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思い出に残る食事

307 :名無しさん :2000/04/01(土) 20:29
あまりにもいいスレッドだったもんで、家族に見せようと夕べ印刷した。
午後9時の段階で66ページ!一時間かかりました。
今ばあちゃんが読みふけっております。

高校の時、天体観測会の名目でクリスマスイブに学校で一晩過ごした。
クラブの現役やOB、部外者も入れて20人いた。
部員の一人が手作りのデコレーションケーキを2個持参してきたが、
1個を10等分に切るのはちと難しい。どうしようか、と聞かれて
私は全員に言い渡した。「よし、みんな箸を持て。」
鍋物を突っつくように20人で2個のケーキを食べた。
「フツーするか?こんな食べ方(笑)」とウケつつ2個のケーキは
あっという間になくなった。
今でも正月恒例のOB会なんかで当時のメンバーが集まると話題になる。

308 :もっと読みたいので :2000/04/02(日) 14:21
あげ。

309 :名無しさん :2000/04/03(月) 18:21
あんまり食い物の話とはいえないのだが・・・

1年半ほど前2年ぶりに帰省した。
幼い頃の友人に会ったり、親戚のうちを回ったり。
全て弟が運転してくれていた。
弟は高校卒業後定職につかずぶらぶらしていた。
そんな弟があまり好きじゃなく、
いつも餓鬼扱いしていた。

東京に帰る前日、二人無言でラーメンをすすっていた。
「にーちゃん、明日どうする?」
「わかんねぇ・・・」
交わす言葉はこれぐらいだった。
ラーメンを食べ終わり一服していると・・・
「にーちゃん、明日時間があったら、じーちゃんの墓参りいかねぇか?」
いままで、祖父の法事にさえ面倒くさいと言って出なかった弟の口から出た言葉だと思えなかった。

次の日、朝早くから祖父の墓参りに出かけた。
途中で花を買ったり、酒好きだった祖父の為に酒を買い
祖父の吸っていたタバコを墓前に供え・・・

弟よ、今おまえを誇りに思う。
俺は東京で何とか生きている。
まだまだ帰る事はできないけれど、
今のおまえがいる限り安心して東京にいられる。
ありがとう、これからもよろしく。

また美味いラーメン食いにいこうな・・・。

310 :マタタビ酒 :2000/04/03(月) 21:32
大学生の頃のことなのでもう10年以上経っているのですが、
当時の彼とはもうだめなんだろうな、と薄々感じてはいたものの、
別れるのがつらくてだらだらと付き合っていました。

2月くらいだったか、試験も終わって冬休みだったんだけど、
成績の発表(単位の修得状況発表)があったので
学校のある街へ出かけていきました。
彼と会わずに発表だけ見て帰ろうと思っていたのですが、
学校に行くはずの私の足は、彼の下宿の方へ。
そこでいつものようにとりとめのない時間を過ごして、
夕方、私は一人で学校へ行きました。

私の方は無事、進級できたのですが、そこにいた彼の友人が、
私を見て、「○○○(彼の名)、まずいよ」と言ったのです。
名簿で彼の名を確認すると、落ちていたのです、必修課目が。
私は頭の中が真っ白になって、それでも何を思ったか駅前で
みたらし団子を何本か買い、ふらふらと彼の下宿へ帰ったのです。

今見て来たことについて話すと、彼は学校へとんで行きました。
残された私はみたらし団子を半分食べ、残りを置いて帰ったのですが、
だんだん彼が留年するという実感がわいてきて、彼が学校を辞めて
もう会えないかもしれないと思い、次の日また彼の下宿に行くと
彼は留守で、寒い部屋の机の上に、彼の食べかけの、冷えて固まったみたらし団子が。

あの時、どうしてみたらし団子を買っていったのか、今ではもう思いだせませんが、
今でも時々みたらし団子を見ると、彼の下宿の、冷たい空気を思い出します。


311 :名無しさん :2000/04/03(月) 22:37
帰宅途中に思い出した。

冬の寒い夜に同期の友人たちと鍋パーティーの約束をした。
材料は実家に頼んで送ってもらうことにした。
適当にたらの切り身でも送ってくれとだけ伝えておいた。

2日後家に着いたクール便は・・・
発泡スチロールの大きな箱に、
たらが1尾、毛蟹が5杯、カキが十数個・・・
白菜まで入っていた。

母上様、
3人で食べるといったのに、なぜ毛がにが5杯も入っている?

おかげで楽しいときを過ごせた。
いまだに仲間内では伝説になっているぞ。
ありがと。

312 :小学生の頃に :2000/04/04(火) 12:52
母が天丼に「そばつゆ」と間違えて
「アイスコーヒー」入れて
私達兄弟に食べさせた。悪意が無かったとはいえ
あまりのまずさと変な苦さに、二人で泣いた。

(母はそばつゆを自分で作ってタッパーで保存
していた。同じ形の別のタッパーにアイスコーヒーも
入れていたので「うっかり間違えた」らしい・・・)

313 :まい :2000/04/04(火) 16:57
(「あめぞう」にも書いた事ある内容ですが・・・)
幼稚園の頃お絵描きの時間に先生が
「大好きなものを描いてね」といういやに抽象的な
テーマをだした。
みんなは、「おかあさん」とか「愛犬」とか「お花」を
描いていたが、私は、画用紙一杯に茶色の丸を
何個も何個も描いた。先生の「これ、なあに?」の問いに
「とりのからあげ!」と元気に答えた私。
教室内は大爆笑、「だって、好きなものって言ったやん」と、子供心が傷ついた。その絵を、返却され家に持って帰る事になり「お母さんも笑うかなあ、」と心配になったが、お迎えに来た母に「好きなもの、から揚げ描いたら先生も皆も笑ってん。」ここまで話すのが精一杯で
大泣きしてしまった。
母は満面の笑みを湛え「そっかあ!」とその足で
すぐスーパーに行き鶏肉をいっぱい買って来て
その日の夜と、次の日のお弁当にから揚げを
入れてくれた。
年子の弟がいたので、「お姉ちゃん」というプレッシャーがあったのと、食が細かったので、
「これが好き」とか「これ食べたい」とかあまり
言わない子供だったので母はすごくうれしかったみたい
父も「この子は酒飲みになるぞお」とうれしそうに
から揚げをたべていた。
期待を裏切らず酒飲みになり、あてはいつもから揚げ
身長も171センチと大きく元気に育った。

「から揚げの絵」は、いまも大切に実家に保管して
ある。
おかあさん、ありがとう。

314 :名無しさん :2000/04/05(水) 01:19
給食に私の大嫌いなチーズが出たとき

一年生   先生が給食を残してもいいという考えの人だったので残してた
二年生   隣の席の子にあげていた
三年生   ごみ箱に捨てて怒られた
四年生   窓の外に投げて怒られた(こっそりとやったのになぜかばれた)
五年生   壁にすりこんで、掃除のときにそこを拭いといた
六年生   ポケットに忍ばせてトイレで流すというゴールドパターンを覚えた

それにしてもたかが給食をどうして残しちゃいけないんだろう
残すのがダメだとしても隣の子にあげるくらいい気がするけど



315 :どんべい :2000/04/05(水) 03:11
母とあまり仲が良くなかった祖母が作ってくれた、親子丼。
汁気が多くて、今思うと親子丼って感じじゃないけど、おいしかった。
ちょっと悲しい死に方(というか、15年前から行方不明。寒い時
だったから、死んでるよ。)だったので、悲しい思い出の一品になった。

それから私は、鶏肉大好き人間になった。
高校卒業して、就職で田舎から大阪に出てきた私は、
ストレスがたまると、田舎には無かったケンタッキーフライドチキン
をやけ食いし、彼氏ができて、こっそりダイエットに励んでた時は
鶏肉と大量の野菜を酒蒸しにしたのを食べ、
お金が無い時は、皮とキャベツやもやしを炒めて食べた。
実家の事を思い出すと、大好物だったささみの刺身を思い出して
もわーんとした気分になる。

どこのスーパーに行っても、鶏のから揚げを、つい買ってしまい
でも、全然あきないようになってしまったのは、
ああ、おばあちゃんのせいなのね、と認識させられたこのスレッド。
これからも、嬉しい時も悲しい時も、
どんな時も鶏肉を食べていくでしょう。

あの親子丼が食べたい。でも、もう食べられない。
そんなこんながあって、みんな大人になっていくのね。
みんないっしょだ。
長文申し訳ないです。でもどうしても書きたくて。ごめんなさい。

316 :> :2000/04/05(水) 04:38
高校の悪友たちと、高三の夏に泊まりがけで海水浴に行った。
夜、テントでメシを食おうとして、持ってきた「日清焼きそばUFO」を取り出したが、当時、水不足で断水中だったため、どうしても水が手に入らなかった。
仕方なく、皿ウドンのような麺にソースをぶっかけて、みんなでかじった。ゲラゲラ笑いながら。
今となっては、懐かしい想いで。

317 :ぁゃιぃ :2000/04/05(水) 06:00
あまりにもいいスレッドなのでage
帰ってから読みます。

318 :名無しさん :2000/04/05(水) 07:05
中学の時、林間学校の朝食で大嫌いな納豆が出た。
残していたら、周囲の席の連中が、
「残しちゃダメなんだよー」「なんで食べないの」と
やたら責めてくる。
半べそかきながらむりやり全部飲み込み、やっと片づけの時間に。
まわりを見ると、みんな色々残してるんだ。文句をいってた連中も。
単なる「いじめ」だったわけです。

もう絶対、嫌いなものを無理矢理食べたりしない。と心に誓った。
おかげで今でも偏食がなおらないけど、それでもいいや。
あんな思いをするぐらいならね。

319 :名無しさん :2000/04/05(水) 10:51
昔、夏休みの観測合宿に参加した時。女性が少なかったので、
(ここはせいぜい役に立つべし!)とばかりに台所に立つようにした。
料理にはいっぱしの自信があったので
そんなワタシも見てね〜な、下心もあったかもしれない。
毎食、まずまずの出来ではあったのだが、
カレーライスを作った時、給食用の?大鍋に作ったため
(山奥の学校での合宿、給食施設を使用させてもらっていた)
水量の目測を誤り、買い置きのルーでは全然足りなくなってしまった。
商店のある市街地まで車で片道一時間以上かかるのに
先生に車を出してもらい、ルーの追加買い出しをする羽目に。
しかも結局、追加しても味はするものの水っぽ〜い仕上がり。
申し訳ないやら恥ずかしいやら、トホホな気持ちになってしまった。

その当時はまぁ、許せる失敗の範囲と「自分では」思っていたのだが、
後に聞くと今も語り継がれる笑える伝説になっていると知った。
たまにカレーや大鍋料理をする時なんかに、
なんともナサケナく、寒い気持ちを思いだします。


320 :>313 :2000/04/05(水) 18:40
甥も保育園で紙粘土で「肉」をつくって、展覧会のときそれだけ
浮いてたそうです。ステーキ用みたいなやつ。かわいい。


321 :名無しさん :2000/04/05(水) 19:53
父は糖尿があって結構食事制限がある。いまは定年後家で家事手伝い。
母はまだ現役。
この前の連休私たち夫婦が義理の家の手伝いから帰ったあと、土産を取りに来たとき、
(私の家と私の実家は近い)「腹減ったからなんか食わしてくれ」
と言われたんだけど、わたしは婚家に行った気疲れからか食事作る気力なくて
「何も用意してないよ」「疲れてるから」と言ってそのまま帰しててしまいました。

このスレッド久しぶりに読んで大反省。そういえばうちの父は私の手料理食べたことないのだ。
近いうちに両親呼んで食事でもするか。でも母は多分「お母さんの作った方がおいしい」って
言うんだよね。(調理師である)

というわけで、わたしの思い出の料理は「料理のない話」でした。


322 :名無しさん :2000/04/05(水) 19:57
おっと失礼「思い出に残る食事」ね。
「思い出に残る、食事のない話」でした

323 :名無しさん :2000/04/06(木) 00:01
食事の話じゃないのですがこのスレッドみて
思い出したことがあります。

私の祖父はすごく恐い人で、明治生まれの頑固じじいっていう
言葉がぴったりな人でした。
でも、昔のヒトなのにコーラとか若者が好むような食べ物が
大好きだったんです。

私達姉弟が幼稚園くらいのときのコトだったと思います。
ある日祖父が庭の雪かきをやってて私達が手伝ってました。
そんな時祖父が突然私達たちに、「ここ掘ってみろ!」って
いうんです。
なんだなんだと掘ってみると雪で冷やされたコーラが2本出てきました。
なんでコーラが出てきたの?って祖父に聞いても教えてくれません。
祖父は庭の裏手に見える遠くの山を指差して、
「あの山から魔法使いが運んできたんだ!」の一点張り。。
コーラは250mlのやつで1本は祖父の分もう1本は私達の分。
1本のコーラを弟と分けあって興奮しながら飲んだ覚えがあります。
それから何日かコーラ掘りは続きました。
「いい子にしてないと魔法使いは運んできてくれないぞ!」
という祖父の言葉を信じその冬の私達はとてもいい子でした。
恐い祖父から魔法使いって言葉がでること自体私達にはオドロキで
しばらくは本気で信じてました。魔法使いが運んできたんだ!と。
恐いだけになんだか真実味が溢れてて・・・
まんまと騙されてました。(笑)

祖父は随分前に他界してしまいましたが、今でもスキー場など
雪のあるところでコーラを見かけると祖父のコトを思い出します。

食事の話じゃなくてホントにごめんなさい。


324 :22年前の事・1 :2000/04/06(木) 05:12
もう、22年も前の事。
専門学校生だった私は、アマチュア劇団に入り、そこで主人と知り合った。

私が入団してまもなく、その劇団の公演が池袋で行われた。
無事に公演も終わり、楽屋口に戻ると、彼が何かを探している。
財布が見あたらないらしい。どうやら盗まれたようだった。
「騒ぎ立ててみんなが厭な思いしてもなんだから・・・。」
と彼は財布を諦め、その劇場を後にした。
その夜は団員一同打ち上げを兼ね、西荻窪にある稽古場へ泊まり込み、
翌朝帰途についた。(彼の定期は無事だったのだ)
新宿で乗り換え、渋谷方面へ向かうのは私と彼の二人だけ。
「暇だったら、代々木公園にでも行こうか。」
彼にあこがれていた私は天にも昇るうれしさで
「暇です。」と即答。初めてのデートが成立したのだ。

渋谷で電車を降り、頃は昼時。そろそろお腹も空いてきたし・・・。
しかし彼は昨夜財布を盗まれ、文無しのはず。ここは私がおごらねば・・・
と、思った矢先、
「腹、減ったなあ。メシ、食べに行こう。おごるよ。」と、彼。
「あ、でもお財布盗まれたんじゃないんですか?」
「大丈夫、美味しいところ知ってるから。」
どんどん先に立って歩き出す。不安を抱えてついていく私。

325 :22年前の事・2 :2000/04/06(木) 05:17
入った先はガード下のカレー屋。
美味しそうな匂いが狭い店内に充満していた。
「なんでも好きな物頼んで良いよ。」と笑顔で言ってくれる彼。
そっと壁のメニューに目をやり、
内心、「いざとなたら私が払おう。」と思いつつビーフカレーを注文した。
出てきたカレーはとても美味しかった。
先に食べ終えた彼が脇に置いた鞄をごそごそやっている。
と、ワンカップ大関の空瓶を取り出したのだ。
からっぽ・・・ではなかった。中に小銭がじゃらじゃらと入っている。
彼は蓋を開け、二人分のカレー代を取り出すとまた蓋を閉め鞄にしまった。
それは昨日舞台で彼が持っていた小道具だった。

あこがれの人とあこがれの初デート。初の食事。
それはあこがれていた情景とはほど遠いものではあった。
けれどもあの時のカレーは美味しかった。
・・・確かに美味しかった。
見てくれなんか関係ないと言うことを厭になるほど教えてくれた味だった。

家族となり、家族が増えて、東京を離れてもうずいぶんと経つ。
主人が住んでいた渋谷のアパートは、今では東急ハンズになってしまった。
まだ、あのガード下のカレー屋はあるのだろうか。

長くてごめんなさい。

326 :名無しさん :2000/04/06(木) 13:20
泣ける話も、そうでない話も
食べることって生きていくことなんだと感じさせてくれます。

ってなわけであげ。

327 :ましゃ :2000/04/06(木) 16:49
私が結婚するまで、やきそば作りは父の担当でした。
「ほーら、いっぱい食べろよ」といって
たくさん取り分けてくれたっけ。
今度実家に行ったとき(近いけど)、また父やきそばが食べたいな。

328 :名無しさん :2000/04/06(木) 17:27
クレイジーソルトのメーカーのものではありませんが、
レモンとハーブ数種類が入っている、似てる製品があります。
(Mrs. Dashとかいう名前だったかな?)
鮭の切り身にふりかけて焼いてみたら、ものすご〜くおいしかった!
その製品には塩が入ってないので、お好みによって
付け加えてもいいし、健康を気になさる方は、そのままでも十分OK!

329 :名無しさん :2000/04/06(木) 17:32
↑うきゃ〜!違う所に書き込んでしまった!ごめんなさいっ!

330 :名無しさん :2000/04/06(木) 19:28
やってくれたぜ、名無しさん!!(微怒)

331 :名無しさん :2000/04/07(金) 15:26
友達と旅行にいったら
揃って胃の調子が悪くて
全くごちそうが食べられなかった
大雪で観光地も休みだった
部屋でパズルしてテレビみて
食事はヨーグルト1個を2人で分けて食べた

332 :あぁ :2000/04/07(金) 16:47
まだ幼稚園の頃、母親は妹の出産の為入院していた。
当然父親と私だけだったのですが、いつも食事など作ったこと
の無い父親が作れるものといったら、インスタントラーメンだけ。

暗い台所で一生懸命(?)インスタントラーメンを作っている父親
の姿が今でも目に浮かびます。

333 :名無しさん :2000/04/08(土) 00:41
子供の時野菜嫌いで、母の作る野菜たっぷりラーメンより父の作る
そのままのインスタントラーメンが好きでした。
今は自分で作りますが体のために野菜を入れてラーメンを作ります。
大人になったなあと自分でしみじみ思ったりします。

334 :名無しさん :2000/04/08(土) 10:33
魔法使いがコーラを運ぶ話良いなぁ
ウチの祖父もちょっと近寄りがたい雰囲気のする
おじいさんだったんだけど、部屋の天井に据え付けた
スポットライトをさして、「アレはここに泥棒が入ってきたら
退治するためのレーザーを出す機械なんだよ」と
刷り込み、孫を興奮させていました。ちゃめっ気のある人でした。

ウチの祖父のうちは田舎だったのでかなり広大な庭を
もっていたのですが、ここで鶏を放し飼いにしていました。
夜は木ノ上で眠っていて、鶏は飛ばないと思っていた僕ら孫どもは
驚いたものでしたが、あるとき祖父宅に行くと鶏がいない・・・
「どうしたの?」と聞くと、「客が来たので食べてしまった」
と言って、孫達をびびらせました。
これはホントに食べてしまったみたいです。

335 :名無しさん :2000/04/08(土) 16:51
数時間かけて最初から最後まで読んでたら
泣きすぎて気持ち悪くなってきてしまった。オエ〜〜
こんなに天気のいい昼間に、一人で何やってんだまったく。
朝から何も食べてないよ。


336 :名無しさん :2000/04/08(土) 21:18
たまらん あげ。

337 :名無しさん :2000/04/09(日) 01:22
5年前、6つ下の人と付き合ってて、でも歳の差を気にして悩んでた時
愛想の無い(悩んでたからね)私に、「大好物をもってきましたー。」
って言って、魔法瓶の水筒にクリームシチューを入れて
もってきてくれました。
入れるときは押し込んだのであろうジャガイモが出なくて、
面倒な事になりました。二人で笑いながら、菜箸でつぶしました。
自分で作ったらしく、大根が入っていました。普通入れませんよね。
結局、その彼とは別れてしまったのですが、
シチューを作る時に、時々大根を入れるようになりました。

楽しかった思い出のはずなのに、こうして書いてみると
やっぱりせつない気持ちになりますね。私にしかわからない気持ち。


338 :名無しさん :2000/04/09(日) 01:33
もの食うひとさん。ちゃんと見てる?
うれしいよね、こんなにたくさんの人にね。
個人的には、魚のてんぷらの話と、給食の三角食べの話が好き。
皆さんはどう思います?って話題が変わっちゃうからだめね。


339 :名無しさん :2000/04/09(日) 01:35
高校の時に学校でそうめんをしたことがあります
麺担当、氷担当、つゆ担当,薬味担当などに別れて朝から準備
先生にもクラスのほかの子達にもあきれられた
でも楽しかったよ
あ、でも樽担当になった子はもう二度とやらんと怒っていた
樽ってそうめんを入れるあの容器のことです
なんかすごく持ってくるのが恥ずかしかったみたいです
でももっと小さいので良かったのに、
何であんな巨大なすしダルみたいなのを持ってきたんだろう?

340 :AYAKA :2000/04/09(日) 03:28
給食といえば、小学校のとき同じクラスに好きな男の子がいて。
給食の時間に半で机を寄せるんですが、
そうすると、前のこの肩越しにちょうどその子が見える。
で、その子がパンを食べるとあたしもパンを、
その子がおかずを食べるとあたしもおかずを、と、
給食の時間中、ずっと真似していたのを思い出しました…

341 :名無しさん :2000/04/09(日) 04:38
私が5歳で兄が10歳だった時。母が珍しく熱を出して
寝こんでしまいました。夕飯を作る人がいなくなってし
まったので、2人ではじめてチャーハンを作ることにな
りました。母が寝ながら次はあれをいれてとか、あれを
炒めてとかの指示にしたがって作りました。八割くらい
出来たところで母が「じゃあ香りづけにお醤油をいれて」
って言ったんですが、「お醤油をいれて」ってとこが聞き
取れず、香り付けに・・・と言うところだけ聞こえまし
た。当時母親とよくケーキ作りをしていた私はそれでピ
ンと来てしまいました。香りづけと言えばバニラエッセ
ンス!!。。。。
2人ともはじめての料理だったためバニラエッセンスに
疑いを抱かずチャーハンに投入。しかもおもいっきりい
れました。。。
当然チャーハンは食べれたものではなく私は本気で泣い
てしまった記憶があります(笑)。それで寝ていた母が起
きてきて、チャーハンを一口食べてゲラゲラ笑っていま
した。結局ラーメンを取って食べる羽目になったのです
が、今でも思い出すとおかしくなります。

でも無知ってすごいですね〜。今考えるとチャーハンに
バニラエッセンスって絶対入れられないけど、まあ思い
っきりよく入れたものです(笑)

342 :>341 :2000/04/09(日) 07:07
うちも小さい頃、母が家でお菓子を作る人だったんで
なんか好きだわ〜この話(^_^)

343 :名無しさん :2000/04/09(日) 12:44
ひとりぐらしなんですが
このスレを読むと
ううっ(涙)……里心が……

344 :拙い文章ですが :2000/04/09(日) 20:00
7年前、仲の良かった大伯母夫婦が私の実家の近所に庭付きの家を買った。
それから1年程たったある夏の日、私の家族と大伯母夫婦とでバーベキューを
する計画を立てた。
何日も前からとても楽しみにしていた。
炭も買った。網も新しいものを用意した。
肉も野菜も買ってきた。
ところが前日の夜、大伯父は倒れた。
そして、その日の内に亡くなってしまった。

次の日、バーベキューをしているはずだった大伯母の家の庭には、
通夜に来た親戚たちばかりがいた。
結局、大伯父がその家に住んだのはたった1年だけだった。
血のつながっていない私たち姉妹をかわいがってくれていた。
誕生日やクリスマスには両親がくれる以上のプレゼントをくれていた。
でも私はまだ大伯父に中学校の制服を着ている姿を見せていなかった。

大伯母の家は独りで住むには大きすぎる。
私は帰省するといつも泊りに行く。
いつも大伯母は私に肉を焼いて食べさせてくれる。

6年前のあの夏の日、親に反抗した事なんてなかった良い子の妹が
なぜかしきりに「バーベキューする日、もっと早くにしようよ」と
訴えていたのを今でも思い出す。

345 :酔ってません :2000/04/09(日) 20:25
ヒック・・・

346 :24才 :2000/04/09(日) 20:37
大学4年間ずっと交際していた彼女がいた。
僕に友達が少なかったこともあって、週末は
いつも一緒だった。
大学生活=彼女との時間と呼べるほど長い時間を過ごして
いた。でもそれは自然すぎて、就職というイベントの前に
簡単に、その関係を崩してしまった。
大学生活はあまりにへいたんすぎたように思う。

一人暮らしだったけど居酒屋でバイトしていた僕は結構
こまめに料理し、彼女にも振る舞っていた。
彼女が特に気に入ってくれたのがキムチ鍋だった。

一つ年上だったけど、無邪気に喜んでくれると凄く
嬉しくて月に2回は作っていた。

省略

とにかくキムチ鍋は二度と見たく、食べたもない。

347 :名無しさん :2000/04/10(月) 02:01
ついこの間のこと。
事故などでお金が無い彼氏。
その日は天気も良くて、ハトのいる公園でぶらぶらしていました。
「ハトのエサ20円。20円ぐらいなら、いいよねえ」と一袋買いました。
でも、彼はそのエサをじーっと見てた。。。
「ねえ」って私が振り返った時、彼の口はなぜか、もぐもぐと動いていました。
「きゃーっ、何食べてんの?」って大声で言っちゃったもので
回りの子供達も「食べれるの?」って恐る恐る口に入れちゃってて。
ちょっとした騒ぎになりました。

その後「おいしかった?」って聞いたら
「こんな味」と、ちゅっとキスしてくれました。
びっくりどっきりな、食べ物・・エサの思い出でした。
ちなみに26歳と25歳の大人の2人ですので、恥ずかしいのですが。

348 :名無しさん :2000/04/10(月) 07:31
ははは、なんか↑の話、いい!
私も奈良で鹿せんべい食べてみたことが、ある。
「奈良に行って来ます」って大学の先生にいったら
「食べてみたいから鹿せんべい買ってきて」と言われ、買ったついでに
なんとなく、口へ・・・うーん、激マズでもないし激うまでもありませんでした。

349 :名無しさん :2000/04/10(月) 07:36
亡くなった祖父の手打ちうどん、手打ちそば……ジュルル(笑)
お盆の時期に田舎に帰ったら、私は手打ち職人にされてしまう。
まともに手打ちを教わったのは、孫娘の私だけ。

350 :さう゛いぼ :2000/04/10(月) 09:26
>349
代々伝えてくださいです。


351 :みそ :2000/04/10(月) 11:43
age

352 :草壱号 :2000/04/10(月) 14:53
食べた物でな無いのですが…


少し大きめの喧嘩をし、少し距離を置く約束をして4日目。
彼女は話があるから会いたいという。
その日の夜に会う約束をした。

が、結局彼女は抜けられない会議、俺は残業。
気がつくと既に夜の10時近く。
晩飯を食いに行くには少々遅い時間。
そして彼女からの連絡で俺は彼女の会社まで迎えに行った。

彼女を待ってた俺も、10時まで会議をしていた彼女も
お互い少々どころじゃなく腹が減っていたんだろう。
送る車の中で彼女が言う。

「どっかで食べようよ。ロイヤルホストとか…」
「…ロイヤルホスト?何か買って君の家は?」
「家?…うーん…ちょっと…」

俺は自分の嫌な予感を感じた。
普段、絶対そんな所で食べない彼女。
その彼女が、家に入れないで外で食べる。
しかもその場所はロイヤルホスト。間違い無い。

「いや…あのうどんとか食べようよ。ローソンの。」

半ば無理やりその方向に持っていき、ローソンで買い物。
冷凍のうどんを2個買って彼女の家に。
彼女の家に上がって、冷凍のままコンロに乗せる彼女。
暖めはじめた2個の冷凍うどん。
俺は話を切り出した。

「話…って何?」

この後は決まりの別れ話コース。
冷たい状態からコンロにかければ10分で暖かくなるのに。
俺達の仲は10分で冷え切ってしまうんだね。
でも飯を食う前に別れ話も無かったね。
食欲なんてどっかに飛んじまったよ。

結局その冷凍うどんを、食べないままに俺は彼女の家を出た。
きっと、これからも冷凍うどんを見る度に思い出すだろうな。
きっと、もう二度と買う事も無い。

353 :草壱号 :2000/04/10(月) 16:44
同じ彼女ネタでもう一つ…
ごめんね生々しいんだ、未だ記憶が。

去年の暮れ。
毎年両親は年末から年始にかけてスキー旅行に行く。
だから大晦日とかその前日に俺は実家に帰る。
何れ結婚するつもりだった俺は、彼女を実家に連れていった。
両親に紹介するために。

実家について家に上がると、スキヤキの準備がしてある。
何時も俺が帰る時は豚汁とかカレーなのに。
彼女を連れていくってんで奮発したらしい。
何時もは買わないような良い肉が用意してあった。
実際食べると、すこぶる旨い。
随分久しぶりに食べる上等な牛肉。
普段牛肉が余り好きでは無い俺も、つい頬張る程だった。
隣に居る彼女は、とても美味しそうに食べている。
彼女とこれからこういう食事の機会が何度もあるんだな…
漠然とその時俺は思ったもんだ。

今このスレッドを改めてずっと読み返して、あの時の牛肉の味と
美味しいといってにっこり笑った彼女の顔が思い浮かんだ。

354 :名無しさん :2000/04/10(月) 21:12
うーん、みんな頑張って生きてるんだなぁ。おれも頑張ろう。

355 :名無しさん :2000/04/10(月) 22:20
本当にいいスレッドだ…。

356 :名無しさん :2000/04/10(月) 22:35
両親共働きで夕ご飯を作るのは私の役目になってました。
といっても、ディナーサービスとかいって材料だけ分量もはかって
箱に入ってる配達のやつを作るだけなんですけど、当時小学4年生。
ある日、学校から帰ってくるとどうも熱っぽくて体がだるい。
二つ下の妹にご飯をたべさせなくちゃって、わかってても
どうしてもつらくて、妹ができる卵ごはんをたべててって
眠ってしまった。「お姉ちゃん、ごはんできたよ」って
起こされて「勝手に火をつかったの?」て心配しながらテーブルに
行くとそこには八宝菜ができていました。
トローってしているのをどうやって作ったのか感動したのを
今もとろみがついてる物を食べるたびに思い出します。

357 :名無しさん :2000/04/11(火) 00:09
LAの郊外のとある街に、一軒家の日本レストランがありました。うまく表現でき
ないのですが、楓や松に隠れた建物は、南カリフォルニアとは思えないようなとこ
ろでした。残念ながら、取り壊されて今はもうないのですが。
社長夫人の提案で、五人組は食事に出かけました。部屋は一つしかなく一日に一組
限定でした。懐石料理は素晴らしく、ああこの人(社長夫人)はいいお店を知って
いるんだなあと思いました。
食事が終わって、お庭や浮世絵を見せていただいているときに、オーナーのマリさ
んが挨拶に来られました。社長夫人は紹介してくれたのですが、マリさんを目の前
に、
「やまださん、マリさんはね、交換留学生だったのよね。米人の家にホームステイ
して。それが、まあ、奥さんを追い出して、ホストファーザーと結婚したのよ。弁
護士さんだったんでしょう、マリさん?ずいぶんお金持ちだったんでしょう。その
ダンナが死んでから、遺産相続で、、、ほら、ダンナの連れ子とかずいぶんもめて。
大変だったんでしょう、ねえ、マリさん。結局、このお店を始めるお金だけしかも
らえなかったのよね。連れ子がいると後妻は大変よねえ、マリさん。」
びっくり仰天してしまいました。社長夫人は、相当変わった人だとは思っていまし
たが、ここまで凄いとは思いませんでした。同時に、私の中の冷静な部分は「駐在
員夫人にだけ、おかしなことを言うわけではないんだ」と考えていましたが。



358 :名無しさん :2000/04/11(火) 00:13
しばらく後、私が五人組を抜けてから(!)、偶然マリさんと再会しました。年齢
は離れているのですが、すぐに仲良くなりました。
マ「あなたも、そういう性格だから、あの親分と一緒は大変でしょう」
み「もう、今は単独行動ですから。怒ってるみたいですけど、気にしてません。」
マ「さっきも言ったようにね、ホームステイ云々で、あの親分の言っていることは
  本当よ。でも、それを本人の前で言える人は、やっぱり、、、違うわね。歳の
  離れた弁護士と結婚して玉の輿にのったけど、相手の連れ子に財産持っていか
  れて、仕方なく食堂やって食いつないでいる、可哀想なおばさんに、どうして
  もしたいみたいね。気にしないことにしてるけどね。」
み「あっ、はああ。。。。。」



359 :だるまいんこ :2000/04/11(火) 01:11
>357、358
よその板からのコピペは止しましょう。
ここの雰囲気を壊すのはやめてね。

360 :>347 :2000/04/11(火) 02:13
うち、子供のころの写真を親が子供別に凝ったアルバムに
してたんだよね。んで、俺の奴には、
三才くらいの俺が鳩のエサを拾って食ってる写真があって…(汗
キャプションつけてありやんの。
「だめ! それはハトの分!」。。。。トホホ
自分じゃ覚えてないけどね。

覚えてるので一つ。子供のころ三つ葉狩りに連れて行って
もらったんだよね。お吸物とかに入れるあの三つ葉。
俺、ガキのくせに大好物でさ、生えてるのを、むしる端から
食ってしまった。もちろん洗ってないっす。
後で思い出したら、そこって親戚の犬の散歩コースだったん(汗
どくぜりって紛らわしい植物もあるそうだし。
でも、あのときの三つ葉ほどうまい三つ葉は後にも先にもないなぁ。
三つ葉を食べると思い出す。

361 :名無しさん :2000/04/11(火) 09:48
>357、358
生活板の、あの悪名高きスレッドからのコピペですね。あるいは、ご本人でしょうか。
あの方が来ると掲示板が荒れるので、ご遠慮ください。
ここの雰囲気がロビーや生活板と違うのが分からないですか?

362 :名無しさん :2000/04/11(火) 14:28
ずいぶん前の事、高校からのたった一人の親友がいて大学でて、就職して
からもずっと仲が良かった。
でも彼女に彼ができてから状況が変った。
素性が不明の彼で、働いている所に104で調べて電話をしたら「そうい
う者はこちらには居ません」といわれた。
彼に聞くと「ふーん、わざわざ電話したのヒマだね」と返された。
出身地もウソ、両親の事もウソ、彼のいうたくさんの友達にも会わせても
らえない。
飲みに行けば酔ってあばれる。あばれて壊した物品代も含めて店への支払
いは、私と割り勘。
彼女と同棲をしていてもお金は全然出さない、反対に彼女にお金をせびる
毎日。
彼女がお金に困っているのは良くわかっていたけれど、そんな彼と別れな
いでいる彼女に私はすごく腹を立てていて援助はしなかった。
ある日、彼女が私の職場にいきなりお弁当を持ってきてくれた。
(彼女のアパートと私の職場はすごく近い)二人で一緒に食べて、久々に
楽しくおしゃべりをした。
お弁当は野菜炒めと卵焼くらいのものだったけれど、ご飯があたたくてお
いしかった。お弁当箱を洗って返しながら
「おいしかった、ご馳走さま」といったら
彼女は「お弁当代は払ってくれないの」って。
すごくショックでお金を払いながらも、なんだか気持ちが混乱していて、
いまだったらもっと気楽に「ハイッ」って払えるだろうけれどその時はで
きなかった。
それからも彼女の彼の事が許せなくて、彼女とは音信不通になってしまっ
た。
職場で皆とお弁当をひろげてワイワイやっているとき、たまーに思い出す。
もっと心を広くもっていれば今も親友でいられたのかなって。




363 :バッカーです :2000/04/11(火) 15:17
きっついハナシだねぇ

364 :名無しさん :2000/04/11(火) 21:28
旦那が夜働いているから、私が残業すると
家には腹を減らした子供達と呆けたお姑さんだけになってしまう。
お姑さんは呆けていても、腹が減ればなんか食べるが、
当時、小学校3年生を頭に、離乳食を終わったばかりの子供までが
腹を減らしたまんま私の帰りを待つことになるので、なるべく、遅くなりそうな日は
旦那に作ってもらうか、出かける前に支度しておくようにしていた。
ある日、何の支度もしていないのにどうしても翌日の朝一番の会議の資料を
作らなければならないときがあった。
旦那はその日は早出で、子供を保育園に迎えに行き、家に連れ帰ったら即座に出勤しなければならなかった。
とにかく、ご飯は炊いてあったので、ふりかけで食べなさいと
子供に電話をかけ、なんとか仕事を終わらせ夜遅くに家に帰った。
子供達はとうに寝床に入り、気配はなかった。
夕御飯、一番下のちびもちゃんと食べられたかどうか心配しながら台所にはいると、
納豆臭いのである。子供達がみんな揃って納豆を食べた後があった。
そして、テーブルの上にはへたくそな字で長女の手紙。
「ママ、おしごとたいへんだね。ふりかけがなかったから、なっとうつくったよ。
みんなおかわりしたからママのぶんなくなったの。ごめんね。キムチでご飯たべてね。」
そんなことが書いてあった。
子供達が悪戦苦闘して納豆を作ってご飯を食べる様子を想像して、
笑えてきて、仕事の疲れは吹っ飛んだ。
もう、家のお手伝いしてもらえるぐらい、子供が大きくなったんだと思うと、
妙に幸せな気分になった。
次の日、納豆を自分で作ったことと、ちびにそれをちゃんと食べさせたことで、
普段はおこりんぼの私もむやみやたらと上機嫌で娘を褒め称えたのであった。


365 :上の続き :2000/04/11(火) 21:29
あれから2年。今では、長女と次女はあれこれ料理に興味を持っていて、
包丁仕事を手伝ってくれる。私の帰る前にご飯を炊いておいてくれるようになった。
なのになぜか、我が家の子供達は未だに母親が残業する日には納豆を食べる。

将来、納豆を見て奴らは、子供だけで囲んだ食卓を思い出すのだろうか。
それは、寂しい想い出になってしまうのだろうか、
それとも、そんなこともあったなぁと言う、子供の頃の一風景になるのだろうか。

そんなことを思いつつ、3パック100円以下で売っているおかめ納豆を見れば
必ず3パック買ってしまう私なのであった。
娘達よ、卵だけでなく、面倒がらずにネギも刻んで入れたほうがうまいぞ。

366 :名無しさん :2000/04/11(火) 23:27
いい母ちゃんだね。
寂しい思い出になっちゃう時期もあるかも知れないけど、
きっと大人になったらいい思い出になる。
俺も親の大変さとか、まだあんまりわかってなくて
(ちなみに実家暮らしの二十歳、一応職有りです。)
未だに親にムカついてみたりもして、いい子供じゃないけども
鍵っ子だった頃、一人で飯食おうとして
レンジにアルミホイル入れて壊しちゃったこととかいい思い出よ。


367 :名無しさん :2000/04/12(水) 01:26
>364・365さん。
納豆キライだけど、食べてみようかなって思っちゃいました。
自分は親になった事がないから、母親の目から見た世界って
こんな感じなんだーって思いました。
きっと子供から見たら、子供たちだけで食卓を囲んだことより、
お母さんがいっぱいほめてくれたことの方がずっと強く記憶に残ると思うから、
大きくなって思い出したらほわーんとしたいい思い出になってるんじゃないかなあ。
ずっといいお母さんでいて欲しいです。
お仕事と母親は大変だろうけど、負けないでがんばってください!

368 :PB :2000/04/12(水) 02:19
小学生のころ、市内に一軒だけあった大手ファーストフードのモスバーガー。
ある日、両親が仕事帰りに買ってきてくれることになった。
その夜は楽しみで楽しみで、兄弟3人ワクワクして待っていました。
(ワクワクしていたのは自分だけだったかもしれませんが)

帰宅した両親はニコニコ顔。
ほ〜ら!といった感じで取りだしたのは、個人経営の、100円バーガーをウリに
していた、今は無きしょぼいバーガー店のハンバーガーでした。
私は、モスバーガーのフィレオフィッシュなんかを期待していたので、正直がっ
かり。父は「こっちの方が安くて、たくさん食べられるだろ〜♪」などと上機嫌。
複雑な気分でした。
たった一個でもいいからモスのを食べたかった・・・という気分でしょうか?

その時の台詞のやり取りなど、詳しいことは覚えていませんが、父の「嬉しいだろ?」
調の笑顔と、テーブルの上のしょぼいハンバーガーと、両親の意に反して、がっかり
していた気持ちだけはよく覚えています。

親からしてみれば、子供らを喜ばしてやろう!ってしたことが、スコーンと外してる
パターンのいい例だったです。
でも、なぜそんなにモスのハンバーガーが食べたかったのは、よく分かりませんし、
父も随分前に他界してしまったので、今となってはいい思い出だなぁ。うん。


369 :モスバーガーのフィレオフィッシュ :2000/04/12(水) 02:41
うーん つらいなあ

370 :名無しさん :2000/04/12(水) 03:58
368と似たような話しだけど
小さかった時貧乏な我が家ではおやつ代は切り詰める対象
になっていて、安いものだけ食べてました。そんな私たち
兄弟に高嶺の花だったのがカロリーメイト!!
1回2回食べて気に入ってたんだと思うんだけど、カロリー
メイトがすっごく憧れでした。そんな私たちに父が「明日買
ってきてあげる」といって会社に行きました。その日も残業
だったけどカロリーメイト食べたさに待っていた私たち。
そんな私たちのために父が買ってきたものは、まさしくカ
ロリーメイトでした。し、しかしドリンクの方だった。。。
遅くまで待った挙句にあのまずいドリンクのカロリーメイト。
父親は信用ならん、と思った1件でした。

371 :>納豆 :2000/04/12(水) 12:18
いいお母さんだね。こういう家庭だと子供はきちんと育つんだよ。
手間暇かければいいってもんじゃない。
自立が早いとしっかりするし。
う〜ん感激。

372 :緑一色 :2000/04/12(水) 14:52
大学の頃、毎日自炊していて常備菜も少し作っていた。
初めて彼女が部屋に来た時、冷蔵庫の中のタッパーを見て、おかずを
届けている別の女がいると誤解し、喧嘩になってしまった。
確かに、タッパーの中味は茹で豚(醤油&八角風味)とか、筑前煮とか、
男の学生が自分で作って保存したりしないだろ普通、というものだった
ので、いくら俺が作ったといっても信じず、すったもんだの末に、俺が
彼女の目の前で料理を作ることになった。

その日、俺が料理するのを彼女は近くで見ていた。メニューは回鍋肉、イカ
とセロリの炒め物、コーン卵スープだった。(中華でまとめてみました)
手軽なインスタントの合わせ調味料は使わず、豆板醤や甜麺醤、酒、五香粉
などを使ってきっちり調味した。といっても特にテクがいるわけでもなく、
ただ事前に手順を頭に叩き込んでおいて、手際良く進めることを第一とした。

料理が完成した時には、彼女の誤解も解け、仲直りできたが、その後
何回も料理を作らされるようになったのはちょっと失敗だったかもしれない。
彼女とは結局別れてしまったのだが、あんなに真剣に、絶対失敗しない
ようにと気合入れて料理したのは後にも先にもあれっきりだなー。

373 :ハト :2000/04/12(水) 16:46
私の中学校の昼飯は給食ではなく弁当持参だった。

私の母の作る料理はお世辞にも美味いとは言えないもので、なおかつ見た目も悪かった。
そんな母の弁当を、とても恥ずかしく思っていて、学校にも持っていけず、
毎朝、家の玄関に母の作った弁当を忘れたフリをして置きっぱなしにしていた。

でも母は何も言わなかった。

ある朝、4時頃に、私は急にトイレへ行きたくなり目が覚めた。
両親ともまだ寝ているだろうと、そっとトイレまで向かうと、台所で物音がしている。

母だった。

一生懸命レシピを片手に弁当を作っていた。
私は兄弟が多く(5人)、母は全員分の弁当を朝早くから作っていた。

そんな事、ちょっと考えれば分かるのに、母の顔をもっとよく見れば分かってあげられたのに…。

それからは絶対に母の弁当を置いていくことはしなかったが、
私は長い間母の心を踏みにじっていた事を考えると今でも涙が出ます。



374 :号泣さん :2000/04/12(水) 17:07
え〜んえんえん。

375 :>364 :2000/04/12(水) 17:15
ええ話やぁ〜(T_T )
いつか大きくなったお子さんと食卓を囲んだときに
昔話をするのもいいかもしれないですねぇ

376 :名無しさん :2000/04/12(水) 23:26
私の家は4人兄弟の大家族。決して暮らしも豊かなものでは
無かったため、友達が小銭持って駄菓子を買うのを、
いつも横目で見ていてうらやましかったなぁ。
おやつは、皆でカールや、麦チョコを一袋とかだった。
まだ小さい私と妹は、机の上にティッシュを4枚並べて、
ひとつひとつ数えては、均等に分けていくのが楽しみだった。

そんな兄弟も中高学生ぐらいになったある日、まだ小学生にも
ならない、小さないとこが遊びにきた。
ちょうど その時に、いちごが我が家にあったので、
洗ってざるに入れられて、出された。
私たちは、バラエティ番組を見ながら、
ものも言わずに、そのいちごを口の中へと運んでいった。
ふと、いとこに目をやると、いとこは必死の形相で、両手に
いちごを手にして、一生懸命はやく食べようとしていた。
その横を、何も気にしてない兄や姉の手がいちごを
ひょいぱくひょいぱくと・・・。
思わず大笑いしちゃいました。
いとこは、ひとりっこだったんで、思わずとてもびっくり
してしまった ようです。
兄弟で育てられて、知らず知らずのうちに食い物競争しちゃって
たんですね。



377 :(T_T) :2000/04/13(木) 16:18
いいスレッドじゃ〜

378 :元板前 :2000/04/13(木) 16:52
嫌な思い出だけど...
中坊の時、友人数人と遊んでいる時に一人が「たこ焼き、食おうぜ」と
言い出して近所のたこ焼きやさん(おばちゃん経営)に、行ったが、
僕は少し前にファミコンのROMを買ってしまって、小遣いが
無かったので、「俺はいらないヤ」と言って店の前で皆が
食べ終わるのを待つことにしましたが、店のおばちゃんが、
一人食べずに友達の輪から外れている僕を見かねて、
「(お店の)中にいらっしゃい、たこ焼き、食べさせてあげるから」と
声を掛けてくれたにも関らず、僕は「要らない!」と強く拒絶をしました。
なんだか、あの時は人に同情されているのが気に食わなかったのか、
声を掛けられた瞬間、おばちゃんの優しさを同情から来るものと思い、
自分が無償に惨めに思えて心の中で悔し泣きしました。
今、思うとおばちゃんは、僕が仲間外れにされていると思って声を
掛けてくれてたんだよな〜と後悔しきり。
今もたこ焼きを自分で作ったりすると、あの当時に、悔し泣きした自分、
おばちゃんの気遣いを拒絶した自分が甘くて、青くて、
厨房だった事を思い出して、胸が少し痛くなります。

おばちゃん、ごめんなさい。

379 :名無しさん :2000/04/13(木) 21:03
なけてなけて。
本年度2ちゃんねるスレッド大賞ノミネートである。

380 :納豆かあちゃん :2000/04/13(木) 22:14
>366,367,371,375
ありがとうございます。実際あんまりいい母ちゃんでは無いのだけど、
自分の書いたの読み返して、皆さんのRES読んだら、
ちと、子供を怒るのは控えようなぁと思ったり…
親の稼いでる間、子供も働いてくれてるようなもんですから。
今、忙しいけど、RESで気力貰いました!がんばるぞう!!

>373
んでも、「おいしかった。」の一言で母は報われます。
きっと、おかーさんの心は、弁当を持っていってくれるように
なったところで癒されてると思います。
「また作ってね」と言われるから、弁当のある日の早起きも苦にならないのが母です。
(単純バカとも言うかも。あ、これも親ばかのうちかな?)

>378
私の子供(3才〜10才の5人)と、弟の子供(ひとりっこ4才)に、
大皿にあられをのっけておやつとして出したとき、
同じ様な事が起きました。あられを出した後、母親同士はのんびりとお茶を飲んでいると、
突然、弟の子供が大きな声で「わーーーーーん!」と、泣き出したのです。
「だれか、虐めたの!?」ときくと、他の5人はきょとんとして首を横に振るばかり。
泣きじゃくりながら必死に訴えるのを聞いたら、
「まだ、ちょっとしか食べてないのに、からっぽになっちゃったー!!」
ということだったのでした。
普段は人に取られることがないから、一人っ子ちゃんはのんびり優しいんですよねー。
自分自身も4人兄弟だから、ちょっと一人っ子はうらやましかったり。

381 :?1/4?3?μ?3 :2000/04/13(木) 23:16
私が小学1年の時、母と姉と3人であこがれのマクドナルドに
初めてはいりました。
3人とも初のファーストフードにどうして良いか分からなかった
ようで、なぜかチキンナゲット16コ入りを
飲み物も飲まず黙々と食べていた。
今でもマクドナルドのチキンナゲットの
匂いを嗅ぐと、その時の間抜けな光景が思い浮かびます。


382 :三子の魂 :2000/04/14(金) 01:18
332「あぁさん」へ

>まだ幼稚園の頃、母親は妹の出産の為入院していた。
>当然父親と私だけだったのですが、いつも食事など作ったこと

私も、同じような思い出があります。
母が病気のため入院した日、母と別れるのがいやで泣きわめいて
いた当時3歳の私は、無理やり父に背負われて帰りました。

帰宅してから、父がズボンの腹の部分にタオルを挟み、エプロン
代わりにして夕飯を作り始めました。
始めてみる父の料理支度の姿を不思議に思い、私は父の背中を
食卓からぼーっと見ていました。

できた料理はベーコンとサヤエンドウのバター炒めでした。
そんな料理は母も作ったことがなかったので、食べるのにとても
躊躇したのですが、泣き疲れてとてもお腹がすいていたので、
一気に食べてしまいまいました。ちょっとベーコンが塩辛かった
のですが、とても美味かったので驚きました。

父は、潔癖なうえ厳格でしたので、当時どうしようもなく我がまま
だった私は、始終殴られておりました。おかげで父には恐怖を感じ
ていましたが、この時の父の料理をする姿には、なにか別なものを
感じました。

もう母はこの世になく、父だけが残っておりますが、たぶん父が
母のもとに逝っても、この料理姿と背負われて帰った日の記憶は
一生忘れないと思います。


383 :名無しさん :2000/04/14(金) 18:29
滅多にない父の料理って記憶に残るものなんですね。
うちは釣った魚は必ず父がさばいて刺身にしてました。
あじは(これは買ったのかな?)いつも大皿皿山盛りのたたきでした。
「店で頼むとこーんな少なくて500円も600円も取られるんだぞ。」
が口癖でした。居酒屋に行く歳になってそれが真実と知りました。
あー皿一杯あじのたたきが食いたい。三杯くらい。


384 :名無しさん :2000/04/15(土) 00:58
普段から少食でそれがコンプレックス気味の私。
彼とご飯を食べに行っても、何よりも食べきれるのか心配。
彼もそれを知っていて、だんだん辛そうになる私を見て
「大丈夫。無理すんなよ。残り、食べてあげるから」って食べてもらってました。
いつも最後まで食べきれない私が
初めて食べきれた時、彼は「よし、イイコだなー」って
頭を撫でてくれて、とっても嬉しかった。
でも、ぼそっと「おれ、カルボナーラ大好きだったのに」って。
私が残すのをちょっと期待してたのかなー。

カルボナーラを頼むたびに彼のあの嬉しいような
哀しいような、複雑な顔を思い出します。




385 :名無しさん :2000/04/15(土) 20:39
しかし、最近名作スレが増えたな〜。
他の所は沈静化しそうだけど、ここはずっとアゲ続けてほしい。

386 :三子の魂 :2000/04/16(日) 00:40
>383
>滅多にない父の料理って記憶に残るものなんですね。

そうなんですよね。もう30年以上も前のことなのですが、
いまだに鮮明に覚えています。
ところで、私もあじのたたきを腹いっぱい食べたいです。

387 :三子の魂 :2000/04/16(日) 00:44

小学4年の時に家族で飛騨高山に行った。
串団子を食べた。
急いで食べたので、串ごと食べた。
喉に串が刺さって、痛くて泣いた。

彼女の実家に結婚の挨拶へ行った。
飛騨高山だった。
義母が串団子を買ってくれた。
今度はゆっくり食べた。

うまかった。


388 :名無しさん :2000/04/16(日) 00:54
381さんは、私の弟じゃないでしょうか。
誕生日は、2月20日ですか?


389 :たか坊 :2000/04/16(日) 19:15
今から10年ほど前の話です。
当時、両親が離婚して経済的な理由から
父親に引き取られていた私は、中学校帰りに近所のスーパーで
パンと牛乳を買って帰り。それが夕食となっていました。
ところが、ある日。
いつもの様にパンを買って帰りTVを見ながら食事をとっていると。
隣に住んでいる、顔見知りのお婆ちゃん(当時80歳くらい)が
「たかちゃん、いつもパンなんやろ?こういうの食べへん?」
と野菜の煮物を持ってきてくれてました。
このお婆ちゃん、光江さんと言う方でして
戦時中に兄弟や、お子さんを何人も無くしたらしく
残ってる子供は全員女という事もあってか
男である私のことを、それからも非常に可愛がってくれました。
中でも思いで深いものに、おやつ代わりに作ってくれた
「さつま芋の砂糖菓子」というのがあったんですが。
当時食べる菓子は、スナック菓子のみだった私にとって
すごく美味しく感じられました。(食感は甘納豆風です。)
光江さんは、私が高校2年の時に亡くなられてしまったんですが
今でも、甘納豆を食べる度に。
お婆ちゃんの事を思い出してしまいます。
お惣菜以外にも沢山大事なものも貰ったな・・・と。(^_^)

390 :人力 :2000/04/17(月) 04:29
あげときますね

391 :名無しさん :2000/04/17(月) 14:36
3年前、父がガンの末期状態で母と弟とホスピスへ申し込みに行きました。
申し込んだ後、喫茶店であんみつを頼みました。
みんな胸が詰まって食べれなかったのですが、
父が「食え!全部食うんだぞ!」とものすごい形相で食べ始め、
母も下を向いたまま涙をボロボロ流しながら必死で食べてました。
弟は席をはずした後、真っ赤な目で戻ってきてものすごい勢いで食べました。
私は、これを全部食べたら父が良くなるような気がして一生懸命食べました。
ほどなく父はホスピスに入ることなく亡くなりました。
今でもあんみつを見るとあの日の光景が浮かんできてつらいです。


392 :あねーろ :2000/04/17(月) 15:55
いつだったか母が家を空けたときがあり、
その日の夕食は父が作りました。
確か野菜炒めか何かで、とてもまずかったことを憶えています。

あれから20年近く、一人暮ししている私の作る料理は
幸い母に似て美味しい(らしい)ものでホッとしております。
今なら私が作ってあげれるのに… お供えしようかな。

393 :明るい田中麗奈 :2000/04/17(月) 20:09
私がはじめてミスタードーナツで食べたのは小学生の頃でした。開店間もなかったその店はハロウィンにあやかって10月31日が誕生日の人にハロウィンの絵柄のハンカチをプレゼントする企画をやっていました。私の誕生日はまさに10月31日なのでやったーという思いでハンカチを貰ったのですが、一緒に来ていた祖母も「私も10月31日が誕生日なんだ」と言ってハンカチを貰ったのでした。おかげでその日以来高校の頃まで自分と祖母は誕生日が同じだと信じていたものでした。皆さんもお察しのようにそれは景品のための嘘だったのですが。そんな祖母が亡くなってもう10年が経ちます。

394 :肛門の田中麗奈 :2000/04/17(月) 20:27
おらよ〜、外で食う飯は何でもうまいと思うんだ〜

395 :名無しさん :2000/04/17(月) 22:05
うちは祖母・母・私と女が3人います。
祖母もまだシャキシャキしているので、仕事を奪っちゃ悪いよな〜との
大義名分の元、核家族だった頃はかなりやっていた食事の支度を全然
しなくなり、早3年くらい経った時のこと。
祖母・母が何の用だったかは記憶にないですがすっごく忙しく、急遽
私が夕食を作ることになりました。メニューはカレイを揚げて、あんかけ
をかけるというもの。双方アツアツをタイミング良く合わせたいところで
すが、何しろとんと料理をやってなかったので、カンが狂って右往左往
しました。
出来た辺りで祖父が外から帰ってきたので、皿に盛って食べてもらいました。
「久しぶりに作ったんやけど、どう?」ときくと「おいしいよ」と祖父は
言うんです。で、ざっと流しを片づけていざ自分が食べてみると、マズイ!
「きゃ〜、じいちゃん、なんでおいしいって言ったの〜!(笑)」
即刻あんかけを回収して味を付け直しました。タイミングに気を取られて
味見しなかったのが敗因でした。
いつもは祖母や母の作った料理に何かと文句を言う祖父なんですが、
いくら孫が作ったからってあんなマズイ料理に「おいしい」と言うなんて・・・。

最近前にも増して気むずかしくなった祖父が煙たかったんですけど、
この話思い出したから、明日からちょっと接し方が変えられそうです。

396 :XR乗り :2000/04/17(月) 23:08
高校生の時は毎日母親が必ず弁当を作ってくれていた。
ほとんど欠かさず毎日毎日朝5時半くらいに起きて
揚げ物とか手巻き寿しとか色々なメニューを作ってくれた。
でもたまに母親出かけている時などは親父が作ってくれる弁当だった。
メニューは必ず海苔弁に焼いたポークソーセージを乗せただけの弁当。
でもこれがとてもうまかったぁ。おかげで高校時代は1度も購買のパンや
コンビニ弁当のお世話になる事はありませんでした。

397 :388 :2000/04/18(火) 03:59
弟からの連絡は、無い。

この前、友達と電話で花見の段取りを相談してた。
「筑前煮持ってきて。」って言われた。
それは、料理が苦手な私が、2年前に同じメンバーの花見に
持っていった物だった。
はじめて人のためにお料理して、はじめて美味しいって言ってもらった
私のお料理だった。嬉しくて必要以上にはしゃいじゃったよ。
でも、それはお世辞だったと思うんだなぁ。後で思うと。

でも、それを覚えててくれた事がうれしくてうれしくて。
少々どうであれ、私が一生懸命作ったってことを、その子は見抜いて
いたんだな。ほんとに料理をしない私だったからなぁ。

「食べた思い出じゃなくて、食べてもらった思い出。」

398 :本の虫 :2000/04/18(火) 04:55
この学歴社会のさなか、地方出身ながら進学率の高い高校を
選んでしまった私は実家を出て下宿から通学していました。

中学を出たばかりの子供には寂しい状況で、泣き暮らした日々
もありましたが、しばらくして学校にも慣れ、当時無類の本好き
だった私は学校の図書室に入り浸るように。
司書の先生や同じ趣味の友人とも仲良くなって、親元離れた寂しさ
も薄れて来たある年の夏。私の誕生日が。

いつものように図書室に行くと、なんとそこには「おたんじょうび
おめでとう」と書かれたケーキが!
先生が下宿暮しの私を気遣って購入してくれた物でした。

学校隣のケーキ屋で売っている一番小さいホールケーキでした
が、その嬉しかったこと。生涯で一番美味しかったバースデー
ケーキです。今思い出しても涙が。

下宿先の食事情が良くなくていつも顔色の悪さを心配されて
いたような状況でしたから、少しでもカロリーのあるものを…
とか考えていたのかもしれませんが、それもまた良しと言う
ことで。

399 :名無し野郎 :2000/04/18(火) 13:47
出張先の塩釜で食った大トロと牛タン。
今までにどちらも食ったことはあったが、このときほど
「こんな美味いものを食ったことはない」と思ったこと
はなかった。

400 :俺が小さい頃 :2000/04/18(火) 14:36
母親の実家に行くと、決まって出てくるのが五目ご飯と
てんぷらとうどんだった。
いとこ連中もみんなまだ小さくて、正月とかに集まると
ゲームしたりトランプしたりして大いに盛り上がったものだ。
いまではみんな独立してバラバラになり、実家もなくなって
しまったが、あの五目ご飯の味はたぶん忘れない。一生・・・



401 :三子の魂 :2000/04/18(火) 21:45
以前のお話に、一番大好きなものを弟に取られてぶちのめして
しまうお話がありましたが、私は祖母に似たようなことをして
しまいました。

祖母が若いころ私の家に遊びに来て、近所で評判の割烹があると
いうことで、皆でその店に食事にいきました。
たしか私は小2か小3のころだったのですが、そのとき初めて
その店で「うなぎの蒲焼」を食べたのです。あんまり美味かったの
で、最後に全部食べようと思い、そのままお皿に残しておきました。
ところが、ちょっと目を離したすきに、祖母が全部一口で食べて
しまったのです。

私は、なにもない皿をみて、血の気がひき、「きーーーーー」という
掛け声とともに、そこらじゅうのお皿をひっくり返して涙をながして
怒りました。
驚いたのは、家族だけではありません。店の人も驚いて事情を知り
なんと私のために蒲焼をまた焼いてくれ、慰めてくれたのです。
悲しさと恥ずかしさが一緒になって味などわからなくなってしまい
ました。

祖母は今年で97歳になり完全にボケてしまったのですが、
ちょっと悲しいのは、私の顔を見るたびにこの話を5分に一回
することです。人間キレてはいけないということを身にしみて
思います。

402 :名無しさん :2000/04/18(火) 22:08
>401さま
身の程を知りました。ごめんなさい。
もう絶対切れてあらしたりしません。
                  厨房代表


403 :三子の魂 :2000/04/19(水) 06:58
>>401さま
>身の程を知りました。ごめんなさい。
>もう絶対切れてあらしたりしません。
>                  厨房代表

わざわざのご挨拶ありがとうございます。
でも、「キレれる」というのは遺伝的要因もあるらしいです。
私の親族の多くがキレやすく、親族が集まると修羅場です。

404 :夏の思ひ出・・・ :2000/04/19(水) 15:02
沖縄出身の夫(結婚前)と夏休みに沖縄に行って
本島からフェリーに乗って ある島へ行きキャンプをした。
夏休みだというのに キャンプ場には私たち2人のテントしか無かった。
当然 辺りに商店、露天商の類も無い。
2日目の朝、前夜の残りで朝食を済ませた私たちは 朝から泳ぎまくり、
2時ごろ空腹にはなって海からあがった。
材料はあるけれど 昼食を作るのが面倒になり
港に行けば飲食店があるだろうと車で港に向かった。
港の店はランチタイムを終え 全ての店が休憩時間で閉まっていた。
どこか観光名所に行けば何かあるだろう と、島で一番(?)の名所に向かう。
土産物屋に食べ物は無く、なぜか「にんにくラーメン」という
カップ麺が置いてあったが 私はにんにくがキライなので買わなかった。
来たついでに 島で1番高い山に登る。
次なる観光名所(某ガイドブックを参照)へ向かうも
店どころか人っ子1人いなかった。
来たついでに 観賞。
すでに 4時を回っていた。 にんにく嫌いがこんな形で仇になるとは!!
あまりの空腹に 半べそになりながら車を走らせていると
1件のパーラーを発見!!!!! (この時点ですでに5時過ぎ)
慌てて車を止め、走ってパーラーに向かった。
「俺、ハンバーガー!! 2つ食う!!」「私、チーズバーガー!!」
走りながらメニューを読み、叫びつつ店内へ。
店のおばちゃんが 「ごめんねぇ〜。今日、オードブルの予約が入ってて
食べ物無いのよ。 飲み物だけね」
「ええええええええええええーー!!!!」
おばちゃんの揚げる唐揚やポテトの山を恨めしそうに見つつ・・・・
「なに? お腹空いんの?」 「うん」 「食べたいの?」 「うん」
おばちゃんは 2人に唐揚を2つづつ、ポテトを一掴みづつくれました。
涙が出るほど美味しかった。
「美味しい?」 「おいしぃ〜〜 ありがとおぉぉ〜〜(涙)」
ありがとう、おばちゃん! あの唐揚の味は 一生忘れないよ。

でも 今考えたら 港に戻った方が
早く食べ物にありつけたかもしれないなぁ・・・・


405 :名無しさん :2000/04/20(木) 08:37
いいスレだのぉ (T_T)

406 :夏休み :2000/04/20(木) 11:33
中学生くらいになるまで夏休みは必ず両親と父方の叔母、叔父と
海にキャンプに行ってた。
がんがん泳いでお腹を空かせたあとに
ネットにいれて海水で冷やした西瓜と青リンゴや、
海風の匂いのするお握りを食べたり。
貝を採って大きな鉄板で焼いたのが一番美味しかったな。
地面が見えるほど潮が引かないので足で探って採るんだけど、
たまに蟹に挟まれたりして。
烏貝がびっしりついた岩を見つけたときはほんとうれしかった。
岩場には海苔やかんぴょうが干してあってそれを見ると
「ああ、夏だなあ」と感じた。

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0ch BBS 2004-10-30