは海の藻屑となってしまった。父よ、さすが親だな。。
あの焼きそばの味は忘れられない。涙と鼻水の味がしたよ(汚くてゴメン)。
そんな酷い(笑)父はその3年後脳溢血で天に昇ってゆきました。。

688 :さぁてと、今日もヒト泣きすっか。 :2000/06/01(木) 14:46
ぁぁぁ。

689 : :2000/06/01(木) 15:25
泣けない話しで悪いが、
記憶に残る食事は「鳥すき焼き」だ。
鹿児島の祖父が鶏を絞めて、お湯をかけて羽をむしりとり内蔵を取り出し、
ざっと焼いたものを使ったすき焼き。
吊るされて最初は暴れていた鶏が、ぐったりとなったところですかさず、スパッと首をはねた祖父。
逆説的に命の尊さを学んだ様な気がした。
未だにあんなに美味しい鶏肉は食べた事がない。


690 :名無しさん :2000/06/01(木) 16:56
>689
幼いころの思い出とか、悔恨の残る話も胸うたれるものが
ありますが、お祖父さんの鶏の料理は十分感動的ですよ。
「いのち」と「食べ物」とのかかわりを、子供に実地で
教えることのできる大人は時代のせいで少なくなっていますし
お祖父さんは、当たり前のこととしてやったことでも、
あなたや、この話を聞いた私たちに大切なとこを伝えて
くれたのですから。

691 :690 :2000/06/01(木) 16:59
失礼、「大切なとこを」→「大切なことを」でした。

692 :うほほ :2000/06/01(木) 20:09
2chで泣いた....。

693 :名無しさん@1周年 :2000/06/02(金) 04:09
ダンナはひとりっ子、私は貧乏な7人家族育ち。
結婚前、ダンナが家にご飯を食べにきたときのこと。
お刺身を出したんだけど、ダンナさん、わさびの小袋をとって全部自分の醤油に溶かしちゃった。
家族ボーゼン。だって、貧しい一家は いつも小袋のわさびを7人で分けていたので。
みんな無言で、わさびなしの醤油で刺身を食べました。

694 :母は :2000/06/02(金) 07:58
鶏肉が嫌い。どうしてなのかなー、とずっと思っていたのだが、この間父に
尋ねたら答えてくれた。
ママはね、小さい頃、農場で飼ってた鶏をとても可愛がってたんだって。
毎日餌をやる手伝いをして、全部同じ様な顔をしてるのに、一羽一羽に
名前をつけて。
でもお客さんが来るとおじいちゃん(私の曾祖父)がその鶏を何羽か
殺して、それをご馳走にしてしまう。それが辛くて辛くて、それ以来
鶏が嫌いなんだって。

いつもは強くてきりりとしている母なのに、何となくその話を聞いて
かわいいな、と思ったり。お客さんが来て鶏鍋とかやってる時の、食卓
での母の気持ちを考えると、やりきれなくもなったり。
うちって実は元祖「羊達の沈黙」だったのね、とも思った(笑)


695 :名無しさん@1周年 :2000/06/02(金) 12:17
>666さん
625のお話、わたしは「おばあちゃんが会いに来てくれたんだ〜」
ってすごく感動して拝読しました。
きっとおばあちゃんが666さんのことを大切に思ってくださった
からあった出来事なんでしょうね。
わたしは創作だなんて思ってませんよ〜。
一言お伝えしたくて書き込んでしまいました、、、m(_ _)m


696 :名無しさん@1周年 :2000/06/02(金) 15:52
小学校の時両親が離婚しました。
気の強い母は父が仕事に行っている昼のうちにアパートの契約をし、
夜には母と兄と私とで家族の家を出て行きました。
子供ながら本能的にそんなしっかり者の母との暮らしを選んでいたのですが
正式に離婚が成立する前に一度兄と私だけが父に呼ばれて
父しかいないもとの家族の家に居行くことがありました。

みんなで生活していた部屋は私達の荷物が無くなったことと
男の一人暮しになったせいかガランと殺風景で寂しい部屋になっていました。
いつもは父が野球を見る為見ることが出来なかったアニメを見せてくれて、
もてなしのつもりだったんでしょうね、ぶどうを出してくれたんです。
お皿ではなくて新聞紙に載ったぶどうを見て胸がきゅんとなりました。
あれ以来父には会っていないし実は消息すら分かりません。
探そうかと何度も思ったけど母を裏切ることになるような気がして
なかなか踏ん切りがつかずにもう20年が経過しました。
もうすぐぶどうの季節。店頭で見かけるとふと立ち止まってしまう。

697 :>696 :2000/06/02(金) 15:55
私がその父です。

っていうネタはここでは禁忌なのね。
すまん。気にしないでくれ。

698 :名無しさん@1周年 :2000/06/02(金) 16:20
女子校時代、バレーボールの部活のあと、運動部ご用達の店で
磯部巻き、ラーメン、またはたぬきうどん、あんみつ、
ところてん、ソフトクリーム、合間にコーラ、という
フルコースを毎日のように食べてた、、、なんであんなに
食べれたのか今では信じられない。もちろんそのあと
家で夕食も食べてたの。

699 :名無しさん@1周年 :2000/06/02(金) 18:56
新婚のころ、妻が毎日お弁当を作ってくれました。
ある日、朝からつまらないことで喧嘩をしてしまい、今日は弁当無しか・・・
と思っていたらちゃんとあった。
昼休みに会社で包みをあけるとオニギリが2つとゆで卵が入ってました。
さすがに今日は手抜きかと思いながらオニギリをほおばるとおもわず「うぷっ!」
中身を出してみると白くて柔らかいものが。中から出てきたのはホワイトチョコレート
口直しにゆで卵をたべようとしたら、玉子の殻に鬼のような顔が書いてあり、「ざま〜みろ」
と書いてある。
妻からの報復攻撃でした。それから1週間、お互いに口をききませんでした。

最近、息子と娘が学校へお弁当を持っていくようになり、私のお弁当が復活しました。
オニギリの時は今でも一旦2つに割り、中身を確認するようにしてます。


700 :名無しさん@1周年 :2000/06/03(土) 00:04
>699さん
かわいい奥さんですね!

701 :名無しさん@1周年 :2000/06/03(土) 01:32
なんかいい話が多いので上げです。

俺は、くそ暑い土曜の夏真っ盛り、高校の帰りに買った
ペプシとホンコンやきそばの昼飯を思い出します。
勿論自分で作る。親いないから。


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0ch BBS 2004-10-30