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思い出に残る食事

532 :ftp :2000/05/07(日) 20:14
サッカー部の先輩が難病で他界した。死ぬほどの重病だったとは知らなかった。
22歳で一人っ子だった。お通夜の弔問客は少なく、意外なほど年老いた夫婦に、
2階に案内された。友人ら3人でしばらく酒を飲むのだが、俺たち以外に2階には
誰も来ない。そのせいか、盛り上がらず、早々に退散しようとした。老夫婦はどうぞもっと
いてください。息子も喜びますからというのだが、誰も手をつけていない上寿司
ばかりがが並んでいる2階がなんとなく居づらく帰ってしまった。
一人息子を亡くした夫婦のさびしそうだったこと。なんで朝まで飲み騒いでやらな
かったのか、ずいぶん薄情なことをしたと今でも後悔している。


533 :名無しさん :2000/05/08(月) 06:33
幼稚園の頃実家でやってる仕事の取引先に
母親といっしょにいったことがある

母親はその会社の入り口のところで
じっとしてなさいってきつくいったけど
待っても待っても母親は帰ってこない
それで急に一人でいるのがこわくなってその会社のなかで母親を探しはじめた
なんでかわからないんだけど社員とはすれ違いもしなくて
灯りもついてなく薄暗い、天井が凄く凄く高くて
ガラーンとした廊下をとぼとぼ歩いてると
もしかして自分は捨てられてしまって
もうここで一人ぼっちなんじゃないかと思えてきた
もう皆とも大好きな坂本先生ともあえなくなったんだとおもったら
そうしたらなんだか鼻の置くがツーンとして涙がでてきて
でも泣くのがかっこ悪いと思ってたから必死に我慢して

そうしてずっと歩いてたら掃除のおばあちゃんに出会った
そのおばあちゃんがどうしたのって声をかけてくれたらもう我慢ができなくって
訳がわからなくなってそのおばあちゃんにしがみついて大声で泣いてしまった
そんな困った子供をそのおばあちゃんは頭を優しく撫でてくれて
泣き止むまでずっとそうしてくれた
それから紙コップに入ったコーラと食パンを手渡してくれて
そのころコーラが辛くて飲めなかったんだけどすごくおいしく感じられて
それをのんだらものすごく心が落ち着いたのを憶えてる

もうあのおばあちゃんの顔も覚えてないけど
抱きついたとき感じた作業服の匂いとあのときのコーラの味はまだ憶えています

534 :名無しさん :2000/05/08(月) 16:06
涙でキーボードが見えないのでブラインドタッチできてよかったなぁ。

535 :このスレッド良すぎる! :2000/05/08(月) 17:32
このスレッド読んで、たまらずGW実家に帰って来ました。
母親がすごいよろこんでくれて私の好物ばかり作って
くれました。

美味しかったです。ありがとう>2ch


536 :名無しさん :2000/05/08(月) 19:21
家庭の事情により、バスで幼稚園に通っていたことがあります。
バスは幼稚園バスではなく市営バス、周りは朝を急ぐ大人で一杯。
当時4歳の私にはみんなが誘拐犯に見え、座ることもできず
泣き続けていました。
やっとついたバス停にはかならず祖父母がいて、祖父は大きな
逞しい胸で泣きじゃくる私を抱き締め、なだめ、3人で手をつないで
幼稚園に行っていました。幼稚園が終わると、祖父母の住むアパート
に行き、夜まで過ごしていました。
私をかわいがってくれた祖父母が、たまに『特別』といって買って
くれたお菓子があります。デパートの食品売り場にあった、何g
何円という、回るワゴンに乗ったお菓子です。
好きなのを買いなさいと祖父母が見守る中、決まって買うのは
風船に入った丸い羊羹。羊羹といっても、今思うと子供騙しの味で、
なのに大好きでした。
あの時間の事を思うと、いつも笑っていたように思います。

その後幼稚園にバスで通わなくなり、祖父母と一緒に住む
ようになったのですが、祖父母と両親の間には、お金のからんだ
大人の事情というものがあり、いつも殺伐とした空気が流れていました。
私は徐々に祖父母に甘えることはなくなり、冷たい態度さえとる
ようになっていました。
その後祖母が他界し、しばらくして私は進学の為家を出ました。

たまに帰郷すると、祖父が小さくなっているのです。大きなはずの
胸は痩せ、足は驚く程細く、強かった足腰は今では杖を使う程です。
いつも涙ながらに私の帰郷を喜び、小さな私が泣きながら抱き着いて
いた話しをします。今がどうであろうと、冷たい態度をとってしまっても
祖父にとって私はいつまでも小さな女の子です。
今度帰ったら、祖父とたくさん話をしたいです。いつまでも長生きして
いつか私が産む(かもしれない)曾孫も可愛がってください。

537 :にゃん :2000/05/08(月) 21:52
おととしの、秋の話しです。
私が小学校5年の時に家をでて、居場所のわからなかった母に、
祖母の葬式の時、23年振りで、顔をあわせました。
その時、母の家に遊びに行く約束をしました。

その日は、私が料理を作りました。
ハンバーグと肉じゃがと、簡単なサラダです。
2人で食事をして、お酒を飲んで、
はじめはあたりさわりのない話しをしてましたが、
だんだん、「何故いなくなったのか?」という話しになりました。
母はたんたんと話します。
私も、母がつらくならないように、途中、冗談を入れながら、
聞きました。

帰る時、「今日はおかあちゃん、なんもできひんかってごめんな。」と、
言ったので、私は「ほな、残ったごはんで、おにぎり作って」と言いました。
母は、「そんなんで、ええんか」と笑いながら作ってくれました。

帰り、駅からタクシーに乗りました。
今日のことを思い出しているうちに、不覚にも涙がててきました。
運転手さんがびっくりして、「気分悪いんか?」と
聞かはりました。私は、
「いえ、なんか、嬉しくって、泣けてきちゃったんです」と、
泣き笑いしながら、運転手さんに、今日の事を短く話しました。
すると、運転手さんも一緒に泣き出してしまいました。
「よかったな、よかったな」と鼻水まですすってました。

家に持って帰ってきたおにぎりは、冷凍庫にいれて、
元気のない日に、1コづつ、大事に大事に、食べました。

538 :>537 :2000/05/08(月) 22:30
うぇ〜ん(ToT)
私も泣けてきました・・・。
タクシーの運転手さんも一緒に泣いてくれるなんて・・・なんていい人
なんだ!!


539 :僕もひとつ、半年前に別れた彼女のことを。名無しさん :2000/05/09(火) 09:12
彼女は、ほんとになにも料理ができない人だった。
あまりに何もできないので、「肉じゃがってのはこうやって
作るんだぞ」なんて、僕のアパートで作り方をおしえていたくらい。
3年くらい付き合っていて、僕は一足先に社会人になっていた。
彼女はまだ学生。僕はマスコミ関係の仕事に就いたこともあって、
なかなか会えないことも多かった。でも、僕は将来は結婚しよう、
と密かに考えていたんだけどね。

ある日、将来のことを話していて、自分の進路をちゃんと考えていない彼女に、
かなり厳しいことを言ってしまった。電話口で泣き崩れる彼女。
僕は、変に社会人として先輩風をふかしていたんだと思う。
その場はなんとか収めたけれど、しこりが残ってしまったような感じだった。

そして数日後の早朝、突然に彼女は急にアパートへ押しかけてきた。
そんなことは今まで無かったのでびっくりしていたけど、なぜか彼女はゴキゲンで、
「いっしょに朝ごはんを食べよう」と、
彼女はコンビニのおにぎりとカップ味噌汁を取り出した。
僕は、おいおいコンビニのおにぎりかよ、と思いつついっしょにおにぎりを食べた。
夜遅くまで帰れない僕といっしょの時間を過ごすには、これしかなかったし…。

でも、それから2か月もしないうちに、彼女から別れ話が出た。
僕の方も、うすうすと感づいていたので、驚きはしなかった。でも、
ただただ、悲しくてポロポロと泣いてしまったのを覚えている。

彼女、つらかったんだろうな…たぶん、あの日は眠れなかったんだろうな…
無理に明るく振る舞ってたんだろうな…
徹夜で仕事中、コンビニのおにぎりを食べると、あの日を思い出して泣けてきます。
そんなときは「クソッ、彼女が料理できたら、仕事中に泣かずに済むのに」と、
一人で強がって気を紛らわせています。


540 :だから :2000/05/09(火) 20:26
仕事中に泣かすなって。

541 :俺も泣いている :2000/05/09(火) 21:37
今日も残業の夜だけど、少し疲れてきたらこのスレッドを
読んで深夜まで頑張る事にしてる。
優しくも哀しくせつない気持ちになる。
別れたあの子は元気だろうか。
今、誰の声を聞いて暮らしているのだろうか、と。

お前の手料理をずっと食いたかった。
あの手料理を、もう食べる事は出来ないんだな。

お前のサラダがとても好きだった。
あのレシピを、お前から教わった通りに作っているけれど
お前のようには上手く作れない。

あのサラダを作る度に思う。
いつか俺が幸せになった時に、あの味は再現出来るのだろう。
今、俺は同じ場所で、独りで頑張っている。
あのサラダの味の再現はまだ遠い先のようだ。

542 :名無しさん :2000/05/10(水) 14:00
よいしょっと。

543 :ANA :2000/05/10(水) 20:42
おなじく よいしょっと!

544 :名無しさん :2000/05/11(木) 05:23
ちょっと思い出したので、イイ話じゃないけど俺も。

俺がまだ小学1〜2年生ぐらいだったかの頃、母がなにかの用事とかで
夜まで帰ってこれないことがあった。
日曜日で親父が家にいて、昼時になったので飯を作ることになった。
いつも仕事ばかりで、たまの日曜でも寝てるかゴルフ見てるかしかない
親父だったので、なんだか妙に嬉しくてはしゃいでいた。
で、出てきたのは黒いさつまあげ。焦げまくっていた。
一口食べると苦くて苦くて、「いらない」って言ったら「食え」って
怒られて、泣きながら食べた。
その次の日曜も親父の料理だったので、俺は憂鬱だった。
「できたぞ」と言うので渋々台所に行くと、明かに「チャーハン」
ではない「焼き飯」が皿に盛られていた。しかもリンゴのかけらがちらほら・・。
見るからに具が怪しい(リンゴと鶏肉等)ので、暗ーい気持ちで口に入れると
なんでか判らんが不思議と美味かった。
しかも、それはあの「クジラ」の味がした。入ってないのに何故か。
恐るべしウチの親父。

今でもいっしょに酒を飲むとき、親父は妙なつまみを作ることがある。
不味い事も多いが、美味い時もある。
その時は、大抵「違う何か」の味がする。恐るべし。

545 :メロン :2000/05/11(木) 21:25
あれは小さい頃、4歳ぐらいかな?
私はメロンが大好きだった。
祖父母の家に行く度に大きな美味しいメロンを食べては喜んでいた。
でもそのメロンは末期ガンだった祖父のお見舞いの品だった。
祖父はホテルマンの重役だったからいつも沢山のお見舞い品をもらっていた。
私は小さかったから意味もわからず食べていたけど
おいしそうに私が食べているのを見て嬉しそうにしている祖父の顔は
今でもなんとなく覚えている。
笑っていた時もガンの痛みと戦っていたんだろう。
祖父はそういう人だった。15年経った今でも一番尊敬している。

546 :ナナ :2000/05/12(金) 00:08
中三の時つきあってた彼女と、彼女の友達の家に遊びに行った。
で、ただダベったり漫画読んだり音楽聴いたり。
それは一見幸せそうな時間だったけど、
彼女を友達にとられたような気がしてちょっとふてくされて、
ベッドでごろんと横になってた時、その友達が、
「お腹すいた」と言い出した。すると彼女が、
「あ、クッキー焼いてきたんだよ。食べる?」
…まさに、寝耳に水。
でもそこで飛び起きるのはプライドが許さない。
些細な事なんだけど、いっそうその友達に嫉妬して、
「声をかけられるまで待とう、自分から行くものか」と意地になった。

二人がクッキーを食う音が落ち着いた頃起きあがって、
置いてあるクッキーに気づかないフリしてた。
その時もまだ、「声をかけられるまで」と思ってた。
でも結局その声がかけられる事はなくて、そのまま二人で帰った。
三枚くらい残ったクッキーは、
置いていったのか、彼女が包んで持って帰ったのかは覚えてない。
帰り道は、平静を装ってたけど、不安で不安でしょうがなかった。
ホントに俺の事が好きなのか?と(笑)。

思い出せば出すほどガキくさい思い出だけど、
先にも後にも彼女の手料理に触れられる機会はなかった。
「おいしーい」という友達の声と
「さくっ、さくっ」という音を聞きながら、
まぶたを閉じていた俺を今から叩き起こしに行きたいくらいだ。
ホントにもったいないことしたなぁ…。食いたかった…。

547 :>546 :2000/05/12(金) 09:02
もう〜! 意地っ張りなんだから〜(TДT)
でも気持ちわかる。今度は素直にネ。

548 :名無しさん :2000/05/12(金) 09:20
昨日の朝、女房と喧嘩した。というかひどいことをした。
原因は、夜更かしして寝不足だった俺の寝起き悪さのせいだった。
「仕事行くの嫌だよな」とか呟く俺。そこで女房が何を言っても
俺は切れただろう。前例もあったし。あいつもそれを良く知ってる
から何も言わなかった。それも分かってたけど、なんだか馬鹿に
されてるような気もして、八つ当たりしてしまった。
すごく美味そうだったのに、せっかくあいつが作ってくれた味噌汁
もおかずも全部ぶちまけて暴言を吐いてしまった。
あいつは泣きながら残りの味噌汁の鍋を流しに捨ててた。ものすごく
後悔したけど、用意してあった弁当も持たず、虚勢をはったまま
謝りもしないで俺はそのまま会社に出掛けてしまった。
夜になって、気まずい思いを抱きながら帰宅した。もしかしたら
女房は実家に帰ってるかもしれないと内心不安だった。が、部屋の
灯りはともっている。しかもなにやらいい匂いもする。
思い切ってドアを開けると、女房は俺の好物のビーフシチューの
鍋を抱えて出迎えてくれた。「これで仲直りしよう」と笑顔で。
俺の方こそ、朝のお詫びに気の利いた土産の一つや二つ買って来る
べきだったのに。
もう、自分の勝手で女房に八つ当たりをしないようにしようと
心に誓った。
本当はあの味噌汁食いたかったんだ。俺は。

549 :541 :2000/05/12(金) 09:27
朝から泣かせんなよぅ…
良い女を選んだなぁ、あんた。>548
心の底からそう思う。

550 :名無しさん :2000/05/12(金) 10:01
会社で泣いてるのがバレないように 目薬を買っちゃった。
「ドライアイなのかなぁ〜」なんてわざわざ周囲に言ったりして。
いつもはほとんど使わないうちに 古くなって捨てちゃうんだけど
今度のは もう半分に減ってる。

551 :>549 :2000/05/12(金) 13:37
同感。
もう奥さん泣かしちゃだめだぞーう>548



552 :548 :2000/05/12(金) 15:32
今、改めて自分の書込みをみた。改めて自分の身勝手さに
呆れた。(文章も変だった)
皆さんレスありがとね。
今日はケーキの一つや二つ、花の一本や二本でも買って
帰ろうと思った。誕生日でも何かの記念日でもないから、
きっとあいつは変な顔するかも知れないけど。

553 :名無しさん :2000/05/12(金) 16:23
初めて見て、全部読みました。久々に号泣してしまいました・・・
色々思い出して私も一つ・・・

小学生低学年のころ、両親は共働きで私は毎日学校が終わると、妹を保育園までを迎えに行っていました。
母は、パートではなく正社員で働いていたため、帰ってくるのは夜の7時とか8時・・・。
うちには作り置きの食べ物も無く、あるのはサッポロ一番だけでした。
おなかが減ったら泣き出す妹に、サッポロ一番を作ってあげて一袋を2人で分けて食べていました。
ちょっとでもゴージャスにしようと思って、とき卵を最後に落とし込んでかき混ぜると格別においしかったのを覚えています。
(麺は硬めと、子供ながらにこだわりまであった^^;;)
正直言って、子供のころに母の手料理を食べた記憶があまりなく、
トラウマか、つい最近までインスタントラーメンが食べれませんでした。
今、小規模ながらも一事業主として1からスタートし、成功している母は、
「あんたが子供のころ、妹を面倒見てくれたから、お母さんは成功したんよ。
あんたがいなかったら今の私は無いと思う」と泣きながら「ありがとう」と言ってくれました。
そして急に卵を入れたサッポロ一番が食べたくなって、久々に食べました。

母はその後、「それにしても今思うと、子供に子供を迎えに行かせて、しかも背の低い子供に
平気でガスコンロを使わせてたなんて・・・恐ろしいわ〜〜
よく無事だったもんだ」と笑っていました。




554 :名無しさん :2000/05/12(金) 16:30
>548
ステキな奥様で 幸せですね。
今夜は楽しいディナーになるといいですね。

私は 共働きなのを言い訳にして 最近あんまり丁寧な料理を
作ってないなぁ・・・ (反省)
今日は がんばってビーフシチューでも作ろうかな。
(家の夫もビーフシチューが大好物)
夫 ビックリするかな・・・



555 :名無しさん :2000/05/12(金) 19:44
泣ける話じゃないんですが。

自分が小学校5・6年の頃、
クラスメートの女の子からバレンタインデーに
手作りチョコをもらいました。
翌日、あれぐらいの年齢特有の「女子vs男子」感覚から
「食べたけど、うまくねー」みたいな強がりを
学校で言う(本心はウキウキだった)と、
その女の子は泣いてしまいました。
依頼、モテたためし無し! バカたれ > 俺

556 :名無しさん :2000/05/12(金) 20:25
こんなスレッド読んで泣くやつは低脳。

557 :だるまいんこ :2000/05/12(金) 20:35
>556
低脳でもかまわないよ〜ん。
素直な感性の方が人として大切だよ。

558 :名無しさん :2000/05/13(土) 00:49
どうしてもピザが、食べたかったらしい。

家に帰ってきたとき、妹の奮闘の結果が台所一面に広がっていた。
開いたままの薄力粉の袋。溶いた小麦粉がこびりついたボウル。
まだ熱いレンジの横にケチャップのチューブとソーセージの断片(たぶんサラミの代用?)
皿の上に乗っていた一切れを囓ってみたが、
それは『塩味クッキーのソーセージ乗せ』としか表現のしようない代物だった。
レシピを見る、という観念のないまま食欲の赴く限り勘だけで(!)
料理を作り始めた弟は数多くの失敗を重ね、いまでは(私を越える)
いっぱしの料理上手になっている。
ある日の夕食に出たホイコーロー(絶品だった)の作り方を訊いたところ
彼女は『クックドゥ』だと答えた。なんだレトルトを使ったの、拍子抜けした私が笑うと
妹は違うという。
「スーパーでクックドゥの後ろにある源材料名を見るの。たぶん含有量の多い順に並んでいるから
あとは食材に火を通せば、どうにかなるでしょ」

正直言って、食事を作るというごく簡単な(筈の)ことにも天賦の才能というのが存在するんだと
思い知ったのはあのときが初めてだった。



559 :ギコ猫より :2000/05/13(土) 09:28
      ∧ ∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
〜′ ̄ ̄( ゚Д゚)<  556は逝ってよし。
 UU ̄ ̄ U U  \_____________

560 :名無しさん :2000/05/13(土) 12:42
>558
話の途中で出てくる弟さんはどうなってしまわれたのですか?(笑)

561 :>560 :2000/05/13(土) 12:55
性転換に1票(ワラ

562 :ギコ猫より :2000/05/13(土) 13:58
      ∧ ∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
〜′ ̄ ̄( ゚Д゚)<  556も逝ってよし。
 UU ̄ ̄ U U  \_____________

563 :名無しさん :2000/05/14(日) 21:24
よこいっしょ

564 : :2000/05/15(月) 01:09
大学進学のため、一人暮らしをはじめたとき、
最初の3日間、母がついてきた。
いろいろな手続きなどを手伝ってくれ、
ご飯を作ってくれた。
何の変哲も無い肉野菜炒め、生野菜サラダ、白いご飯。
いつもの味だった。
これから一人で暮らす部屋での、母と私の一対一の食事。
奇妙な感覚だった。

さっぱりした性格の母は、「体に気をつけて」とだけ言って、
田舎に帰っていった。
急に寂しくなった。
そして、その後1週間、
同じ材料で肉野菜炒めを作ってみたのだが、
同じ味は出ない。
3年たった今でも、できない。
料理屋でバイトし、そこそこの腕を身につけたはずなのに。

盆や正月に実家に帰ると、親が喜んで、食事が寿司の出前や外食になる。
また、友達と遊んで飲み屋で食事をとったりする。
今度帰省するときは、いきなり帰ってみようかな。
そしたら、夕食がいつものおかずで、
あの「肉野菜炒め」が食べれるかもしれないから。

565 :名無しさん :2000/05/15(月) 06:37
>564
良い話です。
帰国して、一番食べたいものって子供の頃から熟れ親しんだ母親の
料理だったんだと最近気が付きました。
出前の寿司よりもかあちゃんの作ったカレイの煮付けが喰いたいよ。


566 :名無しさん :2000/05/15(月) 10:03
>564
俺も帰ってみたくなった。金がないのに・・・

家の味の思い出といえば、コロッケかな?
何の変哲もないコロッケだけど
むちゃくちゃうまいんだよね。
コロッケのしたくの際によく手伝わされてさ。
夕方のアニメ見ながら芋をつぶしたり丸めたり。
丸めながらつまみ食いしてた。

今一人暮らしだから、「揚げ物と言えば総菜屋」になってるんだよね。

前に実家に帰ったとき
「何食べたい?」と言われて「コロッケ!」と即答したら。
実家に住んでいる弟からブーブー言われた。
「せっかくご馳走食べられると思ったのに・・・」だってさ。

毎日コロッケでもいいな・・・

567 :ギコ猫より :2000/05/15(月) 10:28
     ∧ ∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
〜′ ̄ ̄( T_T)<  逝逝スレッドだな。
 UU ̄ ̄ U U  \_____________

568 :名無しさん :2000/05/15(月) 23:11
あgE!

569 :名無しさん :2000/05/16(火) 03:10
ばーちゃんの作ったチキンライスが食いたい。
ばーちゃん曰く、それはチャーハンだったんだけど、
ガキん時によく作ってもらった。
うまかったよ。大好きだった。
2年前にばーちゃんが倒れたと連絡があったとき、自分で
チキンライスを作って願をかけた。
マジで泣きながら作ったよ。
ばーちゃんは命を取りとめはしたけど、もうオレが誰かも
わからない。
もう一度食いたいよ、ほんと。

570 :名無しさん :2000/05/16(火) 11:22
あげておこっと!

571 :名無しさん :2000/05/16(火) 11:26
両親が商売を始めたので同じだけ仕事をしてるのに父に労わりがなく
家事を母にだけ求めていた事で良く喧嘩をしてました。
それを見たくない一心で10歳から家事を始めた私。
冷蔵庫にある物でちゃっちゃっと3,4品のおかずを作れてしまう。
でも20代前半はそんな事ができてしまう自分がコンプレックスでも
あり、子供の頃の悲しい気持ちも思い出してしまうので彼ができても
料理はかなり信頼するまでする気になれない事だった。
逆に言えば私にとって最高の愛情表現でもあったのかな?
今迄が料理できないとすら思われていたからもあるだろうけど料理
したらどの彼も「美味しい、美味しい」って食べてくれて私の心に
固まっていた気持ちも溶けてきました。
思えば10歳で必死に料理できたのも弟と妹が「美味しい」って
いつも喜んでいてくれたから。
「美味しい」って魔法の言葉ですね。


572 :名無しさん :2000/05/16(火) 12:05
私が帰省したときの食事は豪華だったんだけど父の好物ばかり(笑)
父が「自分が好きなものはみんなが好き」と思い込んでいるため。
最後の日はわたり蟹のお味噌汁だったので嬉しかったな。


573 :すぬ :2000/05/16(火) 14:10
>569さん
うるうるしちゃいました。(T_T)

>571さん
あなたのごはん、きっととても美味しいんでしょうね。(^_^)
「美味しいものを食べさせたい」っていう優しい気持ちは、何よりも
いい調味料だと思います。

574 :名無しさん :2000/05/16(火) 15:45
カツ丼。

母親が不倫していることがわかり、離婚前提で
別居して夜、父が出前で頼んだ夕飯。

たべたくないけど無理矢理詰め込んだ。
大好物なのに少しも美味しくない。


575 :名無しさん :2000/05/17(水) 03:07
7、8年前中国に旅行に行ったときの話。

あるホテルの食堂でいくつかの料理と「青竹なんたらかんたら」と
あるスープを頼んだ。中華は最後にスープがくるので、ほかの料理を
食べたあと待っていたのだが、30分近く待ってもなかなかこない。

あの国はサービスが適当で、いろいろな料理屋でずいぶんと
待たされることがあり、そのとき入ったところでも「どうせサボって
いるんだろ」と日本人的・厨房的感覚で馬鹿にしていた。

40分ほど待って、ようやくスープがきた。お盆に竹筒がのっている。
大きなどんぶりに入ってくるスープを予想していたのだが、
「あれっ」と意外な感じがした。竹筒に竹のふたがしてあり、
それをとろうと竹筒をつかむと、とても熱い。あちあち言いながら
ふたを取ると中にスープが入っている。どうやら、竹の中に材料を入れて
延々あつあつになるまで蒸したらしい。竹筒は陶器と違い熱の伝わりが
悪いだろうから、時間がかかるはずだ。瞬間、それまでの自分の考えを反省
した。さすが、食にこだわる国だ。

味は、中華風コンソメともいうような感じで、牛肉の小さな塊とねぎ、
香ばしい木の実が入っており、全部食べ終わってから「もう一度同じ
時間まつからおかわり」というくらいのおいしさだった。

たかだかそれだけのことだが、いっぱいのスープに「自分の浅はかな
考えや経験だけで世の中をつかもうとするなよ」と教えられたような
気がした。それ以来、料理を待つということに関してはたいがい
腹を立てないようになった。

576 :名無しさん :2000/05/17(水) 09:55
ageついでに・・・

先日 夫の誕生日、 急いで会社から帰ってご馳走を作った。
ご馳走とはいっても とんかつ、カニ、雲丹、エビフライ、ハンバーグなど
栄養のバランスも何も無い、ただ 夫の好物だけを作って並べた。
(ほとんど野菜の無い食卓)
「あー美味かった〜」とTVを見ている夫の前に とどめにデザートのスイカ。
(スーパーのタイムサービス品)
「ぃやったぁーーーー!!!!」
目を輝かせてスイカに飛びつく夫。

「美味かった」って言ってもらえただけ まだましかな?
ちくしょー いつかスイカを越える料理をつくってやる!!!

577 :名無しさん@1周年 :2000/05/17(水) 14:10
このスレッドが消えなくて良かったと思いつつあげ。

578 :名無しさん :2000/05/17(水) 16:59
不倫していた19の頃。
一人暮らしを始めたばかりで料理は上手なんかじゃないけど
まあ普通にするくらい。
その男は美味しいとも不味いとも濃いも薄いも言わずに
毎晩うちでメシを食ってはすぐに眠りに入るというとんでもないやつで、
あたしは何でもいいから一言が欲しくてイライラしてた。

ある日その男は、ササミを炒めて塩コショウしてくれとリクエスト。
つくって出したら、あたしが先に出してた大根の煮たのとか
一応手間をかけたのには手を付けず、
うまいうまいとササミばかり食べる。
「簡単だろ?つまみにもなるし」と得意そうに言いながら。
それがとても嫌だった。もっとやさしくしてほしかった。

今の彼はご飯をつくるのがとても上手で、買い物もいつも一緒に
してくれるけど、ササミは実は買いたくない。

579 :名無しさん@1周年 :2000/05/17(水) 17:12
泣けるネェ、ぐぐぐ。

580 :名無しさん@1周年 :2000/05/17(水) 22:19
昔大学に行って初めて一人暮ししたとき。
荷物や何かを一緒に運んできてくれた両親が帰った次の日の夜、
さあ一人で晩御飯を作って食べようと、台所に立った。
で、いつも家事を手伝っていた調子で、ハンバーグを作った。
3人分位作ってしまった。
焼いて、付け合せの野菜切って、綺麗に盛り付けてとしてる間に、
面白くて笑えるテレビを大音量で付けてたのに、やっぱり
寂しくてたまらなくなってきた。食卓についた時には
もうハンバーグはひどく味気ない、おいしくない代物になって
しまってた。

いつもは晩御飯を作っておいたなら、両親が「美味しい」
「綺麗に盛り付けたね」と誉めてくれて、嬉しそうに食べて
くれてたのに、このとき初めて気がついたのですね。それまで
当然のように流して聞いていたので、それがどんなに嬉しい
ことかと考えもせずに。

 まだ見知らぬ土地で友達も居なかった時で、何もかもひどく
さみしかった。ほんとに一人っきりになった気がした。電話もまだ
部屋に繋がっていなかったので、数百m先の電話ボックスまで
走って行って、晩御飯にハンバーグを作ったという話を、
泣きながら話してた。電話ボックスの丸見えのガラス張りが
ひどく恥ずかしかったものです。

 ハンバーグはその後、ピーマンに詰められたりミートボールに
なったりと姿形を変えたけど、なくなるころでないと泣かずに
電話出来たこと無かったなあ・・・。

581 :名無しさん@1周年 :2000/05/18(木) 00:54

……いやぁ、滲みる。
なんか気持ちの深いところにじわじわと滲みます。
しかも実はたいしたことない話(失礼)の方がよけいにキますね。

ついでに記憶の中の思い出したくないことまでふと浮いてきそうでちょっといやですが。

582 :名無しさん@1周年 :2000/05/18(木) 10:31
よいしょっと。
あげておかないとね。

583 :このスレッドは2ちゃんの良心 :2000/05/18(木) 21:04
昔自分が通っていた中学校は、小学校とは違って給食がなく、
購買部も金銭トラブルとかで無く、生徒のほとんどがお弁当を持ってきていた。
そして僕が中学1年になりたてのころに、弁当を食べていた10人ほどの
グループの中で「今日の弁当の1番は誰?」とかいう各付けが流行っていた。
1番になるのはいつも運動部をやっている人がほとんど。
まあそういう人の母親は家事を見事にこなす専業主婦が多いわけだから、
当たり前なのだけど。自分の母親と祖母は外に働きに行っていたので、
お弁当もその人たちと較べると、貧相か手抜きに見えていた。
それでも、自分はありがたく食べていたのだったが、あるとき自分の弁当に
とても腹がたって、むかついて一口も食べずに帰ったことがあり、
母親に「お弁当をもう少しなんとかしてよ。」「OO君のはさ〜。」とか言って、
母親を泣かせてしまったことがあった。
母はその夜から料理の本を熱心に見るようになった。
そしてそれ以来、母や祖母が一生懸命にお弁当を作ってくれるようになった。
ある日の各付けで自分のお弁当が一番になったときは、母と祖母に
「ありがとう。美味しかった。」と自然に感謝の言葉を発していた。
今思えば、ムリをさせていたなあって思う。
ゴメンねお母さん。

584 :.>583 :2000/05/19(金) 05:49
なんかいやな奴かもと思いました。
弁当に各付けなんかすんなよ。それ変とか思わんおまえが嫌な感じ。
変とか思わんか?つらつら偉そうに書いてるけど、感動もなにもないわ
ぼけ。せっかくいいスレッドなのに勘違いして書きこむなアホ。

585 :.>583 :2000/05/19(金) 05:51
弁当各付けで一位になったから感謝か。
おまえがガキ持たないこと祈る。
心底無神経で鈍いタイプなんだろうな。
自分でわかってない分余計に最低。

586 :名無しさん@1周年 :2000/05/19(金) 06:20
>584-585
「格付け」ね。
このスレッドは荒らしたくないんで、ソフトにお願いできませんか。
それとも、わざとやってます?

587 :>583 :2000/05/19(金) 07:28
格付けで一番になったからありがとうではなくて、
どんな弁当でも愛情込めて作ってくれる心にありがとうと
言わなきゃね。出来は関係ないってこと、今は分かってる
でしょう?
お母さんを大事にね。

588 :名無しさん@1周年 :2000/05/19(金) 09:19
自分も子供の頃は いま考えるとバッカみたいで恥ずかしいような事を
平気で、しかもそれが楽しいと思ってやってましたよ。
格付け しかり。

”過去”にその人が思った気持ちに今文句言ってもしょうがないでしょう。
そういうレスこそ あまり書き込んで欲しくないと思います。

このスレ、感動もの、感涙ものが多くなってきてるので
そういったものが支持されがちだけど
もともと 「思い出」がテーマなはずなので
583さんのようなのも あり だと思います。

感動も 失敗も 後悔も 脳天気もなんでもありってことで
どんどんスレッド伸ばして欲しいですね。

589 :名無しさん@1周年 :2000/05/19(金) 11:41
定期age

590 :$BI=LL$N8@MU$N$_$"$2$D$i$M(B :2000/05/19(金) 14:36
$BJ8>O$K$*$1$k??0U$rFI$_<h$l$J$$$H$$$&$N$OHa$7$$$3$H$@!#(B
$B#5#8#3$O$=$N;~0-$$;v$r$7$?$J$!!"$H;W$C$F$$$k$+$i$3$=$"$"$$$&J8>O$K$J$C$F$k$N$G$"$C$F(B
$B$J$s$N;W$$=P$b8l$i$:HpknCf=}$K$R$?$C$F$$$k?MC#$H$O0c$&!#(B

$B46F0$b!";W$$=P$b?M$=$l$>$l!#==?M$,==?MF1$846F0$d;W$$=P$N%Q%?!<%s$P$+$j;}$C$F$$$?$i$=$l$3$=5$L#$,0-$$!#(B

591 :小学校四年の時の運動会。 :2000/05/19(金) 17:46
当時僕(現在33歳)の父は
北海道の片田舎でガソリンスタンドを経営してたのだが、
経営状態は火の車だった(結局2年後倒産)。
3年程前から資金繰りが悪化し、父はいつも金策に走り回っていた。
当時の僕にはそんなことは知る由も無かったが、とにかく父は忙しいので、
遊んでもらった記憶がほとんど無い。
そんな中母親が腎臓を煩い札幌の病院に入院。
僕はカギッ子になった。
その年の6月(だったと思う)小学校の運動会があった。
父は一度も来てくれたことはなかったので、一応運動会がある事は伝えたが、
期待はしていなかった。
お昼は近所に住んでいた友達の家族と一緒に食べることになっていた。

そして運動会の昼休み。
父が現れた。父の後ろには父が昔なじみにしていた、
寿司屋のおやじが大きな風呂敷をかかえていた。
(たぶんそこに出前を頼んだのだと思う)
校庭の片隅で僕と父はとても二人では食いきれないほどの料理を広げて食べた。
僕は泣きながらそのごちそうを食べた。
父はそんな僕をただニコニコしながらみていた。
僕はそんな父を誇りに思った。

592 :名無しさん :2000/05/19(金) 20:09
ふた親と生き別れ、父は亡くなったと風の便りで知ったので、
うらやましいです。許せないと思う気持ちと、愛する気持ちは
表裏一体のものなのだ、とわかりました。みなさん、親孝行
して下さいね。

593 : :2000/05/19(金) 20:09


594 :名無しさん@1周年 :2000/05/19(金) 21:25

彼女の蒲焼が美味しかったなあ。
遠い過去の話。

http://www.bekkoame.ne.jp/~kobatan03/jpeg/7127.jpeg

595 :名無しさん :2000/05/19(金) 21:33
http://www.bekkoame.ne.jp/~kobatan03/jpeg/7127.jpeg
http://www.bekkoame.ne.jp/~kobatan03/jpeg/7111.jpeg
http://www.bekkoame.ne.jp/~kobatan03/jpeg2/7083.jpeg
http://www.bekkoame.ne.jp/~kobatan03/jpeg/7130.jpeg
http://www.bekkoame.ne.jp/~kobatan03/jpeg2/7043.jpeg
http://www.bekkoame.ne.jp/~kobatan03/jpeg/7051.jpeg
http://www.bekkoame.ne.jp/~kobatan03/jpeg/7030.jpeg

596 :583です :2000/05/19(金) 22:57
各付けの話を書いた583です。
不快になった方がいたみたいなので、深く謝ります。
あの文章で言いたかったのは、忙しい母や祖母に迷惑をかけていたことへの
悔恨と感謝です。本当は一生懸命にお弁当を作ってくれたときから
とても感謝の気持ちで一杯だったんですけど、気恥ずかしさもあって
あの日にようやく言えたってことを伝えたかったのですが、文章が下手で
そのことが上手く表現できませんでした。本当に申し訳ないです。

>弁当に各付けなんかすんなよ。それ変とか思わんおまえが嫌な感じ。
すいません。当時はそういうことを気にしないでいられるほど、大人では
なかったものですから。
>弁当各付けで一位になったから感謝か。
前に書いたのですが、いつも感謝していました。本当です。

ちなみに、腹がたった弁当の中味はふりかけをかけたご飯と、
夕飯の残りのおかずでした。あと煮物がちょこっと入っていたかな。
ちゃんとしお弁当なのに、それに対して怒った自分をとても恥ずかしく
思います。

今子宮ガンで入院してるお母さんにほんと、謝りたいぐらいです。
「お母さん。はやくよくなってね。」

597 :名無しさん@1周年 :2000/05/20(土) 04:13
>583
あなたはいい人ですね。まあ読んだ時点でみんなわかってると思うけど…
雰囲気いいスレッドなので、あらされないことをのぞみます。
私は母にごはんつくってもらったことないけど(働いてるので)この世でいちばん
好きです。今になると、たまに実家帰ったときなどつくってくれたりするけど
ぜんぜんおいしくない。でもそれがまたいいんです。

598 :名無しさん@1周年 :2000/05/20(土) 04:32
>583さん
私も気持ちわかるよー
多分たくさんの人が同じだ!
気にしないで

599 :名無しさん@1周年 :2000/05/20(土) 08:02
583さんを責めなくても・・・
このスレッドの他のエピソードにも時々ありますが、自分がコドモだったこと、
残酷だったこと、うまく言葉にできなかったこと、周りの雰囲気に流されて
しまったこと・・・今大人になって、それに気付いてるってことが大事なん
じゃないかな。
583は今ではわかってるんだよね。同じクラスにいた子たちも大人になって
気付いてくれてるかな。

「んなこと、オマエがフォーローせんでもわかっとるわい!」
ってツッコミ覚悟で書いてます。いや、そういう人が多いほうが嬉しい。
583さん、お母さんを大事にしてね。

600 :名無しさん@1周年 :2000/05/20(土) 09:18
ほんとうは感謝してても、中学・高校時代の男の子って
それを表面にだそうとしないからねぇ。
なんかすごく、懐かしい感じ、です。

601 :食べ物に関して :2000/05/20(土) 09:45
子供の頃に不満に思っていたことが今逆の立場になって痛感してます
もっともっと感謝すべきだったなぁ

関係ないカキコですいません


602 :ううう :2000/05/20(土) 13:46
うう。暖かい涙が。

603 :名無しさん@1周年 :2000/05/20(土) 16:38
子供のころのオヤツの思い出を書かせてもらいます。
私の母と祖母(姑)は折り合いが悪く、また父も昔気質
の人間でしばしば母に暴力を振るうそんな環境でした。
殊に祖母と父の兄夫婦(わたしの伯父夫婦)がいっしょ
に母を責め立て、しばしば母を泣かせ、追いつめるのを
見るのが子供心にも苦痛で、たまらなかった。
そのなかで母の唯一の楽しみはたまにいくパチンコでした。
私の子供のころ食べたオヤツの記憶はパチンコの景品のお菓子。
かなり飽きがきていたのですが、母が泣きながらパチンコをしている
のを私も妹も知っていたので文句が言えなかった。
なにせパチンコの景品ですから、あまり気の利いたものはなかったんですよ。
森永エールチョコレートとか、都昆布とか。缶詰もありましたね。

やがて祖母が死に、数年たつと突如母の逆襲がはじまりました。母を虐めた
伯父夫婦に対し絶縁宣言をしたのです。母の変身に驚き、うろたえる父に対し
母は「自分をとるか、兄夫婦をとるか」の二者択一を迫りました。けっきょく
父は母をとり、兄夫婦と絶縁しました。パチンコで鍛えた勝負度胸の差で
しょうか。それ以降、父は母に対し暴力を振るうでもなく従順な良い夫に
変身をしました。

現在、父はすでに亡くなりましたが、母はますます元気です。月に1度
二人の孫(私の子供)に宅急便でお菓子を送ってきますが、どのお菓子に
も小さなインデックスが附いていて「38」とか「45」とか変な数字
が書いてあります。孫は大喜びでですが、私たち夫婦は顔を見合わせ苦笑い




604 :名無しさん@1周年 :2000/05/20(土) 16:56
なぜ学校の先生は給食残すとあんなに怒ったのだろう...


605 :名無しさん@1周年 :2000/05/20(土) 17:45
↑そのせいで、私は今でも食事を残すことへの恐怖感があります。
だから、人との食事ってちょっと苦手。そういう意味で、給食は私にとって
「嫌な」思い出に残る食事です。

606 :名無しさん@1周年 :2000/05/20(土) 19:49
「わかめごはん」が好きだった・・・。

607 :>604 :2000/05/20(土) 20:19
ゲロ吐かす迄無理に食わせた教師もいます。
暴力を使ってまで食わせた教師もいます。
私の時代は。

今そんなことやったら…、即刻懲戒処分ですよね。

608 :>591 :2000/05/20(土) 21:47
笑うとこじゃないってのは承知なんですが、ガソリンスタンド経営で火の車って
のがなんかツボに来たというか「本当にすげえ」と思ってしまいました。
素敵なお父さんでよかったですね。なんかじんときちゃいましたよ。

609 :名無しさん@1周年 :2000/05/20(土) 22:21
うちの父親は鶏肉が嫌いで、絶対に食べない。
俺は牛肉よりも鶏肉の方が好きなので、子供の頃は
母親が2種類の肉を買っていた。

大人になってから、理由を聞いたら
「少年時代、凄くビンボーで
 肉は(ほとんど食べられず、しかもたまに食べられても)
 鶏肉しか食べられなかったから。」
とハズカしそうに言った。

父は自分の苦労話をほとんど俺には話さなかったので、
なんだかとても新鮮な感じがした。


610 :名無しさん@1周年 :2000/05/20(土) 22:45
金や銀の包装紙の、お魚系のおつまみ。小さい直方体なんですけど、知ってます?
家族の中で祖父だけが私の味方でした。
私の前ではお酒を飲みませんでしたが、そのおつまみをおやつによくくれました。
祖父は私が小学校低学年の時亡くなりました。
そのおつまみをみるといつも祖父の事を思い出します。


611 :>611 :2000/05/21(日) 03:20
ツナピコのことかな?
(あえて名称を伏せてるんだったらすみません)

612 :名無しさん@1周年 :2000/05/21(日) 07:28
学校へ持っていく弁当にふりかけではなくお茶漬けをかけられた。

613 :538 :2000/05/21(日) 10:00
以前、祖父母の話を書いた538です。先日祖父と会い、色々な話しをしました。
私は愛情表現が苦手なので、気持ちが伝わったか分かりませんが、
こういう気持ちで祖父に接することができたのは、このスレッドのおかげです。
誰にお礼を言いたいのか分かりませんが、本当にありがとうございました。
祖父と会った日にふたりで食べたソフトクリームも、思い出に残るのかなー。

614 :名無しさん@1周年 :2000/05/21(日) 10:35
小五の林間学校のことです。
食事は連日、冷凍コロッケ、冷凍オムレツ、
冷凍ポテサラ、赤ウインナー、赤い寄せハムなど
子供心にも子供ををなめきった献立でした。
私の隣に座っていた女の子が、なんだか憂鬱そうです。
私「どうしたの」
彼女「よく食べられるね、こんなの」
私「どうして」
彼女「合成ちゃくしょくりょうと(ひらがなで聞き取った)
合成○○○のかたまりじゃん。オムレツだってほんとの卵じゃないよ」
私「……」どう対応して良いかわからなくなった私は、
とりあえず不機嫌そうな彼女をそっとして、食事とおしゃべりを楽しんでいました。
ふと気付くと、隣から押し殺した泣き声が。
彼女が泣いています。
ふだんクールな優等生の子なので、ちょっと驚きました。
「だ、大丈夫」と声をかけると
「もうやだ……」といって、下を向き、吐いてしまいました。
車で迎えに来たお母さんに連れられ、帰宅した彼女は
新学期以降、学校を休みがちになってしまいました。
体調不良のせいもあるけど、
彼女の家では、添加物を避ける食生活を徹底敢行していたみたいで
食べてはいけないもののオンパレードに
神経がまいってしまったみたいです
(加えて、バカなことをしてはしゃげない優等生の気苦労もあったんだろうけど。)
「買ってはいけない」を読むと、自分の子には
こういうことを小さいうちから頭に叩き込んだ方がいいか、ちょっと考えてしまいます。

とりあえず、人が食べてるものに
「よくそんなの食べられるね」と言ってはいけない、とは言うと思う……が。


615 :名無しさん@1周年 :2000/05/21(日) 10:42
614、別に省略されてないみたい。

616 :名無しさん@1周年 :2000/05/21(日) 18:28
小学校時代、食が細くて給食の食べるのも遅ければ、残すのもしょっちゅうだった。
班ごとで食べる給食では、食べるのに一番時間がかかったり、残したりする人には
罰ゲームをよく科していた。
食かんにまとめて集める残飯を一口だけ食べさせられることもあったし、班員の
食器を全部片付けさせられたり。

親もあまり給食食べていないと、友達とか先生から報告されるらしく
なんでそんなに食べないのかと、少々きつく聞いてくることもあった。
とくに、当時残したパンはきんちゃくに入れて持って帰ることになってて、
パンを持ちかえるのが恥ずかしかったり、「またなんか言われるかも・・・。」
なんて考えたりして、ちょくちょく残ったパンを机の中とかかばんのポケットに
押しこめて隠しては、見つかってやっぱり怒られてた。

1番目の子供だったし、今でも自己表現が得意じゃなかったりで、母としても
ほんとうに悩んだり、思考錯誤したりしていたことを、これを書きながら思い出す。

中学以降は通学時間がかかるところに行ったためか、人並みよりも食欲が旺盛に
なり、当時では考えられないほどの食いしん坊になってしまいました。
そして家族では現在弟がその小学校に通ってますが、毎日のようにお代わりしてるようです。
そういえば、あれほどやかましかった「パン持ち帰り運動」も、食中毒対策とかで
なくなってしまったようです。

617 :あげ :2000/05/22(月) 00:44
あげ

618 :名無しさん@1周年 :2000/05/22(月) 02:16
あげ

619 :名無しさん@1周年 :2000/05/22(月) 03:19
小学5年の秋だのこと。給食に柿がでた。私は家でも柿を食べたことはなくて、残した。
クラスのほとんどが残して、柿が入ってたアルミのバケツに投げ込んでた。
昼休み、女教師が放送で全員を教室に呼び戻した。
で、柿を食えという。そういわれても、食べかけやら吐き出した種やらがぐちょぐちょに混ざった
ものをどう食えというのか。教室は騒然となった。
教師は、「目をつむってバケツに手をいれ、はじめに触れたものを取れ」
不正がないように、教師がそれを見張るという。
五時間めのチャイムが鳴っても、泣き出す子がいてもキレた女教師は許さなかった。
私は誰かの歯形のついたものを涙といっしょに飲み込んだ。
吐き気を必死にこらえた。だけど、他の子が吐いちゃって、つられて吐く子がでた。
女教師はそれでも私たちを許さなかった。

あれから20年近くたっても柿は食べられません。あのときのクラスの子、
ほとんどの子がそうなってしまった。
オトナになって、えーすごくおいしいのに〜とか言われると、かなしい。
おいしいはずのものをこんなに拒絶するトラウマつける教育っていったい・・?


620 :すき焼き :2000/05/22(月) 10:55
私が子供の頃、うちの実家はすき焼きと言えば豚肉が常だった
それを友達に言ったら「なぜ牛肉じゃないのか?」って怒られた。
でもそんなの気にしてなかった。豚でもじゅうぶん美味しかったし

先日、実家に帰ったときにすき焼きが出てきた。中身は牛肉だった
母親に思いきって聞いてみたら
「あの当時は牛肉が高くてね。あんた食べ盛りだし質よりも量を食べてもら
いたかったから。あたしの家(母親の実家)は戦後すぐで食べ物が無くて本当に
苦労したから、あんたたちがお腹をすかせる事だけはしたくなかった」
って言われた。

今度、実家に行った時はぜひ豚肉のすき焼きを作ってもらおうと思っている。


621 :>620 :2000/05/22(月) 18:41
ウチもね、幼少の頃のすき焼きは豚肉だったよ。豚肉以外のすき焼きは
考えられなかった。理由は多分620と同じだと思う。親には聞いてないけど。
牛肉のすき焼きを食ったのは、社会人になってからだな。
つーかネタになってなくてごめんよ。

622 :名無しさん@1周年 :2000/05/22(月) 22:02
>620
我が家でも全く同じ理由で豚スキでした。思い出そうとしても牛肉の料理は
浮かびませんねえ(苦笑)

いま、私の家の周囲には肉の安売りを看板にするスーパーが林立し、牛肉の
値段の安くなったのには驚きます。
先日「たまには豚肉のスキヤキが食べたい」といったところ、家内に
「ゼイタク言わないで!」と叱られてしまいました。
すでに自宅周辺では豚肉と牛肉の価格逆転がもう数年前からの常識だそうです。
ただただ苦笑いでした。



623 :名無しさん@1周年 :2000/05/22(月) 23:49
>620

うちではずーっとすき焼きは牛肉でしたが、
それ以外の肉料理では、豚・鳥・くじらばかりでしたね。

ビーフステーキは、年に2回あったかなあ?

624 :モトイタ :2000/05/23(火) 00:40
小学校の給食で、付け合せに「にんじんのグラッセ」が出て、
当時、肥満児への道を突き進み掛けていた、僕は、お替りで山盛り人参を
食べていたが途中で気持ち悪くなってしまい、
その後、にんじんが嫌いになりました。

何年か後、6年生になり、その日の給食のメニューは「おでん」、
僕は、おでんを盛っている、鈴木さん(女子、仮名)に、
「人参は、入れないでね」と言うと鈴木さん(仮名)は、
お皿に 人参ばかりを盛り始めました。

怒った僕は、「(おでん)もう要らない!」と、自分の席に戻りました。
直後、日直が、頂きますの挨拶をしましたが、僕は、自分だけ おでんが
食べれない事が悔しくて、思わずポロリと涙が...
涙を流した後、鈴木さん(仮名)が、
「(食べたいなら食べたいって)言えば、いいじゃん!」と言って
おでんを(イヤイヤ)盛ってくれました。

多分、鈴木さん(仮名)は、あの時の事を覚えていないだろうけど、
僕は、おでんの人参を見ると、今でもあの給食で、一人だけ おでんが無い
悔しさと悲しさが鼻の奥を刺激します。

因みに、自分では おでんに人参を入れません(笑)
昨日の夕飯の人参も奥さんに隠れて、ムスメに食べさせました。

625 :名無しさん@1周年 :2000/05/23(火) 07:39
いいスレッドですね。私もひとつ思い出しました。
私が高校生の頃。放送部員だった私は、その日放送室で校内放送の
制作をしてました。アナウンスをしてたら、もう3月だというのに、
両手が真っ青で冷たくなるのです。おかしいなあと思いながら、
部活を終え、寒くはなかったのに手をあっためたくて紙袋に5つも
たいやきを買って帰りました。そこのたいやきは、あんこがいっぱいで
大好きだったんです。家に着くと人だかりが。
とりあえず母親を見つけ事情を聞いたら、おばあちゃんが死んだとのこと。
つい3時間程前に、畑で抜いた大根を洗いに川へ入って溺れて死んだって。
その頃って、私の両手が真っ青になってた頃じゃん・・・。
とにかく驚きと混乱でふらふら自分の部屋へ行き、何をしていいのか分からず、
とりあえずたいやきを必死で食べた。むせながら、味とかもわからんくて、
4個めぐらいでたいやきが、塩っぽくなり、食べ終えたあとぼおっとしてたら
たいやきの入ってた紙袋がいい匂いで、あったかくって、それでやっと泣けた。
そのおばあちゃんは、小さい頃いっしょに住んでたけど、
嫁であるうちの母親に追い出されてしまった人で、気性の荒い母によく
しかられていた私をかばって、また母にいじめられてしまう人でした。
私は今でも、おばあちゃんは放送室の私に、死ぬ前に会いにきて、
手を握っててくれたんだと信じています。
そしてたいやきを見ると、いろんなことを思い出します。
特に、茶色の紙袋入りの。



626 :>625 :2000/05/23(火) 08:49
ほろほろ・・・。朝一番に来そうだよ・・・。

627 :名無しさん@1周年 :2000/05/23(火) 15:18
あげ、よいしょっと。

628 :名無しさん@1周年 :2000/05/23(火) 20:13
厨房時代の冬、家出をした。最初の頃はツレの家を泊まり歩いていたが、
やがて行く所もなくなり、野宿もキツくなり、空腹も限界だった。
そこで、「婆ちゃんの店」を思い出した。
通学していた小学校の前にあった、文房具屋も兼ねる駄菓子屋だが、食料品も置いていた、
俺が幾多の万引きを繰り返してきた店だった。
・・・店に行くとあの頃と同じく無人だったので、容赦なく魚肉ソーセージを万引きした。
やがて、婆ちゃんが出てきたので「ジャンプない?」と聞くと(ないのは分かっていた)、
「ないよ・・・明日だよ」と笑顔で言った。俺は無言で店を出た。
夕暮れの誰も来ない小学校の体育館の裏で、俺は魚肉ソーセージを貪り喰った。
食べながら、情けないやら寂しいやら寒いやらで、涙が止まらなくなった。
そして、俺の家出は終わった。

やがて春が来て、「婆ちゃんの店」の前を通ると「忌中」の紙が貼り出されていた。
俺はそのとき初めて婆ちゃんの名前を知った。

あんな惨めな食事はしたくないと思いながら今まで生きてきた。
もちろん、万引きをやめたのは言うまでもない。



629 :うーん :2000/05/23(火) 22:24
>628さん
魚肉ソーセージ、一杯あげる。涙と一緒に。

630 :名無しさん@1周年 :2000/05/24(水) 00:29
創作活動ごくろうさん
なぜか「ムー」の「私のミステリー体験」を連想させるな

631 :名無しさん@1周年 :2000/05/24(水) 02:58
私が高校何年かの元旦、我が家では珍しく家族4人全員が食卓に
揃い、「あけましておめでとう」と挨拶を交わした直後のことでした。
お雑煮が出来るのを待つほんのわずかな間のちょっとした会話が元で
かんしゃく持ちのパパンが突然キレ、「でーい」とばかりにテーブル
をひっくり返してしまったのです。ママンが前日、面倒だ面倒だと
ぐちぐち言いながらも結局作ったおせちやらお煮しめやらは一瞬に
してぐっちゃぐちゃ。かなきり声を上げて泣き喚くママン。その声に
さらに怒りが増幅したのか、花かつお(うちの地方ではお雑煮にけずり
節をふりかけるのが習わしなので、それ用に袋入りのけずり節がテー
ブルに置いてあった)をわし掴みして散らばった料理の上にぶちまけ
るパパン・・・お前は花咲かじいさんかっつーの。
まさに阿鼻叫喚地獄絵図。自閉気味だった弟(当時小6か中1くらい)は
この吉外沙汰に黙って二階の自分の部屋へ・・・。
その後私は、ママンとともにまだイケてる料理を拾い集め、再び器に
盛って食したわけですが、そのときの、いつもよりかつおのダシが効いた
煮しめの味が忘れられません(涙)。
ちなみにうちのパパンはお酒は一滴も飲めません。にもかかわらず「正月
だから」という理由で「ママ、おちょうし付けてよ」と調子に乗った
のを「やめとき、もったいない。どーせ飲めへんくせに」と一蹴されたが
ために起こった悲劇でありました。
度しがたや度しがたや。

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0ch BBS 2004-10-30