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思い出に残る食事
- 213 :名無しさん :2000/03/22(水) 22:30
- うぇ〜ん、号泣。
会社でこのスレッドを見つけて読み始めたけど、泣けてきちゃって困るので、
今家に帰って読み終えました。
2chでこんなに感動するなんて、思いませんでした。
私は、実家が好きではなくて、10年ほど前に家を出ました。
でも、家を出て初めて親のありがたさとか、気持ちが分かった気がします。
未だに、母親が、父親が庭の畑で作ったたくさんの野菜や缶詰とかを
短い手紙を添えて送ってきてくれたりしてくれます。
その野菜で、母親の味を思い出したり、電話で作り方を聞いたりして、
煮物を作ったりするのですが、やはり何かが違います。
このスレッドを読んでいて、なんだか実家に帰ってお母さんの
料理が食べたくなってしまいました。
- 214 :名無しさん :2000/03/22(水) 22:41
- 叔父の家は、ウチから電車で1時間位の所で蕎麦屋を営んでいて
ちょくちょくと遊びに行っては美味しい物を食べさせてくれたり、
夏休みに一寸仕事を手伝っては結構な額のお礼を貰ったりと
可愛がって貰っていました。
産まれて初めて「ステーキ」なるものを食べたのも叔父の家でした。
叔父が焼いた「ステーキ」は当時、我が家では牛肉を滅多に
食べる事も無かったので、妹と二人でとっても喜びました。
それから、何年かして僕も社会人になっていた有る日の事
叔父が癌で発見が遅れた為、開頭手術をしても患部は全て
取り除けなかったと母から言われました。
手術後、妹と見舞いに行き、自分が癌である事を知らされていない
叔父は、「早く、店を開けなくちゃナ」と言ってリハビリをしていました。
叔母が病室の外で「抗がん剤で気分が悪い筈なのに、メシを食わないと
力が落ちるからって無理にご飯を食べているんだよ」って泣きっぱなしでした。
帰り際に、妹が「叔父さん、またステーキを焼いてね」、叔父が「うん」と
一言。
数週間後、叔父の娘さん(従兄弟)が予定を繰り上げて結婚式を
するとの事で出席し、そこで見た叔父はメッキリと老けてはいましたが、
結構シッカリした様子なので少し、安心しましたが、その数日後、
従兄弟が新婚旅行中に逝ってしまいました。
今でも、あの叔父が作ってくれた2度と食べれないステーキが
忘れられません。
- 215 :>205 :2000/03/22(水) 23:35
- なーんか小学校の時の道徳の教科書「にんげん」に載ってた気がすんなぁ
その子の家は貧乏で、汚い家に住んでたから・・・・ってオチだった
- 216 :名無しさん :2000/03/23(木) 02:26
- 私は小学校1年から4年までずっと同じ担任でした。
そのおじいちゃん先生は その年も例年のように家庭訪問にきました。
その日の訪問は家が最初で、当日珍しく私の父もいたのです。
私はすれ違うように友達と遊びに行き、夕方帰ってきてびっくり。
そこは宴会になっていました。すっかり酔っ払っている父と先生・・。
脇にビールが4,5本空いてました。母に「この事は内諸よ」と口止めされ…。
もちろんその日の訪問は家でストップ。後にはまだ3,4人はいたはず。。
訪問予定だったお宅には何と言い訳したんでしょう、、
あとから聞いた話では、先生も奥様を亡くされたり色々あったみたいです。
それだけ長時間いて私の話はほとんどなかったとか(笑)
- 217 :やだ、もう :2000/03/23(木) 12:47
- 泣けてきてしょうがないよー。
職場なんで、慌てて目薬さしちゃいました。
- 218 :名無しさん :2000/03/23(木) 13:35
- 花粉症なので、会社で周囲をはばかることなく涙を流しながら
読みました。
- 219 :名無しさん :2000/03/23(木) 15:57
- ほろっとはくるけど、泣けないなどれも。
感受性が死んでのかな>自分。
- 220 :名無しさん :2000/03/23(木) 20:25
- 高校生の頃、母と兄の3人家族でした。
母も兄も仕事をしていたため、家に一人でいることがほとんどだった私の
唯一の遊び相手は猫のミーコでした。
ある日学校から帰ったら、珍しく兄がいて、「ミーコが車に轢かれて死んだ」
と聞かされました。私は「ふーん」とだけ言っていつものように夕飯の支度をし、
黙々と食事をしました。食べ終わった瞬間、涙が滝のようにあふれてきて
とまりませんでした。それから2日間、涙が止まりませんでした。
なぜあのとき、普通にご飯を食べたのか、今でもよくわからないのです。
- 221 :名無しさん :2000/03/24(金) 01:28
- おばあちゃんがよく作ってくれた みそ田楽のおにぎり。
まるい形のおにぎりを焼いて丁寧に味噌を両面にぬったやつ。
おばあちゃんのしわだらけで今までの人生がしみこんだような手でにぎられたおにぎりは
なんとも言えず美味しくて大好きだった。
今おばあちゃんはぼけちゃって施設にはいっている。
自分でそのおにぎりを作ってみたけど やっぱりあの味にはならない。
- 222 :名無しさん :2000/03/24(金) 01:39
- 小学生低学年の頃です。
父が家に昼飯を食べに帰ってきたのですが、何か嫌なことでもあったのか
その日はかなり機嫌が悪かったのです。両親は自営業をやっていて、悪い
ことにその日は休日で人がおらず母も忙しかったため、簡単にカップ麺
で済まそうとお湯の用意をしていたのでした。
食卓についた父が何かのことで母をなじり、気が強かった母は父に言い返し、
父はその母の言葉に反論できなくて、眉間のしわをさらに深くして不機嫌そ
うに黙っていました。
母がカップ麺にお湯を注いでふたをした直後、父がそれを母に向かってなぎ
払いました。ふたが外れて中の熱湯が母の手や足にかかり、母は床にうずく
まって泣いてしまいました。カップ麺の散乱した中で、やけどした手を押さえ
「痛いよう、痛いよう」と子どものように泣く母の姿は、普段母の強気な姿しか
見たことがなかった私にはとてもショックでした。恐らく母にとっても、父の
その仕打ちは非常にショックだったのだろうと思います。
その後、さすがに父も悪いと思ったのか、母を病院へ連れて行きました。
床を掃除しながら、母がかわいそうだという気持ちと、こんな家庭にいる
しかない自分が子どもながらにみじめに感じて、泣けて仕方ありませんでした。
病院から帰ってきた母の、手や足に巻かれた包帯やガーゼは直視できませんでした。
その両親は何年か前に離婚し、去年父の会社も倒産しました。
サンポーの焼豚ラーメンを見ると、その時の嫌な気持ちがよみがえります。
- 223 :名無しさん :2000/03/24(金) 03:53
- せつないねぇ・・・。
- 224 :>222 :2000/03/24(金) 04:11
- これから幸せになられるといいですね。心からそう思います。
- 225 :>39 :2000/03/24(金) 04:22
- その気持ちわかります。
あとで思い返して胸が痛くなるんですよね。
いま悪いと思った気持ち、絶対相手に伝わると思いたいっす。
- 226 :>61 :2000/03/24(金) 04:23
- 祖父様はいまも健在なのでしょうか。
つらいですね。自分を思ってくれたお菓子を捨てられちゃうなんて。
- 227 :226 :2000/03/24(金) 04:24
- 同じような経験があるので、読んでて身につまされました。
- 228 :>74 :2000/03/24(金) 04:24
- いい彼氏だったね…
- 229 :>220 :2000/03/24(金) 05:20
- とっても辛い出来事ってすぐには実感できないから、夕御飯を食べて
お腹がおちついたら、さめざめと実感してきたんじゃないかな。
私も大好きだったおばあちゃんが死んじゃった時、30分くらいして
いきなり泣き出した。遺体とはとっくに対面してたのに。
- 230 :親不孝者 :2000/03/24(金) 05:42
- 高校2年の秋、母が癌で入院した。
若干マザコンの気があった私は毎日学校が終わると病院に直行し
面会時間が終了するまで母と一緒に過ごしていた。
ある日、学校ですごくイヤなことがありムシャクシャした気分のまま
病院へ向かったのだが、病院の駐輪場で自転車の置き場所のことで
警備員にちょっとキツメに注意され、不機嫌だったこともあり口論になってしまった。
ますます不機嫌になった私が母の病室に着いても憮然としたままでいると
母は気を遣ってお見舞いのフルーツ籠からバナナを1本取ってくれた。
当時はバナナが大好物だったのだが、まだ幼かった私は気分の切り替えが出来ず
不機嫌な顔のまま「いらない」と言ってすぐに家に帰ってしまった。
母はキョトンとした顔で私が病室を出て行くのを見送っていた。
それから2、3日の間気まずい思いで病院に行かなかったのだが
次に会いに行った時には母の病状が急激に進行していて
会話すらまともに出来なくなっていた。
その後は死相の浮かんだ母の顔を見るのがイヤで、結局臨終まで病院に行けなかった。
なぜあの時もっと母に優しくできなかったのか。
なぜあの後今まで通り会いに行かなかったのか。
あれから10年以上経つけれど未だに当時の自分が許せない。
そしてその時以来バナナが食えなくなりました。
- 231 :彼と食べ物と私 :2000/03/24(金) 09:09
- 8年前、彼は留年の決まった大学4年生で、とても貧しくだらしない生活を送っていた。
お金持ちではないけど不自由のない自宅OLだった私は彼に何かしてあげたくて
慣れない料理を覚ることになる。ほとんど私がお金を出して食材買ってたので
悪く言うと「ヒモ」みたいなものだったかも・・・
初めて彼の部屋で食べたのはカレーライス。
家から2合の米とレトルトのカレーを持って行ってごはんを炊いたのは良かったけど、
カレーライスを盛るお皿がなくて(かろうじてスプーンはあった)、結局、
炊き立てのご飯の入った炊飯ジャーに温めたカレールーを入れて二人で食べた。
一つのお釜から直接食べるのがおかしくて、二人でくすくす笑った。
次に作ったのは親子丼。
「ぶきっちょさんのお料理ブック」と言うレシピ本を買った私は
夕方からバイトに出掛ける彼の出勤に間に合うように一生懸命卵を溶いた。
卵に気を取られるあまり、炊飯ジャーのスイッチを入れ忘れているのに気付き
慌ててご飯も炊いたんだけど時間ギリギリになっちゃって
ご飯が熱いのを我慢して一生懸命かきこんで食べた。
ちょうど「美味しんぼ」の再放送で親子丼の回だった。
自分の作ったものが画面の親子丼と違ってないかドキドキした。
初めてケンカしたのはビーフシチューを作った時だった。
煮込んでいる間に彼がイビキかいて寝てしまったのが悲しくて
お鍋を火から下ろして泣きながら家に帰った。
起きてびっくりした彼が電話で謝ってきてすぐにまた会ったんだけど
お金もないのに大学の生協でお菓子を買ってくれた。
彼の部屋に戻るまでほとんど口を聞くことはなかったけど
手だけはぎゅっと握り合っていたのを覚えている。
3年前、私は彼の扶養家族になりました。
今日の晩御飯は何にしようかな。
- 232 :名無しさん :2000/03/24(金) 09:21
- 奥さん、奥さん、まだ朝ですけど。(笑
- 233 :名無しさん :2000/03/24(金) 11:25
- >231
田嶋陽子が怒りそうな(笑)メルヘンな人ですね
そうそう、ごはんつくってるときの態度ってむかつくときあるよね。
私は、料理してるときに音楽をきこうと思って、かけてたらその横で
テレビつけられたので怒ったことがある。ま、気づかないんでしょうが…
世話するのがキライで、世話してちょうだい!とおもってる私でも、
料理だけは自分でする。というか、食事にかまわない男の人に異常に弱い。
今日は朝から菓子パンいっこしか食べてない、というようなことをきくと
胸がときめきます。
(若い男の子に限る)
- 234 :名無しさん :2000/03/24(金) 11:52
- 今朝(と言うより昨日の夜)から何も食べてません。(泣
でもご飯よりもそろそろ睡眠の方が…。
- 235 :61 :2000/03/24(金) 13:08
- >226さん
祖父は亡くなりました。だからよけい辛いです。
母も悪い人ではないので、ちょっと機嫌が悪かっただけだと思います。
けれど、私はああいうことをしないようにしようと思ってます。
- 236 :名無しさん :2000/03/24(金) 14:18
- 今気がついたけど、「からい」と「つらい」は
同じ字なのねん。食べ物って奥が深い・・・
- 237 :ビール :2000/03/24(金) 17:30
- ビールは横に冷やすとうまい、と父は言っていた。
そんなわけはないと、と言っても聞かず、冷蔵庫に決まってビールを横にして冷やしていた。
酒以外煙草もギャンブルやらない親父にとって、ビールに関してだけこだわりを
持っていたのかもしれない。酒が飲めなかった俺は、一緒に飲むこともなかった。
親父が死んだ時、なぜかそんなに悲しくなかった。あっけないな、とは思ったが、
何か時間が寸断されるような感覚はなかった。親戚が自宅にきて、これからのことを
話し合っているときに、ふと何か酒が飲みたくなり、冷蔵庫を開けた。
横になったビールがあった。時間がぎゅっと凝縮されて、思い出すべきことが多すぎて、泣いた。
- 238 :>237 :2000/03/24(金) 18:06
- 私も、もらい泣き(涙)
- 239 :名無しさん :2000/03/24(金) 19:45
- 高校3年生の時、隣のクラスの好きな子を映画に誘って
運良くOKの返事をもらい、映画の後お決まり喫茶店で
とりとめの無い話をしたな。
自分が何話したか食べたかは忘れたが、彼女がエビピラフを
食べたのは今でも覚えている。
店で告白しようと思ったが、すぐ隣に人がいたので店を出てから
告白、返事は「いい友達でいましょう」あえなく撃沈。
高校の友人にたまに会うが、彼女のこと聞けない
「結婚した」と聞いたら心臓止まるかも…
- 240 :名無しさん :2000/03/25(土) 13:55
- age
- 241 :円谷幸吉の遺書(閑話休題) :2000/03/25(土) 15:37
- 父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、モチも美味しゅうございました。
敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。
克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゅうございました。
巌兄、姉上様、しそめし、南蛮漬け美味しゅうございました。
喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゅうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。モンゴいか美味しゅうございました。
正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になって下さい。
父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が安まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。
- 242 :>241 :2000/03/25(土) 15:47
- 閑話休題の使い方が間違ってるよ。
- 243 :>241 :2000/03/25(土) 19:46
- 昔、そのまま歌詞にして歌にしたグループあったよね。
女性ボーカルが「幸吉はもーう、走れません♪」って歌うの。
スポーツ選手にとって仕事以外のいちばんの興味って、やっぱ食べ物なんだなあ
と思うと、なんかやるせない。
世の中にはもっと楽しいこといっぱいあるのに。
- 244 :名無しさん :2000/03/26(日) 04:13
- 私の父は40代前半で、ガンのために、発覚してから数カ月で他界しました。
死亡する前日父の病室に行き、いつものように梅干しと、母が作った おかずをを差し入れました。
入院直後からちょくちょく差し入れはしていたのですが、そんなにすぐ死んでしまうとは
考えもしなかった私はそれが億劫で、いつも夕食の時間より遅く届けていました。
帰りがけ父が、何か言いたそうにしていたのをぐっと呑み込んで、バイクで帰る私に
「気をつけてな」と、いつものように一言声をかけました。
それが最後の言葉でした。
その後私は何度か入院することがありました。
体調が良くなると、病院の生活は実に退屈で「次の食事まで後◯分」という気持ちで
時計を見るようになります。
その食事があまりおいしいものではなく、また量も物足りない。
父が差し入れをどんなにか楽しみにしていたか、自分で体験し分かったような気がしました。
私はこれまで、現在の自分がたいした人間でもないわりには、自分の行動を後悔したことが
ないのですが、このことについてはたいへん後悔しています。
もっと早く届けていれば良かった。毎日運んであげれば良かった。
いや、むしろ自分のために、残り少ない父との時間をもっともっと大切にするために、
そうすれば良かった。
差し入れを届けてもすぐに帰ったりするんじゃなかった。
父の死後しばらくの間、梅干しを食べる気になれませんでした。
しかし15年経った現在は、自分で漬けています。
梅干しを漬ける度、あるいはそれを食べる度、思い出してしまいます。
- 245 :さつき :2000/03/26(日) 14:09
- 以前、寮生活をしていた時、滋賀の子が、おそうめんをゆでて
どんぶりに入れ、おしょうゆとミョウガとマヨネーズをまぜて
食べていた。最初見た時、ウゲーっと思ったけど、
ちょっともらって食べてみると、おいしくって、あれから10年
いまだに食べてます。
- 246 :名無しさん :2000/03/26(日) 14:54
- 小学校一年、入学したての頃。
上級生(6年)が給食の手伝いに来てくれた。
その日の献立は、食パンにスライスチーズ・レタス・マスタード(他は覚えていない)。
「いただきます」の合図で食事を始めるのだが、その前に、
上記の食材からサンドイッチを作らないといけない。
私もサンドイッチを作り始めたのだが、スライスチーズのかけらが
残ったので、つい口にしてしまった。
そのとき、上級生に「まだ食べたらだめだよ」と注意されてしまった。
25年前の、食事に関する一番古い記憶です。なんで覚えているのか。
- 247 :明るい田中麗奈 :2000/03/26(日) 18:55
- 私には子供の頃「この世でいちばん美味しい食べ物は?」という質問に真面目に「スイカ」と答えた記憶がある。あの頃のスイカはほんとうにうまかった。
- 248 :名無しさん :2000/03/26(日) 22:54
- 私も寮の話し。貧乏な大学の寮に入っていたので、朝は卵かけご飯とお味噌
汁のみ。家は母が厳しかったので、卵かけご飯は犬のご飯と呼ばれていて
食べさせてもらえなかった。だから私も寮に入った当時は、敬遠してたけど、
ある日思いきって食べてみたらこれが思ったよりおいしい!それからは毎日
食べてました。今はアメリカにいるんだけど、一番食べたい日本食としてま
ず思い浮かぶのがこの卵かけご飯です(こっちの卵はこわくて生では食べら
れない)。
- 249 :名無しさん :2000/03/26(日) 23:44
- ポテトチップスが大好きだった俺だが、
子供のころ、祖母が自家製のポテトチップを作ってくれたことがあります。
作り終わったポテトチップを見て、祖母が,
「戦争終わったころ思い出すな」と言って、仏壇にそのポテトチップを
供えて、手を合わせました。
油は貴重品だったんだけど,油が手に入ったときはジャガイモをそうして食っていたそうだ。
今でも,コンビニでカルビーのポテトチップスの袋を見ると時々思い出します。
- 250 :>248 :2000/03/27(月) 02:38
- 横レスでごめんなさい。アメリカで生卵。日本人ならやっぱり食べずに
はいられない(笑)。というわけで、自然食品のお店やヘルスフードの
お店に行くと、生で食べられる卵売ってますよ(健康食品として食べる
アメリカ人が多いらしい)。Mothersとかああいうタイプのチェーン
店です。すき焼きするにも生卵がいるので、うちはいつも卵はこういう所
です。値段もそんなにびっくりするほどじゃないですよ。
これからも頑張って卵かけご飯、沢山食べてくださいね!
- 251 :〉248,250 :2000/03/27(月) 06:05
- カナダですが、全然気にせず食べてます。それほど危険ではない
とも聞いたのですが、気を付けたほうが良いですね、これから。
- 252 :さばおどり :2000/03/27(月) 06:54
- 私が8歳で、弟が5歳の頃の話です。
当時、母が病気で入院してしまい、父は単身赴任中であることから、
私達は祖母(父方)の家に預けられておりました。
母や私達を嫌っていた祖母は、朝から夜遅くまで舞踊のお稽古に行き、
私達の世話は一切しませんでした。そこで、私達はいつも近所に住む
Aさんという人のいいかたの家でご飯をいただいておりました。
ある日、母が一日だけの許可をもらって退院してきました。
本当は体がとてもきつかっただろうに、母は甘えつく私達を何回も
抱っこしてくれました。
夜は、三人で歌いながらハンバーグをこねて作りました。
「今日はお母さんが帰ってきたから、ご飯はお家で食べます!」
Aさんの家に挨拶に行った時の弟の、何か誇らしげな表情を見て
嬉しくなった私は、その紅潮した頬っぺたに何度も自分の頬っぺたを
擦りつけて家に帰りました。
- 253 :さばおどり :2000/03/27(月) 06:55
- 家に着くと、既に料理が食卓に並べられていた。母は暖かい牛乳を差し出して、
「おばあちゃんが帰ってきたから、ちょっと待っていてね。みんなで食べようね。」
と言った。私達がAさんの家に行っている間に帰ってきたようだ。しばらくすると、
着物から着替えてきた祖母が台所に入ってきた。
「お義母さん、お食事の用意できていますので、どうぞお掛けになってください。」
その母の言葉を遮るように祖母は、
「病人の作ったものが食べられますか!何が感染するかわからないのに…」
と言って、母の作った料理を全て残飯の入ったごみ袋の中に捨てていきました。
「も、申し訳ありません…」
さっきまでニコニコしていた母の顔から一気に血の気が引いていきました。
私は(どうしよう!どうしよう!)とただただ混乱していました。
「バカヤロウ!」
突然、弟が叫んで、祖母からごみ袋をひったくりました。
仁王立ちになった弟は、祖母をにらみつけながら、ごみ袋から
母の作ったご飯を手ですくって食べ始めました。
「俺はなぁ… 俺はなぁ…」
後の言葉が出てこずに、目から涙をボロボロとこぼしながら、弟は食べました。
小さな肩を震わせて、必死に強がって…
そんな弟を見て、私も大泣きしながらごみ袋からハンバーグを掴み取って食べました。
「もう、いいのよ。やめて。二人とも。いいのよ。お願いだから…」
泣きながら止める母の声も無視して、私達はむさぼり続けました。
これが私達姉弟の、母の最後の味。悲しさと悔しさの恨みの味…
- 254 :↑ひゃー :2000/03/27(月) 07:06
- ヘヴィーです・・・・ヘヴィー過ぎます・・・ >_<
文章が上手なのがイヤですぅ〜!
しくしくしく・・・
- 255 :わたしも・・・・ :2000/03/27(月) 07:27
- >さばおどりさん
朝から泣きはらした目で仕事に行かねばなりません。
それにしても、悲しすぎます。
どうか現在のあなたは幸せであることをお祈りします。
- 256 :名無しさん :2000/03/27(月) 08:33
- 涙が止まりません、さばおどりさん。
このスレッドにはいくつか悲しいお話があるけど、
あなたのは特に悲しすぎる。母を思う弟さんとあなたの気持ちが
おばあさんにつたわらなかったのでしょうか。
同じ人間としてすごく悲しい。
朝から泣かずにはいられませんでした。
- 257 :名無しさん :2000/03/27(月) 09:46
- さばおどりさん、あまりにも泣けすぎる。
二日酔いでも、この涙は忘れる事はできません。
- 258 :緑一色 :2000/03/27(月) 15:55
- 泣ける話ではないが…
中学に入る直前の春休みのある暖かい夕方、桜を見に近くの公園まで出かけた。
北国なので、4月中旬でも桜はまだ5分咲きくらいだった。人はあまりいなか
ったが、ふと同じクラスの女子に会った。彼女とは殆ど話をしたことが無かっ
たが、せっかくなので歩きながら、新学期からのことなどいろいろしゃべった
ように思う。確か彼女は直しに出した制服を取りに行った帰りとかだった。
ふと見ると、薄桃色に色付いた川沿いの桜並木の上に、白い満月が昇っていた。
ガキだった俺が、「今日は花見と月見が同時にできてラッキー」みたいなこと
を言ったら、「本当、もし緑一色君と私が大人だったら、一緒にお酒飲めたの
にね…」と彼女。
別に大した意味があるわけでもないのに、厨房にもなってなかった俺はその言
葉に何だか急にドキドキして、「ラムネ飲も、ラムネ、おごるから」と、売店
でラムネを買って彼女に1本渡した。彼女は「ありがとう」と快く受取ってく
れた。その後どんな話をしたかは覚えていない。
でも、あの時の甘く暖かい春の空気、冷たいラムネの味、夢のように美しかっ
た桜と月、そしてそれを見て微笑んでいた彼女の横顔は、今でも忘れられない。
桜の季節にラムネを見ると、思い出して少し切なくなる。
- 259 :名無しさん :2000/03/27(月) 17:59
- 小学校低学年のとき、同居していた祖父が入院しました。
昨日までピンピンしていたし、誕生日を目前に控えた私と一緒にプ
レゼントに買ってくれる予定だった鉄道模型の選択をめぐって、カ
タログを見ながらああでもないこうでもないと話していたので信じ
られない気分でした。
父も母も病院に行ったまま夕方になり、おなかをすかせた私と兄は
途方にくれていたのですが、病院にいる母から電話があって、とり
あえず冷蔵庫にあるメロンを食べていなさいと言われました。
15年くらい前なので、メロンといえば高級品、という時代でも無か
ったのですが、いつもは1/4かそれ以下分の、しかもサイコロ状に
切ったものしか食べていなかったので、自分たちで一個のメロンを
好きに食べて良いということがよっぽど嬉しくて二人ではしゃぎま
くりました。
とりあえず半分に切って分けることにし、どこに切れ目を入れるか
で兄とはしゃぎながら言い合っていたところに病院から父が帰って
きて「何してるんだ!おじいちゃん死にそうなんだぞ!」とすごい
剣幕で怒鳴られました。
私たちはシュンとしながらも(怒られたので)味のしないメロンを
黙々と食べ、そのまま寝ました。
翌日、祖父が息を引き取りました。
私は祖父の身体を綺麗にしおわった後に病院に到着し、おそるおそ
る祖父と対面しました。
病院自体が恐くて堅くなっていた私が冷たくなった祖父との対面を
冷静に出来るはずもなく、恐ろしくなってすぐに部屋から出てしま
いました。
- 260 :名無しさん :2000/03/27(月) 18:01
- そこで、母から「○○(私の名前)へ」と祖父の字で書かれた封筒
をもらいました。
中をあけるとお金が入っていて、私と約束したプレゼントを買うよ
うにと祖父が母に言付けをしたそうです。
私の誕生日に行われた葬儀の時に、父が葬儀屋の用意した白い座布
団に涙を一粒だけ落としたのを隣に座っていた私は見ました。
そのとき、自分の父親(=私の祖父)の死が迫っているというのに
メロンの切る場所ごときの事で大はしゃぎしてしまったことや、
誕生日のプレゼントを買うようにとお金を残してくれた優しい祖父
の死に顔をまともに見てあげられなかったことへの後悔が一気にや
って来ました。
私は今年でもう25になるのですが、父にあんなに怒られたのは今の
ところあれが最初で最後です。
このスレッドを見始めてかなり経つのですが、今になって突然この
話を思い出してしまいました。
今となっては祖父の顔や声の記憶は薄くなりつつありますが、雰囲
気だけはなんとなく思い出せます。
私も多分、父に対しては父が祖父に接していたのと同じ様な接し方
をしていると思うので、もう少しトゲの無い接し方をしたいと思い
ました。
- 261 :からあげの :2000/03/27(月) 22:33
- 話読んでて思い出しちゃった。
高校生のとき公園で子供にいじめられてた子猫を、そいつら怒鳴りつけて
取り上げてきたんだわ。
6ヶ月ぐらいに育った頃かなあ、夜に弁当のオカズのチキンカツを
揚げてたらいつものように猫がねだったんで、かけらをあげたんだ。
そして食べ終わったら、猫がじいーーっと真剣な顔して人の目を
見つめたんだ。「もう1個ほしい」っていうんだったらニャ―ニャ―
鳴くんだけど、黙ってじーっと見つめるんだ。
ちょっと気味悪くなったんだけど、すぐ寝た。
・・・翌朝、猫、家の前で車にひかれて死んでた。
- 262 :名無しさん :2000/03/28(火) 00:46
- でも、最初は普通に感動したりうるうるしたりで楽しんできたんですが
皆さん泣きネタ合戦になってきて、最近は引いてしまいます。
さばおどりさんのネタも既に小説ででてますよね。誰かは言いませんが。
皆さん、スレッドの趣旨に立ち返りましょう。
- 263 :>262 :2000/03/28(火) 01:47
- い〜や。ネタでもいいぞ!!
もっと俺を泣かせてくれ〜。
- 264 :名無しさん :2000/03/28(火) 03:33
- 完全に泣かせネタスレッドになってしまってる。
そのためには小説、エッセイのパクリあり、創作ありで・・お腹一杯。
- 265 :名無しさん :2000/03/28(火) 04:01
- そうだな。創作っぽいのもある。パクリも有るんだろう。
しかし、たいがいはホントのことだと信じたい気分。
揶揄するレスもいいけど、それじゃ次の人が書き込みにくい。
2チャンネルの良心っぽくなってきたからさ、このスレッド。
大事にしようぜ。
- 266 :名無しさん :2000/03/28(火) 04:46
- つまらない話ですが聞いてください。(涙とは全然関係ないです)
中学生だったある冬の日のこと。その日の夕食はカキ鍋でした。
家族みんなでカキを食べてた時、自分も何個目かのカキを口にしてたら
突然奥歯に「ガリッ」と何かが当たりました。
以前、歯に詰めたもの(銀色のヤツ)が取れたことがあったので、
今回もそうだろうと、おそるおそる口から出してみたら、白いモノが目の前に。
「何コレ?」次の瞬間ビックリ。「真珠?」そう、色も乳白色でまんまるなんです。
大きさは直径4ミリほどですが、本当に真珠そっくりでした。
家族の反応は「へー珍しいこともあるもんだ、でも価値もないし」(カキだから?)
でも捨ててしまうのもなんか惜しくてしばらく大事にしまってました。
(結局どっかにいってしまったが)あれ以来カキを食べても何もでませんが、
今でもたまに思い出します。(スミマセン下らない話を書いてしまいました..)
- 267 :名無しさん :2000/03/28(火) 05:15
- >266
牡蠣の中にまれに真珠が入っているそうですが、それに
当たるとは266さん、運がいいな。それは天然真珠でしょう。
明治天皇が皇后と食事をしていたときに、皇后の食べていた
牡蠣から真珠が出、それを羨ましがってたくさん牡蠣を注文して
食べた(でもでなかった)という逸話もあります。
>262
気持ちはわかるけど、悲しい(泣けるネタ)思い出=
思い出に残る食事っていうのは、別に外れてないと思うよ。
ただ、「楽しくて思い出に残る食事の話」も知ることがで
きたら本当にいいですね。
- 268 :>248 :2000/03/28(火) 08:01
- 卵のこと、ありがとうございます。一応生で食べられる卵があるとは
聞いてたのですが、ものすごく高いと友達が言っていたので、手をだし
てなかったのです。今度コープをのぞいて見ます。
- 269 :名無しさん :2000/03/28(火) 11:31
- 離れて暮らしているので、月に1度か2度くらいしか会えない彼女が
います。たまに泊りがけで遊びに行く時は、夕ごはんを何にするかで
盛り上がるのが常です。
とりあえずメインディッシュを決めたら、スーパーに一緒に買物に行き、
サイドディッシュをどうしよう、あれも食べたいがこれも捨てがたい、などと
互いに検討しあいながら食料品売り場をくまなくうろつきます。
スーパーから帰る道すがら、今回の料理の手順とそれぞれの担当をどう
するかを相談し、帰宅と同時に相談した通りに調理を始めます。
ワタシは、このように夕食ひとつで大騒ぎしてますが、たいへん楽しい
ものです。今は現在進行形ですが、これが将来、思い出すと切ない記憶に
なるのかもしれないと思うと、ちょっと複雑な気持ちになります。
- 270 :さばおどり :2000/03/28(火) 12:21
- >262さん
私の話が小説ですか…
できればその小説の表題を教えてもらえませんでしょうか。
是非、読んでみたいと思います。
私の母は重度の肝炎でした。昔、看護婦だった祖母の行った行為は
感染の可能性が高いことから考えると、あながち間違いではありません。
ただ、もっと他のやり方がなかったのだろうかと、未だに思い出しては
怒りを感じ、泣いてしまいます。祖母の実家は嬉野という温泉町で
母はそこのスナックで働いていて、父と知り合い、結婚しました。
やはり田舎であることから、いろいろと揶揄されていたそうです。
祖母はそんなことから、私が生まれた時も「うちの〇〇(父の名前)
の子供じゃなか!どこか知らん男と作ったとやろうもん!」と
言って、けっして孫とは認めなかったそうです。ただ、父の兄の子供
達にはとてもやさしいおばあさんでした。母のなくなったとき、
父はAさんから私達がどのような生活をしてきたかを知り、
憤怒して、葬儀の後に私達を引き取り、祖母とは絶縁しました。
ただ、父はあまりにも多忙であった為に、結局私達は
宮崎にある母の実家に預けられました。宮崎の祖父、祖母は私達に
とてもやさしくしてくれました。父も毎月会いにきてくれました。
現在、私は大阪の大学に通っており、弟も春から大阪の調理師の
専門学校に通います。とても幸せに過ごしております。
最後に長文、駄文をお詫びし、ご挨拶といたします。
- 271 :>270 :2000/03/28(火) 14:15
- うんうん、がんばれ。
俺は信じていたさ。
- 272 :名無しさん :2000/03/28(火) 14:28
- >さばおどりさん
今はお幸せなんですね。よかった。
話しが「ネタ」という人もいるけど、全く同じ環境だった人もいるのでは
ないでしょうか。私はここにある話しを「ネタ」くくりにしたくないです。
悲しい話が多いのは、楽しい事はすぐ忘れちゃうからでしょうか。
- 273 :ふに :2000/03/28(火) 14:57
- 里帰り中の「なー」に読ませる為age
- 274 :名無しさん :2000/03/28(火) 16:27
- ネタでもいい
それでも泣けるのなら
それでいい
- 275 :明るい田中麗奈 :2000/03/28(火) 19:17
- ネタであってくれと祈りたくなる程泣ける話ですな。ううっ。
- 276 :夕雨 :2000/03/28(火) 19:18
- さばおどりさん、あなたと弟さんの悲しすぎるほどの
やさしさに、胸を打たれました。今は幸せそうでなによりです。
こらっ、262さん!人のお話を小説扱いしちゃダメですよ(笑)
ホントにそんな小説があったのならば、教えてあげなさいよ。
・・・わたしも読みたいので(笑)
でわ、僭越ながらわたしもお話を・・・
私がビンボー学生だったある日、3日間を無一文で過ごさねば
ならなかったことがありました。部屋にあるのはサラダ油だけ・・・
そんな時に、友人が旅行に行くからハムスター預かってくれと
持ってきました。本当はそこで友人にすがってお金を借りたかった
のですが、変なプライドが邪魔して結局言えずじまい。(^^;
でも、ハムスターのお蔭でとっても助かりました。
あの時はゴメンね☆
- 277 :夕雨 :2000/03/28(火) 19:26
- ☆補足です♪
ハムスターの餌として友人が一緒に持ってきたひまわり種を
私がほとんど炒めて食べてしまったのです・・・(笑)
塩をかけたら絶品だろうなあ・・・と思いながらぽりぽりと
食べていました。お金が入った3日後にはハムスター君に
ゴメンの意味をこめてチーズを買って食べさせてあげました☆
いや、なーんか自分の文章を読み返したら、どう考えてもわたしが
ハムスターを焼いて食べたようにしか受け取れなかったんで(^^;;
- 278 :明るい田中麗奈 :2000/03/28(火) 20:14
- 私の父ならおそらく食べてます。
- 279 :そうなんだよな。 :2000/03/28(火) 22:49
- 自分でも、書き込んでて思ったのは、
何で、食べ物で思い出すのはもうあえない人の話なんだろうってこと。
でも、考えてみたら、いつでも会える人とは、今も想い出を積み重ねているから、
固定されてしまっていないんだよね。
死んだときのことは、忘れられないものね。
食べるのは毎日のことだから、それをきっかけにして何度も思い返すし。
自分が書き込んだ話は、読んだ人が泣ける話ではないのだけど、
自分にとっては何時思い出しても涙が出る話なんだな。
なんでだか自分でもわからないのだけど。
人に、「おかず喰いじゃなくてご飯喰いなんだ〜」といわれて思い出して
勝手に悲しくなってしまうのが、どうしても直らないのだなぁ…
- 280 :名無しさん :2000/03/29(水) 10:34
- 毎朝、ここを読んで一泣きしてから、仕事に取りかかるパターンが
定着しつつあります。
私は、在宅で仕事をしてるんですが
仕事に追われてくるとどうも食事の支度がおろそかになりがちです。
皆さんの書き込みを読んでいると
下手でも質素でも、とにかく愛する夫や子供のために
心を込めてご飯を作ろうと改めて思います。
悲しい思い出なのにとても優しい文章でかかれているなあと
切なく思います。本当にいいスレッドですね。
- 281 :脱線ちゃん :2000/03/29(水) 12:06
- このスレッドが好きな人は、向田邦子のエッセイなんかも好きかも。
「父の詫び状」がおすすめ。
- 282 :名無しさん :2000/03/29(水) 15:41
- >280さん
そうですね。毎日の食事って作る側にしてみると結構大変だし、
手を抜こうと思えばできるのかもしれません。
でもこのスレッドを読んでいろいろ考えさせられました。
うちの子は重度の知的障害児です。
歩行はできますが、生活の中ではまだまだ介助が必要です。
今思えば「家族の為に心をこめて」とは程遠い、、、義務感から食事を作っていた
のかなと反省しています。
彼の口からは生涯「おいしかった。また作ってね。お母さん」という
言葉は聞けないとは思うけれど、好きなものが食卓に並んだ時の笑顔を
励みにこれから食事を作っていきたいなぁと思ってます。
たまごが大好きなんだけれども、何個も食べると太ってしまうので
ほうれん草とハムの入ったたまご焼きが彼の思い出の一品になるのかな。
(たまご焼きというよりはほうれん草のたまごとじだね)
ちなみに宅配ピザのチラシを私のところに持ってきて「ングング」と
催促することもできるようになったので、たまにはそーゆーのもOKかな
と、頑張りすぎずにやっていこうとも思ってる母でした。
- 283 :名無しさん :2000/03/29(水) 16:09
- えっとね、うちは両親共働きで、朝ご飯は各自で作って食べるのが決まりだったの。
高校生の時、朝インスタントラーメン食べてたら、仲悪い姉がちょっとくれるって聞いて来て、
私はすっごくむかついて箸を投げ出してそのまま家を出たの。
その後何があったわけでもないし、結婚して今では姉とも仲良くつきあってるけど、
その朝の、姉の脅えたような悲しい顔を思い出すと胸が痛む。
- 284 :バッカーです :2000/03/29(水) 16:36
- 今からでもいい。
素直に謝ろう。
- 285 :小学生 :2000/03/29(水) 17:01
- 泣ける話ではありませんが、 小学生の頃、妹と二人で天津甘栗を食べてました。
剥いては食べる私とは違って、妹は丁寧に皮を剥いた栗を後でまとめて食べようと
横にためてありました。
悪い兄の私はそれらを、ひとつかみに自分の口の中へ、、、、
妹は泣いた、怒った、 もう大変でした。
それ以来、誰にでもその話をします。 私の家内や子供もその話を知っています。
家族で天津甘栗を食べる度にその話が話題になります。今は1児の母である妹の
復讐は充分に達成されたと思っている私です。
- 286 :明るい田中麗奈 :2000/03/29(水) 21:35
- >小学生 その思い出があなたに「小学生」を名乗らせていたのですね。
そのときの気持ちよく分かります。私も、カニを食べる前に一通り殻を剥いている人を目の前にするとそれをしたい衝動にかられます。
- 287 :名無しさん :2000/03/29(水) 21:49
- 学生の頃(10年前)、自分のアパートの向かいに小料理屋がありました。
おばあさんが一人で切り盛りしている自宅兼小料理屋でカウンターに5人座れば一杯になる規模。
一人でもよく行ったが絶対儲からないだろうなぁーと思うほどサービスたっぷり。
ある日、道端で会った時に「カゼ引いちゃいましたよ」と言ったら、”すいとん”を作って持ってきてくれました。
恥ずかしながらそれまで”すいとん”というものを食べたことがなかったのですがおいしかったという記憶だけがあります。
まさに私にとっての思い出の食事。
その日をきっかけに”客”というよりも話し相手という感じでお茶や昼間から酒を飲んだりのお付き合いになりました。
卒業式の日にお世話になったことを報告に行ったら、「おめでとう。私も今日で店を閉めるのよ・・・」
えっ!
息子さんらしき人が来ていて「お世話になりました・・・」って・・・
前々から息子夫婦に実家へ帰って隠居するように言われていたことは聞いていたけど自分の卒業式の日に店を閉めるなんて・・・
「アンタの卒業が節目かなぁー」「スーツ姿もいいんじゃない?」と言っていたのが忘れられません。
- 288 :『なー』に見せる為 :2000/03/29(水) 22:36
- あげ
- 289 :名無しさん :2000/03/30(木) 00:26
- >288
『なー』て誰?いつも気になる。興味津々。(笑)
自分はねー、給食のひな祭りにもらえるケーキが好きだったなぁ。
アイスケーキなんだけど、これが毎年楽しみで楽しみで。
誰か休んだりしていると、その子の分も食えるかなぁ…って
ずーっと考えていたなぁ。で、普段は欲しい人が集まって
ジャンケンするんだけど、このケーキは皆欲しがるんで
先生が教壇に立ってみんなと一斉にジャンケンして振り落としていく
って、一大イベントになっていたよ。あー…給食が食べたい。
- 290 :って言うかさあ :2000/03/30(木) 04:08
- ここって、泣ける話じゃないのを書く人が
「泣ける話じゃないんですが」
「つまらない話ですみません」っていちいち断る雰囲気が嫌なんだよなあ。
十分面白い話なのにー
- 291 :名無しさん :2000/03/30(木) 05:20
- 11年付き合って、最後の2年は同棲してた彼。一方的に振っちゃった
から、自分は思い出を引き摺る事なかった。ここ見たら、一緒に私
の作った御飯食べた事、数えきれない程思い出した。彼はこんな思いを
したかもしれないって、涙止まらないです。別れてからも「いいから、
料理のレシピを書いてくれ。新しい彼女ができたら作ってもらう」
「どこで食べても同じ味が見つからない」ってTELしてきた。最近は
そうでもないけど、いつもTELは涙声だった。 ごめんね。
奇しくも、別れた理由のわずかな一つに「彼が偏食だった」ことがありました。
何でも食べれるくせに、「何食べたい?」って聞くと「唐揚げ」「ミート
スパ」「カレー」「ハンバーグ」ばっかり。付き合い始めたのが若くて、
最初の頃から私が作ったもの。 そういえばレシピも製作途中で、忘れてた。
今度会うので、がんばって作ります。
- 292 :名無しさん :2000/03/30(木) 05:37
- 291さんの話しで昔の彼のことを思い出して泣いてしまいました。あのころは
貧乏だったけど、それなりに工夫していろいろ作ってました。床に寝転がりな
がら二人で料理の本を見てたとき、いくつかを彼が指差して今度作ってねって
言ってました。そのうちの半分ぐらいは結局作ることなく別かれてしまいまし
た。今も元気かな。ちゃんとご飯食べてるかな。
- 293 :名無しさん :2000/03/30(木) 07:19
- 明るい田中麗奈さえでて来なきゃ面白いのに・・・・
いい加減顔出すのやめろよ。
- 294 :小学生 :2000/03/30(木) 16:07
- >286 田中さん、初代田中さんですか?
HNの由来は違いますよ。
- 295 :唐変木 :2000/03/30(木) 18:39
- 小学生の頃、ポテトチップスが大好きだった俺。
母親の買い物に付き合っておやつを買ってもらう時には、
母親が「100円以内にしなさい」と言うところ、いつも「108円でもいい?」と聞いていた。
(当時カルビーのポテトチップス、定価120円。近所のスーパーでは1割引で108円だった)
大人になって実家から離れている俺が実家に帰省すると、
決まって大量のポテトチップスが買い置きしてある。
母親は何も言わないが、実家の姉がある時
「お母さんって、○○(俺の名前)が帰ってくる時って、いつもポテトチップ買い込むよね」
と言っていた。
実家に帰って大量のポテトチップスの袋を見ると、その母の情が身に沁みるとともに、
母親にとって俺はいつまで経っても子供なんだと再確認する。
そして帰省からUターンする時にはいつも、食べきれなかったポテトチップスの袋が
俺のバッグの中にある。
- 296 :名無しさん :2000/03/30(木) 21:04
- 両親が共働きで中学、高校とずっと夕食の準備と父の晩酌の
相手(おつまみを作ったりするだけね)な毎日だった。
夜遊びなんてしたことなかったし、学校での昼食はパン。
体育祭などで家族が来てくれた事も一度も無かったし、家族で
外食に行ったことも全然無かった。
高校を卒業して上京する日、「これ適当に食べて」と母に紙袋
を渡された。
新幹線の中で中身を見ると、小学校の時以来に見る母の弁当。。
からあげやハンバーグ等の若者が好むようなおかずは全然作れない
母の、自家製の漬物や煮物ばかりの弁当を見て涙が出た。
当時の事を不憫に思ってるのか、たまに帰省すると無理にでも高級
な料理を用意しようとするので「母さんのみそ汁と漬物だけでいい」
って前もって釘をさす事にしてる。
おかげ様で男だけど肉じゃがとか得意です(笑)
- 297 :名無しさん :2000/03/31(金) 05:45
- 揚げバン食べたい
- 298 :名無しさん :2000/03/31(金) 11:11
- ラ博で揚げパン買ったけど、給食の時食ったヤツとは違った。
- 299 :>296 :2000/03/31(金) 11:15
- 君はいい奴だ。がんばれ!
- 300 :>295 :2000/03/31(金) 14:10
- 最後の2行でやられた・・・ (T_T)
- 301 :名無しさん :2000/04/01(土) 00:31
- あげあげ♪
- 302 :名無しさん :2000/04/01(土) 03:01
- 全レス見させていただきました。いいです、ここ。
- 303 :寝れない男 :2000/04/01(土) 04:48
- 3月31日で父が下っ端公務員を定年退職した。41年間も同じ仕事を
していたと思うとすごいなと思う。
で
今日は、特上のすしとビールで乾杯した。
よくありがちな風景だがきっとよい思い出になるな。
ところで父が退職金を私たちに見せようと家に持ってきてしまった。
生まれて始めてピン札の1000万の塊を持ったが、
なんかおもちゃのお札みたいだ。スゲーちゃっちい
ってゆうか
畳の上に札束を無造作に置いて「うわぁーすごい噴煙」とか
まったく日常と変わらない会話をしているんだよねぇ。
しかも最後のハンパな給料の小遣いを2万か3万かで
口ゲンカしている。いや、していやがる(笑)
このしっかり記念写真まで取った札束もド田舎しかも祖母の
土地に建てた家の建築費で無くなってしまう。月曜日で。
家族・人生・仕事について深く、深ぁーく考えてしまった。
そんなオイラは無職街道ばく進中!!
長文失礼。
ってゆーか、食いもんの話だったな。
ちなみに父は中卒だ。
- 304 :>303 :2000/04/01(土) 11:47
- 働かざるもの食うべからず
中卒でも、41年間も勤めあげた、お父上が居なかったら、特上すしも無いのサ
とっとと職を決めてその給料で、お父上に特上すしをご馳走してください
- 305 :山水トランス :2000/04/01(土) 17:47
- この板、涙・泪。
思いでの食いもんか。
ロシアケーキだな。母が旦那と分かれ、自立せざるを得なくなり、山野美容学校に通ってた頃、2ヶ月ぶりに母に会い,新宿駅で別れる時渡されたケーキ。
今でもダイスキ。
- 306 :牛乳 :2000/04/01(土) 19:32
- 小学4年、牛乳当番でクラス全員の牛乳を運んだときの話。
なんの気なしに、自分のスカート(体育で着替えたんで)を牛乳
かご上に置いた私。
あるクラスメイトがそれを見て「汚い」と言った。
その一言がもとで、その日は35人(自分除く)誰一人として、
牛乳を飲んでくれなかった。
イジメ体質だったので、その件で延々責められました。
(イジメのナマナマしい話になるので割愛)
6年前、同窓会があり、その席でも牛乳の話を言われて、脱力。
2次会で多めに出してきたけど、もう出席はしたくない。
幹事の「オレらの子供時代ってイジメってなかったよなぁ」
の一言が耳に残ります。
自分の『やったこと』って都合のいいように脚色されてしまうんだなぁ。
もちろん、『されたこと』もそれってあると思いますけど。
牛乳飲むとたまに思い出します。
- 307 :名無しさん :2000/04/01(土) 20:29
- あまりにもいいスレッドだったもんで、家族に見せようと夕べ印刷した。
午後9時の段階で66ページ!一時間かかりました。
今ばあちゃんが読みふけっております。
高校の時、天体観測会の名目でクリスマスイブに学校で一晩過ごした。
クラブの現役やOB、部外者も入れて20人いた。
部員の一人が手作りのデコレーションケーキを2個持参してきたが、
1個を10等分に切るのはちと難しい。どうしようか、と聞かれて
私は全員に言い渡した。「よし、みんな箸を持て。」
鍋物を突っつくように20人で2個のケーキを食べた。
「フツーするか?こんな食べ方(笑)」とウケつつ2個のケーキは
あっという間になくなった。
今でも正月恒例のOB会なんかで当時のメンバーが集まると話題になる。
- 308 :もっと読みたいので :2000/04/02(日) 14:21
- あげ。
- 309 :名無しさん :2000/04/03(月) 18:21
- あんまり食い物の話とはいえないのだが・・・
1年半ほど前2年ぶりに帰省した。
幼い頃の友人に会ったり、親戚のうちを回ったり。
全て弟が運転してくれていた。
弟は高校卒業後定職につかずぶらぶらしていた。
そんな弟があまり好きじゃなく、
いつも餓鬼扱いしていた。
東京に帰る前日、二人無言でラーメンをすすっていた。
「にーちゃん、明日どうする?」
「わかんねぇ・・・」
交わす言葉はこれぐらいだった。
ラーメンを食べ終わり一服していると・・・
「にーちゃん、明日時間があったら、じーちゃんの墓参りいかねぇか?」
いままで、祖父の法事にさえ面倒くさいと言って出なかった弟の口から出た言葉だと思えなかった。
次の日、朝早くから祖父の墓参りに出かけた。
途中で花を買ったり、酒好きだった祖父の為に酒を買い
祖父の吸っていたタバコを墓前に供え・・・
弟よ、今おまえを誇りに思う。
俺は東京で何とか生きている。
まだまだ帰る事はできないけれど、
今のおまえがいる限り安心して東京にいられる。
ありがとう、これからもよろしく。
また美味いラーメン食いにいこうな・・・。
- 310 :マタタビ酒 :2000/04/03(月) 21:32
- 大学生の頃のことなのでもう10年以上経っているのですが、
当時の彼とはもうだめなんだろうな、と薄々感じてはいたものの、
別れるのがつらくてだらだらと付き合っていました。
2月くらいだったか、試験も終わって冬休みだったんだけど、
成績の発表(単位の修得状況発表)があったので
学校のある街へ出かけていきました。
彼と会わずに発表だけ見て帰ろうと思っていたのですが、
学校に行くはずの私の足は、彼の下宿の方へ。
そこでいつものようにとりとめのない時間を過ごして、
夕方、私は一人で学校へ行きました。
私の方は無事、進級できたのですが、そこにいた彼の友人が、
私を見て、「○○○(彼の名)、まずいよ」と言ったのです。
名簿で彼の名を確認すると、落ちていたのです、必修課目が。
私は頭の中が真っ白になって、それでも何を思ったか駅前で
みたらし団子を何本か買い、ふらふらと彼の下宿へ帰ったのです。
今見て来たことについて話すと、彼は学校へとんで行きました。
残された私はみたらし団子を半分食べ、残りを置いて帰ったのですが、
だんだん彼が留年するという実感がわいてきて、彼が学校を辞めて
もう会えないかもしれないと思い、次の日また彼の下宿に行くと
彼は留守で、寒い部屋の机の上に、彼の食べかけの、冷えて固まったみたらし団子が。
あの時、どうしてみたらし団子を買っていったのか、今ではもう思いだせませんが、
今でも時々みたらし団子を見ると、彼の下宿の、冷たい空気を思い出します。
- 311 :名無しさん :2000/04/03(月) 22:37
- 帰宅途中に思い出した。
冬の寒い夜に同期の友人たちと鍋パーティーの約束をした。
材料は実家に頼んで送ってもらうことにした。
適当にたらの切り身でも送ってくれとだけ伝えておいた。
2日後家に着いたクール便は・・・
発泡スチロールの大きな箱に、
たらが1尾、毛蟹が5杯、カキが十数個・・・
白菜まで入っていた。
母上様、
3人で食べるといったのに、なぜ毛がにが5杯も入っている?
おかげで楽しいときを過ごせた。
いまだに仲間内では伝説になっているぞ。
ありがと。
- 312 :小学生の頃に :2000/04/04(火) 12:52
- 母が天丼に「そばつゆ」と間違えて
「アイスコーヒー」入れて
私達兄弟に食べさせた。悪意が無かったとはいえ
あまりのまずさと変な苦さに、二人で泣いた。
(母はそばつゆを自分で作ってタッパーで保存
していた。同じ形の別のタッパーにアイスコーヒーも
入れていたので「うっかり間違えた」らしい・・・)
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0ch BBS 2004-10-30