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思い出に残る食事

235 :61 :2000/03/24(金) 13:08
>226さん
祖父は亡くなりました。だからよけい辛いです。
母も悪い人ではないので、ちょっと機嫌が悪かっただけだと思います。
けれど、私はああいうことをしないようにしようと思ってます。

236 :名無しさん :2000/03/24(金) 14:18
今気がついたけど、「からい」と「つらい」は
同じ字なのねん。食べ物って奥が深い・・・

237 :ビール :2000/03/24(金) 17:30
 ビールは横に冷やすとうまい、と父は言っていた。
そんなわけはないと、と言っても聞かず、冷蔵庫に決まってビールを横にして冷やしていた。
酒以外煙草もギャンブルやらない親父にとって、ビールに関してだけこだわりを
持っていたのかもしれない。酒が飲めなかった俺は、一緒に飲むこともなかった。

 親父が死んだ時、なぜかそんなに悲しくなかった。あっけないな、とは思ったが、
何か時間が寸断されるような感覚はなかった。親戚が自宅にきて、これからのことを
話し合っているときに、ふと何か酒が飲みたくなり、冷蔵庫を開けた。

 横になったビールがあった。時間がぎゅっと凝縮されて、思い出すべきことが多すぎて、泣いた。

238 :>237 :2000/03/24(金) 18:06
私も、もらい泣き(涙)

239 :名無しさん :2000/03/24(金) 19:45
高校3年生の時、隣のクラスの好きな子を映画に誘って
運良くOKの返事をもらい、映画の後お決まり喫茶店で
とりとめの無い話をしたな。
自分が何話したか食べたかは忘れたが、彼女がエビピラフを
食べたのは今でも覚えている。
店で告白しようと思ったが、すぐ隣に人がいたので店を出てから
告白、返事は「いい友達でいましょう」あえなく撃沈。
高校の友人にたまに会うが、彼女のこと聞けない
「結婚した」と聞いたら心臓止まるかも…

240 :名無しさん :2000/03/25(土) 13:55
age

241 :円谷幸吉の遺書(閑話休題) :2000/03/25(土) 15:37
父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、モチも美味しゅうございました。
敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。
克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゅうございました。
巌兄、姉上様、しそめし、南蛮漬け美味しゅうございました。
喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゅうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。モンゴいか美味しゅうございました。
正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になって下さい。
父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が安まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。

242 :>241 :2000/03/25(土) 15:47
閑話休題の使い方が間違ってるよ。

243 :>241 :2000/03/25(土) 19:46
昔、そのまま歌詞にして歌にしたグループあったよね。
女性ボーカルが「幸吉はもーう、走れません♪」って歌うの。
スポーツ選手にとって仕事以外のいちばんの興味って、やっぱ食べ物なんだなあ
と思うと、なんかやるせない。
世の中にはもっと楽しいこといっぱいあるのに。

244 :名無しさん :2000/03/26(日) 04:13
私の父は40代前半で、ガンのために、発覚してから数カ月で他界しました。
死亡する前日父の病室に行き、いつものように梅干しと、母が作った おかずをを差し入れました。
入院直後からちょくちょく差し入れはしていたのですが、そんなにすぐ死んでしまうとは
考えもしなかった私はそれが億劫で、いつも夕食の時間より遅く届けていました。
帰りがけ父が、何か言いたそうにしていたのをぐっと呑み込んで、バイクで帰る私に
「気をつけてな」と、いつものように一言声をかけました。
それが最後の言葉でした。

その後私は何度か入院することがありました。
体調が良くなると、病院の生活は実に退屈で「次の食事まで後◯分」という気持ちで
時計を見るようになります。
その食事があまりおいしいものではなく、また量も物足りない。
父が差し入れをどんなにか楽しみにしていたか、自分で体験し分かったような気がしました。

私はこれまで、現在の自分がたいした人間でもないわりには、自分の行動を後悔したことが
ないのですが、このことについてはたいへん後悔しています。
もっと早く届けていれば良かった。毎日運んであげれば良かった。
いや、むしろ自分のために、残り少ない父との時間をもっともっと大切にするために、
そうすれば良かった。
差し入れを届けてもすぐに帰ったりするんじゃなかった。

父の死後しばらくの間、梅干しを食べる気になれませんでした。
しかし15年経った現在は、自分で漬けています。
梅干しを漬ける度、あるいはそれを食べる度、思い出してしまいます。

245 :さつき :2000/03/26(日) 14:09
以前、寮生活をしていた時、滋賀の子が、おそうめんをゆでて
どんぶりに入れ、おしょうゆとミョウガとマヨネーズをまぜて
食べていた。最初見た時、ウゲーっと思ったけど、
ちょっともらって食べてみると、おいしくって、あれから10年
いまだに食べてます。

246 :名無しさん :2000/03/26(日) 14:54
小学校一年、入学したての頃。
上級生(6年)が給食の手伝いに来てくれた。
その日の献立は、食パンにスライスチーズ・レタス・マスタード(他は覚えていない)。
「いただきます」の合図で食事を始めるのだが、その前に、
上記の食材からサンドイッチを作らないといけない。
私もサンドイッチを作り始めたのだが、スライスチーズのかけらが
残ったので、つい口にしてしまった。
そのとき、上級生に「まだ食べたらだめだよ」と注意されてしまった。
25年前の、食事に関する一番古い記憶です。なんで覚えているのか。


247 :明るい田中麗奈 :2000/03/26(日) 18:55
私には子供の頃「この世でいちばん美味しい食べ物は?」という質問に真面目に「スイカ」と答えた記憶がある。あの頃のスイカはほんとうにうまかった。

248 :名無しさん :2000/03/26(日) 22:54
私も寮の話し。貧乏な大学の寮に入っていたので、朝は卵かけご飯とお味噌
汁のみ。家は母が厳しかったので、卵かけご飯は犬のご飯と呼ばれていて
食べさせてもらえなかった。だから私も寮に入った当時は、敬遠してたけど、
ある日思いきって食べてみたらこれが思ったよりおいしい!それからは毎日
食べてました。今はアメリカにいるんだけど、一番食べたい日本食としてま
ず思い浮かぶのがこの卵かけご飯です(こっちの卵はこわくて生では食べら
れない)。

249 :名無しさん :2000/03/26(日) 23:44
ポテトチップスが大好きだった俺だが、
子供のころ、祖母が自家製のポテトチップを作ってくれたことがあります。
作り終わったポテトチップを見て、祖母が,
「戦争終わったころ思い出すな」と言って、仏壇にそのポテトチップを
供えて、手を合わせました。
油は貴重品だったんだけど,油が手に入ったときはジャガイモをそうして食っていたそうだ。
今でも,コンビニでカルビーのポテトチップスの袋を見ると時々思い出します。

250 :>248 :2000/03/27(月) 02:38
横レスでごめんなさい。アメリカで生卵。日本人ならやっぱり食べずに
はいられない(笑)。というわけで、自然食品のお店やヘルスフードの
お店に行くと、生で食べられる卵売ってますよ(健康食品として食べる
アメリカ人が多いらしい)。Mothersとかああいうタイプのチェーン
店です。すき焼きするにも生卵がいるので、うちはいつも卵はこういう所
です。値段もそんなにびっくりするほどじゃないですよ。
これからも頑張って卵かけご飯、沢山食べてくださいね!

251 :〉248,250 :2000/03/27(月) 06:05
カナダですが、全然気にせず食べてます。それほど危険ではない
とも聞いたのですが、気を付けたほうが良いですね、これから。

252 :さばおどり :2000/03/27(月) 06:54
私が8歳で、弟が5歳の頃の話です。
当時、母が病気で入院してしまい、父は単身赴任中であることから、
私達は祖母(父方)の家に預けられておりました。
母や私達を嫌っていた祖母は、朝から夜遅くまで舞踊のお稽古に行き、
私達の世話は一切しませんでした。そこで、私達はいつも近所に住む
Aさんという人のいいかたの家でご飯をいただいておりました。
ある日、母が一日だけの許可をもらって退院してきました。
本当は体がとてもきつかっただろうに、母は甘えつく私達を何回も
抱っこしてくれました。
夜は、三人で歌いながらハンバーグをこねて作りました。
「今日はお母さんが帰ってきたから、ご飯はお家で食べます!」
Aさんの家に挨拶に行った時の弟の、何か誇らしげな表情を見て
嬉しくなった私は、その紅潮した頬っぺたに何度も自分の頬っぺたを
擦りつけて家に帰りました。


253 :さばおどり :2000/03/27(月) 06:55
家に着くと、既に料理が食卓に並べられていた。母は暖かい牛乳を差し出して、
「おばあちゃんが帰ってきたから、ちょっと待っていてね。みんなで食べようね。」
と言った。私達がAさんの家に行っている間に帰ってきたようだ。しばらくすると、
着物から着替えてきた祖母が台所に入ってきた。
「お義母さん、お食事の用意できていますので、どうぞお掛けになってください。」
その母の言葉を遮るように祖母は、
「病人の作ったものが食べられますか!何が感染するかわからないのに…」
と言って、母の作った料理を全て残飯の入ったごみ袋の中に捨てていきました。
「も、申し訳ありません…」
さっきまでニコニコしていた母の顔から一気に血の気が引いていきました。
私は(どうしよう!どうしよう!)とただただ混乱していました。
「バカヤロウ!」
突然、弟が叫んで、祖母からごみ袋をひったくりました。
仁王立ちになった弟は、祖母をにらみつけながら、ごみ袋から
母の作ったご飯を手ですくって食べ始めました。
「俺はなぁ… 俺はなぁ…」
後の言葉が出てこずに、目から涙をボロボロとこぼしながら、弟は食べました。
小さな肩を震わせて、必死に強がって…
そんな弟を見て、私も大泣きしながらごみ袋からハンバーグを掴み取って食べました。
「もう、いいのよ。やめて。二人とも。いいのよ。お願いだから…」
泣きながら止める母の声も無視して、私達はむさぼり続けました。
これが私達姉弟の、母の最後の味。悲しさと悔しさの恨みの味…


254 :↑ひゃー :2000/03/27(月) 07:06
ヘヴィーです・・・・ヘヴィー過ぎます・・・ >_<
文章が上手なのがイヤですぅ〜!
しくしくしく・・・


255 :わたしも・・・・ :2000/03/27(月) 07:27
>さばおどりさん
朝から泣きはらした目で仕事に行かねばなりません。
それにしても、悲しすぎます。
どうか現在のあなたは幸せであることをお祈りします。

256 :名無しさん :2000/03/27(月) 08:33
涙が止まりません、さばおどりさん。

このスレッドにはいくつか悲しいお話があるけど、
あなたのは特に悲しすぎる。母を思う弟さんとあなたの気持ちが
おばあさんにつたわらなかったのでしょうか。
同じ人間としてすごく悲しい。
朝から泣かずにはいられませんでした。

257 :名無しさん :2000/03/27(月) 09:46
さばおどりさん、あまりにも泣けすぎる。
二日酔いでも、この涙は忘れる事はできません。

258 :緑一色 :2000/03/27(月) 15:55
泣ける話ではないが…
中学に入る直前の春休みのある暖かい夕方、桜を見に近くの公園まで出かけた。

北国なので、4月中旬でも桜はまだ5分咲きくらいだった。人はあまりいなか
ったが、ふと同じクラスの女子に会った。彼女とは殆ど話をしたことが無かっ
たが、せっかくなので歩きながら、新学期からのことなどいろいろしゃべった
ように思う。確か彼女は直しに出した制服を取りに行った帰りとかだった。

ふと見ると、薄桃色に色付いた川沿いの桜並木の上に、白い満月が昇っていた。
ガキだった俺が、「今日は花見と月見が同時にできてラッキー」みたいなこと
を言ったら、「本当、もし緑一色君と私が大人だったら、一緒にお酒飲めたの
にね…」と彼女。

別に大した意味があるわけでもないのに、厨房にもなってなかった俺はその言
葉に何だか急にドキドキして、「ラムネ飲も、ラムネ、おごるから」と、売店
でラムネを買って彼女に1本渡した。彼女は「ありがとう」と快く受取ってく
れた。その後どんな話をしたかは覚えていない。

でも、あの時の甘く暖かい春の空気、冷たいラムネの味、夢のように美しかっ
た桜と月、そしてそれを見て微笑んでいた彼女の横顔は、今でも忘れられない。

桜の季節にラムネを見ると、思い出して少し切なくなる。

259 :名無しさん :2000/03/27(月) 17:59
小学校低学年のとき、同居していた祖父が入院しました。
昨日までピンピンしていたし、誕生日を目前に控えた私と一緒にプ
レゼントに買ってくれる予定だった鉄道模型の選択をめぐって、カ
タログを見ながらああでもないこうでもないと話していたので信じ
られない気分でした。

父も母も病院に行ったまま夕方になり、おなかをすかせた私と兄は
途方にくれていたのですが、病院にいる母から電話があって、とり
あえず冷蔵庫にあるメロンを食べていなさいと言われました。
15年くらい前なので、メロンといえば高級品、という時代でも無か
ったのですが、いつもは1/4かそれ以下分の、しかもサイコロ状に
切ったものしか食べていなかったので、自分たちで一個のメロンを
好きに食べて良いということがよっぽど嬉しくて二人ではしゃぎま
くりました。
とりあえず半分に切って分けることにし、どこに切れ目を入れるか
で兄とはしゃぎながら言い合っていたところに病院から父が帰って
きて「何してるんだ!おじいちゃん死にそうなんだぞ!」とすごい
剣幕で怒鳴られました。
私たちはシュンとしながらも(怒られたので)味のしないメロンを
黙々と食べ、そのまま寝ました。

翌日、祖父が息を引き取りました。
私は祖父の身体を綺麗にしおわった後に病院に到着し、おそるおそ
る祖父と対面しました。
病院自体が恐くて堅くなっていた私が冷たくなった祖父との対面を
冷静に出来るはずもなく、恐ろしくなってすぐに部屋から出てしま
いました。

260 :名無しさん :2000/03/27(月) 18:01
そこで、母から「○○(私の名前)へ」と祖父の字で書かれた封筒
をもらいました。
中をあけるとお金が入っていて、私と約束したプレゼントを買うよ
うにと祖父が母に言付けをしたそうです。

私の誕生日に行われた葬儀の時に、父が葬儀屋の用意した白い座布
団に涙を一粒だけ落としたのを隣に座っていた私は見ました。
そのとき、自分の父親(=私の祖父)の死が迫っているというのに
メロンの切る場所ごときの事で大はしゃぎしてしまったことや、
誕生日のプレゼントを買うようにとお金を残してくれた優しい祖父
の死に顔をまともに見てあげられなかったことへの後悔が一気にや
って来ました。

私は今年でもう25になるのですが、父にあんなに怒られたのは今の
ところあれが最初で最後です。

このスレッドを見始めてかなり経つのですが、今になって突然この
話を思い出してしまいました。
今となっては祖父の顔や声の記憶は薄くなりつつありますが、雰囲
気だけはなんとなく思い出せます。

私も多分、父に対しては父が祖父に接していたのと同じ様な接し方
をしていると思うので、もう少しトゲの無い接し方をしたいと思い
ました。


261 :からあげの :2000/03/27(月) 22:33
話読んでて思い出しちゃった。
高校生のとき公園で子供にいじめられてた子猫を、そいつら怒鳴りつけて
取り上げてきたんだわ。
6ヶ月ぐらいに育った頃かなあ、夜に弁当のオカズのチキンカツを
揚げてたらいつものように猫がねだったんで、かけらをあげたんだ。
そして食べ終わったら、猫がじいーーっと真剣な顔して人の目を
見つめたんだ。「もう1個ほしい」っていうんだったらニャ―ニャ―
鳴くんだけど、黙ってじーっと見つめるんだ。
ちょっと気味悪くなったんだけど、すぐ寝た。
・・・翌朝、猫、家の前で車にひかれて死んでた。



262 :名無しさん :2000/03/28(火) 00:46
でも、最初は普通に感動したりうるうるしたりで楽しんできたんですが
皆さん泣きネタ合戦になってきて、最近は引いてしまいます。
さばおどりさんのネタも既に小説ででてますよね。誰かは言いませんが。

皆さん、スレッドの趣旨に立ち返りましょう。


263 :>262 :2000/03/28(火) 01:47
い〜や。ネタでもいいぞ!!
もっと俺を泣かせてくれ〜。

264 :名無しさん :2000/03/28(火) 03:33
完全に泣かせネタスレッドになってしまってる。
そのためには小説、エッセイのパクリあり、創作ありで・・お腹一杯。

265 :名無しさん :2000/03/28(火) 04:01
そうだな。創作っぽいのもある。パクリも有るんだろう。
しかし、たいがいはホントのことだと信じたい気分。
揶揄するレスもいいけど、それじゃ次の人が書き込みにくい。
2チャンネルの良心っぽくなってきたからさ、このスレッド。
大事にしようぜ。

266 :名無しさん :2000/03/28(火) 04:46
つまらない話ですが聞いてください。(涙とは全然関係ないです)
中学生だったある冬の日のこと。その日の夕食はカキ鍋でした。
家族みんなでカキを食べてた時、自分も何個目かのカキを口にしてたら
突然奥歯に「ガリッ」と何かが当たりました。
以前、歯に詰めたもの(銀色のヤツ)が取れたことがあったので、
今回もそうだろうと、おそるおそる口から出してみたら、白いモノが目の前に。
「何コレ?」次の瞬間ビックリ。「真珠?」そう、色も乳白色でまんまるなんです。
大きさは直径4ミリほどですが、本当に真珠そっくりでした。
家族の反応は「へー珍しいこともあるもんだ、でも価値もないし」(カキだから?)
でも捨ててしまうのもなんか惜しくてしばらく大事にしまってました。
(結局どっかにいってしまったが)あれ以来カキを食べても何もでませんが、
今でもたまに思い出します。(スミマセン下らない話を書いてしまいました..)

267 :名無しさん :2000/03/28(火) 05:15
>266

牡蠣の中にまれに真珠が入っているそうですが、それに
当たるとは266さん、運がいいな。それは天然真珠でしょう。
明治天皇が皇后と食事をしていたときに、皇后の食べていた
牡蠣から真珠が出、それを羨ましがってたくさん牡蠣を注文して
食べた(でもでなかった)という逸話もあります。

>262
気持ちはわかるけど、悲しい(泣けるネタ)思い出=
思い出に残る食事っていうのは、別に外れてないと思うよ。
ただ、「楽しくて思い出に残る食事の話」も知ることがで
きたら本当にいいですね。



268 :>248 :2000/03/28(火) 08:01
卵のこと、ありがとうございます。一応生で食べられる卵があるとは
聞いてたのですが、ものすごく高いと友達が言っていたので、手をだし
てなかったのです。今度コープをのぞいて見ます。

269 :名無しさん :2000/03/28(火) 11:31
 離れて暮らしているので、月に1度か2度くらいしか会えない彼女が
います。たまに泊りがけで遊びに行く時は、夕ごはんを何にするかで
盛り上がるのが常です。
 とりあえずメインディッシュを決めたら、スーパーに一緒に買物に行き、
サイドディッシュをどうしよう、あれも食べたいがこれも捨てがたい、などと
互いに検討しあいながら食料品売り場をくまなくうろつきます。
 スーパーから帰る道すがら、今回の料理の手順とそれぞれの担当をどう
するかを相談し、帰宅と同時に相談した通りに調理を始めます。

 ワタシは、このように夕食ひとつで大騒ぎしてますが、たいへん楽しい
ものです。今は現在進行形ですが、これが将来、思い出すと切ない記憶に
なるのかもしれないと思うと、ちょっと複雑な気持ちになります。

270 :さばおどり :2000/03/28(火) 12:21
>262さん
私の話が小説ですか…
できればその小説の表題を教えてもらえませんでしょうか。
是非、読んでみたいと思います。
私の母は重度の肝炎でした。昔、看護婦だった祖母の行った行為は
感染の可能性が高いことから考えると、あながち間違いではありません。
ただ、もっと他のやり方がなかったのだろうかと、未だに思い出しては
怒りを感じ、泣いてしまいます。祖母の実家は嬉野という温泉町で
母はそこのスナックで働いていて、父と知り合い、結婚しました。
やはり田舎であることから、いろいろと揶揄されていたそうです。
祖母はそんなことから、私が生まれた時も「うちの〇〇(父の名前)
の子供じゃなか!どこか知らん男と作ったとやろうもん!」と
言って、けっして孫とは認めなかったそうです。ただ、父の兄の子供
達にはとてもやさしいおばあさんでした。母のなくなったとき、
父はAさんから私達がどのような生活をしてきたかを知り、
憤怒して、葬儀の後に私達を引き取り、祖母とは絶縁しました。
ただ、父はあまりにも多忙であった為に、結局私達は
宮崎にある母の実家に預けられました。宮崎の祖父、祖母は私達に
とてもやさしくしてくれました。父も毎月会いにきてくれました。
現在、私は大阪の大学に通っており、弟も春から大阪の調理師の
専門学校に通います。とても幸せに過ごしております。
最後に長文、駄文をお詫びし、ご挨拶といたします。

271 :>270 :2000/03/28(火) 14:15
うんうん、がんばれ。
俺は信じていたさ。

272 :名無しさん :2000/03/28(火) 14:28
>さばおどりさん
今はお幸せなんですね。よかった。

話しが「ネタ」という人もいるけど、全く同じ環境だった人もいるのでは
ないでしょうか。私はここにある話しを「ネタ」くくりにしたくないです。
悲しい話が多いのは、楽しい事はすぐ忘れちゃうからでしょうか。




273 :ふに :2000/03/28(火) 14:57
里帰り中の「なー」に読ませる為age


274 :名無しさん :2000/03/28(火) 16:27
ネタでもいい
それでも泣けるのなら
それでいい

275 :明るい田中麗奈 :2000/03/28(火) 19:17
ネタであってくれと祈りたくなる程泣ける話ですな。ううっ。

276 :夕雨 :2000/03/28(火) 19:18
さばおどりさん、あなたと弟さんの悲しすぎるほどの
やさしさに、胸を打たれました。今は幸せそうでなによりです。
こらっ、262さん!人のお話を小説扱いしちゃダメですよ(笑)
ホントにそんな小説があったのならば、教えてあげなさいよ。
・・・わたしも読みたいので(笑)

でわ、僭越ながらわたしもお話を・・・
私がビンボー学生だったある日、3日間を無一文で過ごさねば
ならなかったことがありました。部屋にあるのはサラダ油だけ・・・
そんな時に、友人が旅行に行くからハムスター預かってくれと
持ってきました。本当はそこで友人にすがってお金を借りたかった
のですが、変なプライドが邪魔して結局言えずじまい。(^^;
でも、ハムスターのお蔭でとっても助かりました。
あの時はゴメンね☆

277 :夕雨 :2000/03/28(火) 19:26
☆補足です♪
ハムスターの餌として友人が一緒に持ってきたひまわり種を
私がほとんど炒めて食べてしまったのです・・・(笑)
塩をかけたら絶品だろうなあ・・・と思いながらぽりぽりと
食べていました。お金が入った3日後にはハムスター君に
ゴメンの意味をこめてチーズを買って食べさせてあげました☆

いや、なーんか自分の文章を読み返したら、どう考えてもわたしが
ハムスターを焼いて食べたようにしか受け取れなかったんで(^^;;

278 :明るい田中麗奈 :2000/03/28(火) 20:14
私の父ならおそらく食べてます。

279 :そうなんだよな。 :2000/03/28(火) 22:49
自分でも、書き込んでて思ったのは、
何で、食べ物で思い出すのはもうあえない人の話なんだろうってこと。
でも、考えてみたら、いつでも会える人とは、今も想い出を積み重ねているから、
固定されてしまっていないんだよね。
死んだときのことは、忘れられないものね。
食べるのは毎日のことだから、それをきっかけにして何度も思い返すし。
自分が書き込んだ話は、読んだ人が泣ける話ではないのだけど、
自分にとっては何時思い出しても涙が出る話なんだな。
なんでだか自分でもわからないのだけど。
人に、「おかず喰いじゃなくてご飯喰いなんだ〜」といわれて思い出して
勝手に悲しくなってしまうのが、どうしても直らないのだなぁ…

280 :名無しさん :2000/03/29(水) 10:34
毎朝、ここを読んで一泣きしてから、仕事に取りかかるパターンが
定着しつつあります。
私は、在宅で仕事をしてるんですが
仕事に追われてくるとどうも食事の支度がおろそかになりがちです。
皆さんの書き込みを読んでいると
下手でも質素でも、とにかく愛する夫や子供のために
心を込めてご飯を作ろうと改めて思います。

悲しい思い出なのにとても優しい文章でかかれているなあと
切なく思います。本当にいいスレッドですね。

281 :脱線ちゃん :2000/03/29(水) 12:06
このスレッドが好きな人は、向田邦子のエッセイなんかも好きかも。
「父の詫び状」がおすすめ。

282 :名無しさん :2000/03/29(水) 15:41
>280さん
そうですね。毎日の食事って作る側にしてみると結構大変だし、
手を抜こうと思えばできるのかもしれません。
でもこのスレッドを読んでいろいろ考えさせられました。

うちの子は重度の知的障害児です。
歩行はできますが、生活の中ではまだまだ介助が必要です。
今思えば「家族の為に心をこめて」とは程遠い、、、義務感から食事を作っていた
のかなと反省しています。
彼の口からは生涯「おいしかった。また作ってね。お母さん」という
言葉は聞けないとは思うけれど、好きなものが食卓に並んだ時の笑顔を
励みにこれから食事を作っていきたいなぁと思ってます。
たまごが大好きなんだけれども、何個も食べると太ってしまうので
ほうれん草とハムの入ったたまご焼きが彼の思い出の一品になるのかな。
(たまご焼きというよりはほうれん草のたまごとじだね)

ちなみに宅配ピザのチラシを私のところに持ってきて「ングング」と
催促することもできるようになったので、たまにはそーゆーのもOKかな
と、頑張りすぎずにやっていこうとも思ってる母でした。



283 :名無しさん :2000/03/29(水) 16:09
えっとね、うちは両親共働きで、朝ご飯は各自で作って食べるのが決まりだったの。
高校生の時、朝インスタントラーメン食べてたら、仲悪い姉がちょっとくれるって聞いて来て、
私はすっごくむかついて箸を投げ出してそのまま家を出たの。
その後何があったわけでもないし、結婚して今では姉とも仲良くつきあってるけど、
その朝の、姉の脅えたような悲しい顔を思い出すと胸が痛む。

284 :バッカーです :2000/03/29(水) 16:36
今からでもいい。
素直に謝ろう。

285 :小学生 :2000/03/29(水) 17:01
泣ける話ではありませんが、 小学生の頃、妹と二人で天津甘栗を食べてました。
剥いては食べる私とは違って、妹は丁寧に皮を剥いた栗を後でまとめて食べようと
横にためてありました。

悪い兄の私はそれらを、ひとつかみに自分の口の中へ、、、、
妹は泣いた、怒った、 もう大変でした。

それ以来、誰にでもその話をします。 私の家内や子供もその話を知っています。
家族で天津甘栗を食べる度にその話が話題になります。今は1児の母である妹の
復讐は充分に達成されたと思っている私です。

286 :明るい田中麗奈 :2000/03/29(水) 21:35
>小学生 その思い出があなたに「小学生」を名乗らせていたのですね。
そのときの気持ちよく分かります。私も、カニを食べる前に一通り殻を剥いている人を目の前にするとそれをしたい衝動にかられます。

287 :名無しさん :2000/03/29(水) 21:49
学生の頃(10年前)、自分のアパートの向かいに小料理屋がありました。
おばあさんが一人で切り盛りしている自宅兼小料理屋でカウンターに5人座れば一杯になる規模。
一人でもよく行ったが絶対儲からないだろうなぁーと思うほどサービスたっぷり。

ある日、道端で会った時に「カゼ引いちゃいましたよ」と言ったら、”すいとん”を作って持ってきてくれました。
恥ずかしながらそれまで”すいとん”というものを食べたことがなかったのですがおいしかったという記憶だけがあります。
まさに私にとっての思い出の食事。
その日をきっかけに”客”というよりも話し相手という感じでお茶や昼間から酒を飲んだりのお付き合いになりました。

卒業式の日にお世話になったことを報告に行ったら、「おめでとう。私も今日で店を閉めるのよ・・・」
えっ!
息子さんらしき人が来ていて「お世話になりました・・・」って・・・

前々から息子夫婦に実家へ帰って隠居するように言われていたことは聞いていたけど自分の卒業式の日に店を閉めるなんて・・・
「アンタの卒業が節目かなぁー」「スーツ姿もいいんじゃない?」と言っていたのが忘れられません。


288 :『なー』に見せる為 :2000/03/29(水) 22:36
あげ

289 :名無しさん :2000/03/30(木) 00:26
>288
『なー』て誰?いつも気になる。興味津々。(笑)

自分はねー、給食のひな祭りにもらえるケーキが好きだったなぁ。
アイスケーキなんだけど、これが毎年楽しみで楽しみで。
誰か休んだりしていると、その子の分も食えるかなぁ…って
ずーっと考えていたなぁ。で、普段は欲しい人が集まって
ジャンケンするんだけど、このケーキは皆欲しがるんで
先生が教壇に立ってみんなと一斉にジャンケンして振り落としていく
って、一大イベントになっていたよ。あー…給食が食べたい。

290 :って言うかさあ :2000/03/30(木) 04:08
ここって、泣ける話じゃないのを書く人が
「泣ける話じゃないんですが」
「つまらない話ですみません」っていちいち断る雰囲気が嫌なんだよなあ。
十分面白い話なのにー

291 :名無しさん :2000/03/30(木) 05:20
11年付き合って、最後の2年は同棲してた彼。一方的に振っちゃった
から、自分は思い出を引き摺る事なかった。ここ見たら、一緒に私
の作った御飯食べた事、数えきれない程思い出した。彼はこんな思いを
したかもしれないって、涙止まらないです。別れてからも「いいから、
料理のレシピを書いてくれ。新しい彼女ができたら作ってもらう」
「どこで食べても同じ味が見つからない」ってTELしてきた。最近は
そうでもないけど、いつもTELは涙声だった。 ごめんね。
奇しくも、別れた理由のわずかな一つに「彼が偏食だった」ことがありました。
何でも食べれるくせに、「何食べたい?」って聞くと「唐揚げ」「ミート
スパ」「カレー」「ハンバーグ」ばっかり。付き合い始めたのが若くて、
最初の頃から私が作ったもの。 そういえばレシピも製作途中で、忘れてた。
今度会うので、がんばって作ります。


292 :名無しさん :2000/03/30(木) 05:37
291さんの話しで昔の彼のことを思い出して泣いてしまいました。あのころは
貧乏だったけど、それなりに工夫していろいろ作ってました。床に寝転がりな
がら二人で料理の本を見てたとき、いくつかを彼が指差して今度作ってねって
言ってました。そのうちの半分ぐらいは結局作ることなく別かれてしまいまし
た。今も元気かな。ちゃんとご飯食べてるかな。

293 :名無しさん :2000/03/30(木) 07:19
明るい田中麗奈さえでて来なきゃ面白いのに・・・・
いい加減顔出すのやめろよ。


294 :小学生 :2000/03/30(木) 16:07
>286  田中さん、初代田中さんですか?
HNの由来は違いますよ。 

295 :唐変木 :2000/03/30(木) 18:39
小学生の頃、ポテトチップスが大好きだった俺。
母親の買い物に付き合っておやつを買ってもらう時には、
母親が「100円以内にしなさい」と言うところ、いつも「108円でもいい?」と聞いていた。
(当時カルビーのポテトチップス、定価120円。近所のスーパーでは1割引で108円だった)

大人になって実家から離れている俺が実家に帰省すると、
決まって大量のポテトチップスが買い置きしてある。
母親は何も言わないが、実家の姉がある時
「お母さんって、○○(俺の名前)が帰ってくる時って、いつもポテトチップ買い込むよね」
と言っていた。

実家に帰って大量のポテトチップスの袋を見ると、その母の情が身に沁みるとともに、
母親にとって俺はいつまで経っても子供なんだと再確認する。
そして帰省からUターンする時にはいつも、食べきれなかったポテトチップスの袋が
俺のバッグの中にある。

296 :名無しさん :2000/03/30(木) 21:04
両親が共働きで中学、高校とずっと夕食の準備と父の晩酌の
相手(おつまみを作ったりするだけね)な毎日だった。
夜遊びなんてしたことなかったし、学校での昼食はパン。
体育祭などで家族が来てくれた事も一度も無かったし、家族で
外食に行ったことも全然無かった。

高校を卒業して上京する日、「これ適当に食べて」と母に紙袋
を渡された。
新幹線の中で中身を見ると、小学校の時以来に見る母の弁当。。
からあげやハンバーグ等の若者が好むようなおかずは全然作れない
母の、自家製の漬物や煮物ばかりの弁当を見て涙が出た。

当時の事を不憫に思ってるのか、たまに帰省すると無理にでも高級
な料理を用意しようとするので「母さんのみそ汁と漬物だけでいい」
って前もって釘をさす事にしてる。


おかげ様で男だけど肉じゃがとか得意です(笑)


297 :名無しさん :2000/03/31(金) 05:45
揚げバン食べたい

298 :名無しさん :2000/03/31(金) 11:11
ラ博で揚げパン買ったけど、給食の時食ったヤツとは違った。

299 :>296 :2000/03/31(金) 11:15
君はいい奴だ。がんばれ!

300 :>295 :2000/03/31(金) 14:10
最後の2行でやられた・・・ (T_T)

301 :名無しさん :2000/04/01(土) 00:31
あげあげ♪

302 :名無しさん :2000/04/01(土) 03:01
全レス見させていただきました。いいです、ここ。

303 :寝れない男 :2000/04/01(土) 04:48
3月31日で父が下っ端公務員を定年退職した。41年間も同じ仕事を
していたと思うとすごいなと思う。



今日は、特上のすしとビールで乾杯した。
よくありがちな風景だがきっとよい思い出になるな。

ところで父が退職金を私たちに見せようと家に持ってきてしまった。
生まれて始めてピン札の1000万の塊を持ったが、
なんかおもちゃのお札みたいだ。スゲーちゃっちい
ってゆうか
畳の上に札束を無造作に置いて「うわぁーすごい噴煙」とか
まったく日常と変わらない会話をしているんだよねぇ。
しかも最後のハンパな給料の小遣いを2万か3万かで
口ゲンカしている。いや、していやがる(笑)

このしっかり記念写真まで取った札束もド田舎しかも祖母の
土地に建てた家の建築費で無くなってしまう。月曜日で。

家族・人生・仕事について深く、深ぁーく考えてしまった。
そんなオイラは無職街道ばく進中!!

長文失礼。
ってゆーか、食いもんの話だったな。
ちなみに父は中卒だ。


304 :>303 :2000/04/01(土) 11:47
働かざるもの食うべからず

中卒でも、41年間も勤めあげた、お父上が居なかったら、特上すしも無いのサ
とっとと職を決めてその給料で、お父上に特上すしをご馳走してください


305 :山水トランス :2000/04/01(土) 17:47
この板、涙・泪。
思いでの食いもんか。
ロシアケーキだな。母が旦那と分かれ、自立せざるを得なくなり、山野美容学校に通ってた頃、2ヶ月ぶりに母に会い,新宿駅で別れる時渡されたケーキ。
今でもダイスキ。


306 :牛乳 :2000/04/01(土) 19:32
小学4年、牛乳当番でクラス全員の牛乳を運んだときの話。
なんの気なしに、自分のスカート(体育で着替えたんで)を牛乳
かご上に置いた私。
あるクラスメイトがそれを見て「汚い」と言った。
その一言がもとで、その日は35人(自分除く)誰一人として、
牛乳を飲んでくれなかった。
イジメ体質だったので、その件で延々責められました。
(イジメのナマナマしい話になるので割愛)
6年前、同窓会があり、その席でも牛乳の話を言われて、脱力。
2次会で多めに出してきたけど、もう出席はしたくない。
幹事の「オレらの子供時代ってイジメってなかったよなぁ」
の一言が耳に残ります。

自分の『やったこと』って都合のいいように脚色されてしまうんだなぁ。
もちろん、『されたこと』もそれってあると思いますけど。

牛乳飲むとたまに思い出します。


307 :名無しさん :2000/04/01(土) 20:29
あまりにもいいスレッドだったもんで、家族に見せようと夕べ印刷した。
午後9時の段階で66ページ!一時間かかりました。
今ばあちゃんが読みふけっております。

高校の時、天体観測会の名目でクリスマスイブに学校で一晩過ごした。
クラブの現役やOB、部外者も入れて20人いた。
部員の一人が手作りのデコレーションケーキを2個持参してきたが、
1個を10等分に切るのはちと難しい。どうしようか、と聞かれて
私は全員に言い渡した。「よし、みんな箸を持て。」
鍋物を突っつくように20人で2個のケーキを食べた。
「フツーするか?こんな食べ方(笑)」とウケつつ2個のケーキは
あっという間になくなった。
今でも正月恒例のOB会なんかで当時のメンバーが集まると話題になる。

308 :もっと読みたいので :2000/04/02(日) 14:21
あげ。

309 :名無しさん :2000/04/03(月) 18:21
あんまり食い物の話とはいえないのだが・・・

1年半ほど前2年ぶりに帰省した。
幼い頃の友人に会ったり、親戚のうちを回ったり。
全て弟が運転してくれていた。
弟は高校卒業後定職につかずぶらぶらしていた。
そんな弟があまり好きじゃなく、
いつも餓鬼扱いしていた。

東京に帰る前日、二人無言でラーメンをすすっていた。
「にーちゃん、明日どうする?」
「わかんねぇ・・・」
交わす言葉はこれぐらいだった。
ラーメンを食べ終わり一服していると・・・
「にーちゃん、明日時間があったら、じーちゃんの墓参りいかねぇか?」
いままで、祖父の法事にさえ面倒くさいと言って出なかった弟の口から出た言葉だと思えなかった。

次の日、朝早くから祖父の墓参りに出かけた。
途中で花を買ったり、酒好きだった祖父の為に酒を買い
祖父の吸っていたタバコを墓前に供え・・・

弟よ、今おまえを誇りに思う。
俺は東京で何とか生きている。
まだまだ帰る事はできないけれど、
今のおまえがいる限り安心して東京にいられる。
ありがとう、これからもよろしく。

また美味いラーメン食いにいこうな・・・。

310 :マタタビ酒 :2000/04/03(月) 21:32
大学生の頃のことなのでもう10年以上経っているのですが、
当時の彼とはもうだめなんだろうな、と薄々感じてはいたものの、
別れるのがつらくてだらだらと付き合っていました。

2月くらいだったか、試験も終わって冬休みだったんだけど、
成績の発表(単位の修得状況発表)があったので
学校のある街へ出かけていきました。
彼と会わずに発表だけ見て帰ろうと思っていたのですが、
学校に行くはずの私の足は、彼の下宿の方へ。
そこでいつものようにとりとめのない時間を過ごして、
夕方、私は一人で学校へ行きました。

私の方は無事、進級できたのですが、そこにいた彼の友人が、
私を見て、「○○○(彼の名)、まずいよ」と言ったのです。
名簿で彼の名を確認すると、落ちていたのです、必修課目が。
私は頭の中が真っ白になって、それでも何を思ったか駅前で
みたらし団子を何本か買い、ふらふらと彼の下宿へ帰ったのです。

今見て来たことについて話すと、彼は学校へとんで行きました。
残された私はみたらし団子を半分食べ、残りを置いて帰ったのですが、
だんだん彼が留年するという実感がわいてきて、彼が学校を辞めて
もう会えないかもしれないと思い、次の日また彼の下宿に行くと
彼は留守で、寒い部屋の机の上に、彼の食べかけの、冷えて固まったみたらし団子が。

あの時、どうしてみたらし団子を買っていったのか、今ではもう思いだせませんが、
今でも時々みたらし団子を見ると、彼の下宿の、冷たい空気を思い出します。


311 :名無しさん :2000/04/03(月) 22:37
帰宅途中に思い出した。

冬の寒い夜に同期の友人たちと鍋パーティーの約束をした。
材料は実家に頼んで送ってもらうことにした。
適当にたらの切り身でも送ってくれとだけ伝えておいた。

2日後家に着いたクール便は・・・
発泡スチロールの大きな箱に、
たらが1尾、毛蟹が5杯、カキが十数個・・・
白菜まで入っていた。

母上様、
3人で食べるといったのに、なぜ毛がにが5杯も入っている?

おかげで楽しいときを過ごせた。
いまだに仲間内では伝説になっているぞ。
ありがと。

312 :小学生の頃に :2000/04/04(火) 12:52
母が天丼に「そばつゆ」と間違えて
「アイスコーヒー」入れて
私達兄弟に食べさせた。悪意が無かったとはいえ
あまりのまずさと変な苦さに、二人で泣いた。

(母はそばつゆを自分で作ってタッパーで保存
していた。同じ形の別のタッパーにアイスコーヒーも
入れていたので「うっかり間違えた」らしい・・・)

313 :まい :2000/04/04(火) 16:57
(「あめぞう」にも書いた事ある内容ですが・・・)
幼稚園の頃お絵描きの時間に先生が
「大好きなものを描いてね」といういやに抽象的な
テーマをだした。
みんなは、「おかあさん」とか「愛犬」とか「お花」を
描いていたが、私は、画用紙一杯に茶色の丸を
何個も何個も描いた。先生の「これ、なあに?」の問いに
「とりのからあげ!」と元気に答えた私。
教室内は大爆笑、「だって、好きなものって言ったやん」と、子供心が傷ついた。その絵を、返却され家に持って帰る事になり「お母さんも笑うかなあ、」と心配になったが、お迎えに来た母に「好きなもの、から揚げ描いたら先生も皆も笑ってん。」ここまで話すのが精一杯で
大泣きしてしまった。
母は満面の笑みを湛え「そっかあ!」とその足で
すぐスーパーに行き鶏肉をいっぱい買って来て
その日の夜と、次の日のお弁当にから揚げを
入れてくれた。
年子の弟がいたので、「お姉ちゃん」というプレッシャーがあったのと、食が細かったので、
「これが好き」とか「これ食べたい」とかあまり
言わない子供だったので母はすごくうれしかったみたい
父も「この子は酒飲みになるぞお」とうれしそうに
から揚げをたべていた。
期待を裏切らず酒飲みになり、あてはいつもから揚げ
身長も171センチと大きく元気に育った。

「から揚げの絵」は、いまも大切に実家に保管して
ある。
おかあさん、ありがとう。

314 :名無しさん :2000/04/05(水) 01:19
給食に私の大嫌いなチーズが出たとき

一年生   先生が給食を残してもいいという考えの人だったので残してた
二年生   隣の席の子にあげていた
三年生   ごみ箱に捨てて怒られた
四年生   窓の外に投げて怒られた(こっそりとやったのになぜかばれた)
五年生   壁にすりこんで、掃除のときにそこを拭いといた
六年生   ポケットに忍ばせてトイレで流すというゴールドパターンを覚えた

それにしてもたかが給食をどうして残しちゃいけないんだろう
残すのがダメだとしても隣の子にあげるくらいい気がするけど



315 :どんべい :2000/04/05(水) 03:11
母とあまり仲が良くなかった祖母が作ってくれた、親子丼。
汁気が多くて、今思うと親子丼って感じじゃないけど、おいしかった。
ちょっと悲しい死に方(というか、15年前から行方不明。寒い時
だったから、死んでるよ。)だったので、悲しい思い出の一品になった。

それから私は、鶏肉大好き人間になった。
高校卒業して、就職で田舎から大阪に出てきた私は、
ストレスがたまると、田舎には無かったケンタッキーフライドチキン
をやけ食いし、彼氏ができて、こっそりダイエットに励んでた時は
鶏肉と大量の野菜を酒蒸しにしたのを食べ、
お金が無い時は、皮とキャベツやもやしを炒めて食べた。
実家の事を思い出すと、大好物だったささみの刺身を思い出して
もわーんとした気分になる。

どこのスーパーに行っても、鶏のから揚げを、つい買ってしまい
でも、全然あきないようになってしまったのは、
ああ、おばあちゃんのせいなのね、と認識させられたこのスレッド。
これからも、嬉しい時も悲しい時も、
どんな時も鶏肉を食べていくでしょう。

あの親子丼が食べたい。でも、もう食べられない。
そんなこんながあって、みんな大人になっていくのね。
みんないっしょだ。
長文申し訳ないです。でもどうしても書きたくて。ごめんなさい。

316 :> :2000/04/05(水) 04:38
高校の悪友たちと、高三の夏に泊まりがけで海水浴に行った。
夜、テントでメシを食おうとして、持ってきた「日清焼きそばUFO」を取り出したが、当時、水不足で断水中だったため、どうしても水が手に入らなかった。
仕方なく、皿ウドンのような麺にソースをぶっかけて、みんなでかじった。ゲラゲラ笑いながら。
今となっては、懐かしい想いで。

317 :ぁゃιぃ :2000/04/05(水) 06:00
あまりにもいいスレッドなのでage
帰ってから読みます。

318 :名無しさん :2000/04/05(水) 07:05
中学の時、林間学校の朝食で大嫌いな納豆が出た。
残していたら、周囲の席の連中が、
「残しちゃダメなんだよー」「なんで食べないの」と
やたら責めてくる。
半べそかきながらむりやり全部飲み込み、やっと片づけの時間に。
まわりを見ると、みんな色々残してるんだ。文句をいってた連中も。
単なる「いじめ」だったわけです。

もう絶対、嫌いなものを無理矢理食べたりしない。と心に誓った。
おかげで今でも偏食がなおらないけど、それでもいいや。
あんな思いをするぐらいならね。

319 :名無しさん :2000/04/05(水) 10:51
昔、夏休みの観測合宿に参加した時。女性が少なかったので、
(ここはせいぜい役に立つべし!)とばかりに台所に立つようにした。
料理にはいっぱしの自信があったので
そんなワタシも見てね〜な、下心もあったかもしれない。
毎食、まずまずの出来ではあったのだが、
カレーライスを作った時、給食用の?大鍋に作ったため
(山奥の学校での合宿、給食施設を使用させてもらっていた)
水量の目測を誤り、買い置きのルーでは全然足りなくなってしまった。
商店のある市街地まで車で片道一時間以上かかるのに
先生に車を出してもらい、ルーの追加買い出しをする羽目に。
しかも結局、追加しても味はするものの水っぽ〜い仕上がり。
申し訳ないやら恥ずかしいやら、トホホな気持ちになってしまった。

その当時はまぁ、許せる失敗の範囲と「自分では」思っていたのだが、
後に聞くと今も語り継がれる笑える伝説になっていると知った。
たまにカレーや大鍋料理をする時なんかに、
なんともナサケナく、寒い気持ちを思いだします。


320 :>313 :2000/04/05(水) 18:40
甥も保育園で紙粘土で「肉」をつくって、展覧会のときそれだけ
浮いてたそうです。ステーキ用みたいなやつ。かわいい。


321 :名無しさん :2000/04/05(水) 19:53
父は糖尿があって結構食事制限がある。いまは定年後家で家事手伝い。
母はまだ現役。
この前の連休私たち夫婦が義理の家の手伝いから帰ったあと、土産を取りに来たとき、
(私の家と私の実家は近い)「腹減ったからなんか食わしてくれ」
と言われたんだけど、わたしは婚家に行った気疲れからか食事作る気力なくて
「何も用意してないよ」「疲れてるから」と言ってそのまま帰しててしまいました。

このスレッド久しぶりに読んで大反省。そういえばうちの父は私の手料理食べたことないのだ。
近いうちに両親呼んで食事でもするか。でも母は多分「お母さんの作った方がおいしい」って
言うんだよね。(調理師である)

というわけで、わたしの思い出の料理は「料理のない話」でした。


322 :名無しさん :2000/04/05(水) 19:57
おっと失礼「思い出に残る食事」ね。
「思い出に残る、食事のない話」でした

323 :名無しさん :2000/04/06(木) 00:01
食事の話じゃないのですがこのスレッドみて
思い出したことがあります。

私の祖父はすごく恐い人で、明治生まれの頑固じじいっていう
言葉がぴったりな人でした。
でも、昔のヒトなのにコーラとか若者が好むような食べ物が
大好きだったんです。

私達姉弟が幼稚園くらいのときのコトだったと思います。
ある日祖父が庭の雪かきをやってて私達が手伝ってました。
そんな時祖父が突然私達たちに、「ここ掘ってみろ!」って
いうんです。
なんだなんだと掘ってみると雪で冷やされたコーラが2本出てきました。
なんでコーラが出てきたの?って祖父に聞いても教えてくれません。
祖父は庭の裏手に見える遠くの山を指差して、
「あの山から魔法使いが運んできたんだ!」の一点張り。。
コーラは250mlのやつで1本は祖父の分もう1本は私達の分。
1本のコーラを弟と分けあって興奮しながら飲んだ覚えがあります。
それから何日かコーラ掘りは続きました。
「いい子にしてないと魔法使いは運んできてくれないぞ!」
という祖父の言葉を信じその冬の私達はとてもいい子でした。
恐い祖父から魔法使いって言葉がでること自体私達にはオドロキで
しばらくは本気で信じてました。魔法使いが運んできたんだ!と。
恐いだけになんだか真実味が溢れてて・・・
まんまと騙されてました。(笑)

祖父は随分前に他界してしまいましたが、今でもスキー場など
雪のあるところでコーラを見かけると祖父のコトを思い出します。

食事の話じゃなくてホントにごめんなさい。


324 :22年前の事・1 :2000/04/06(木) 05:12
もう、22年も前の事。
専門学校生だった私は、アマチュア劇団に入り、そこで主人と知り合った。

私が入団してまもなく、その劇団の公演が池袋で行われた。
無事に公演も終わり、楽屋口に戻ると、彼が何かを探している。
財布が見あたらないらしい。どうやら盗まれたようだった。
「騒ぎ立ててみんなが厭な思いしてもなんだから・・・。」
と彼は財布を諦め、その劇場を後にした。
その夜は団員一同打ち上げを兼ね、西荻窪にある稽古場へ泊まり込み、
翌朝帰途についた。(彼の定期は無事だったのだ)
新宿で乗り換え、渋谷方面へ向かうのは私と彼の二人だけ。
「暇だったら、代々木公園にでも行こうか。」
彼にあこがれていた私は天にも昇るうれしさで
「暇です。」と即答。初めてのデートが成立したのだ。

渋谷で電車を降り、頃は昼時。そろそろお腹も空いてきたし・・・。
しかし彼は昨夜財布を盗まれ、文無しのはず。ここは私がおごらねば・・・
と、思った矢先、
「腹、減ったなあ。メシ、食べに行こう。おごるよ。」と、彼。
「あ、でもお財布盗まれたんじゃないんですか?」
「大丈夫、美味しいところ知ってるから。」
どんどん先に立って歩き出す。不安を抱えてついていく私。

325 :22年前の事・2 :2000/04/06(木) 05:17
入った先はガード下のカレー屋。
美味しそうな匂いが狭い店内に充満していた。
「なんでも好きな物頼んで良いよ。」と笑顔で言ってくれる彼。
そっと壁のメニューに目をやり、
内心、「いざとなたら私が払おう。」と思いつつビーフカレーを注文した。
出てきたカレーはとても美味しかった。
先に食べ終えた彼が脇に置いた鞄をごそごそやっている。
と、ワンカップ大関の空瓶を取り出したのだ。
からっぽ・・・ではなかった。中に小銭がじゃらじゃらと入っている。
彼は蓋を開け、二人分のカレー代を取り出すとまた蓋を閉め鞄にしまった。
それは昨日舞台で彼が持っていた小道具だった。

あこがれの人とあこがれの初デート。初の食事。
それはあこがれていた情景とはほど遠いものではあった。
けれどもあの時のカレーは美味しかった。
・・・確かに美味しかった。
見てくれなんか関係ないと言うことを厭になるほど教えてくれた味だった。

家族となり、家族が増えて、東京を離れてもうずいぶんと経つ。
主人が住んでいた渋谷のアパートは、今では東急ハンズになってしまった。
まだ、あのガード下のカレー屋はあるのだろうか。

長くてごめんなさい。

326 :名無しさん :2000/04/06(木) 13:20
泣ける話も、そうでない話も
食べることって生きていくことなんだと感じさせてくれます。

ってなわけであげ。

327 :ましゃ :2000/04/06(木) 16:49
私が結婚するまで、やきそば作りは父の担当でした。
「ほーら、いっぱい食べろよ」といって
たくさん取り分けてくれたっけ。
今度実家に行ったとき(近いけど)、また父やきそばが食べたいな。

328 :名無しさん :2000/04/06(木) 17:27
クレイジーソルトのメーカーのものではありませんが、
レモンとハーブ数種類が入っている、似てる製品があります。
(Mrs. Dashとかいう名前だったかな?)
鮭の切り身にふりかけて焼いてみたら、ものすご〜くおいしかった!
その製品には塩が入ってないので、お好みによって
付け加えてもいいし、健康を気になさる方は、そのままでも十分OK!

329 :名無しさん :2000/04/06(木) 17:32
↑うきゃ〜!違う所に書き込んでしまった!ごめんなさいっ!

330 :名無しさん :2000/04/06(木) 19:28
やってくれたぜ、名無しさん!!(微怒)

331 :名無しさん :2000/04/07(金) 15:26
友達と旅行にいったら
揃って胃の調子が悪くて
全くごちそうが食べられなかった
大雪で観光地も休みだった
部屋でパズルしてテレビみて
食事はヨーグルト1個を2人で分けて食べた

332 :あぁ :2000/04/07(金) 16:47
まだ幼稚園の頃、母親は妹の出産の為入院していた。
当然父親と私だけだったのですが、いつも食事など作ったこと
の無い父親が作れるものといったら、インスタントラーメンだけ。

暗い台所で一生懸命(?)インスタントラーメンを作っている父親
の姿が今でも目に浮かびます。

333 :名無しさん :2000/04/08(土) 00:41
子供の時野菜嫌いで、母の作る野菜たっぷりラーメンより父の作る
そのままのインスタントラーメンが好きでした。
今は自分で作りますが体のために野菜を入れてラーメンを作ります。
大人になったなあと自分でしみじみ思ったりします。

334 :名無しさん :2000/04/08(土) 10:33
魔法使いがコーラを運ぶ話良いなぁ
ウチの祖父もちょっと近寄りがたい雰囲気のする
おじいさんだったんだけど、部屋の天井に据え付けた
スポットライトをさして、「アレはここに泥棒が入ってきたら
退治するためのレーザーを出す機械なんだよ」と
刷り込み、孫を興奮させていました。ちゃめっ気のある人でした。

ウチの祖父のうちは田舎だったのでかなり広大な庭を
もっていたのですが、ここで鶏を放し飼いにしていました。
夜は木ノ上で眠っていて、鶏は飛ばないと思っていた僕ら孫どもは
驚いたものでしたが、あるとき祖父宅に行くと鶏がいない・・・
「どうしたの?」と聞くと、「客が来たので食べてしまった」
と言って、孫達をびびらせました。
これはホントに食べてしまったみたいです。

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