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思い出に残る食事

175 :名無しさん :2000/03/18(土) 18:58
10年程前、当時高校生だったTとオレとで山登りをした。
登山といえるほど本格的なものじゃ無いけど、テントを担いでいって
一泊の予定。
夜になり晩飯にはお約束のカレーを作って食った。頂上までは後少しだったし
荷物が重くなるのが嫌で食料はあんまり持ってきてなかった。
「とっとと寝て朝早く出発しようぜ。」
夜中になって自分達の甘さを思い知らされた。
春だから軽装にしたがその寒い事寒い事、とても寝てられない。腹も減ってくる。
歯をガチガチ言わせながらお互い泣きそうになってたらTがカップラーメンを2つ
持ってきたのを思い出した。周りから急いで木を集めてきて火をつけてお湯を焚いて
カップラーメンを寒さに震えながら食った。そのうまい事うまい事。
白い息を吐きながら「んとに美味いなぁ、今世界中でカップラーメンを一番美味いと
思って食ってんのは間違いなくおれ達二人だけだなぁ、はは」
ゲラゲラ笑いながら一気に食った。結局眠れずに色んな話をしたけど合間に「カップ
ラーメンを一番美味いというおれ達だけどな」なんて冗談を言い合ったりした。ゲラ
ゲラ笑いながら一晩中。ホントににうまかったんだよ。

卒業後の進路もバラバラで余り連絡もしなくなってた頃、Tが自ら命を絶ったことを
聞いた。理由はわからないし聞きたくも無かった。葬式には出れなかったけどTには
こう言ってやりたかった。
「馬鹿やろう。世の中にはカップラーメンよりももっともっと美味い食べ物が一杯あ
 るんだぞ。」

176 :まい :2000/03/19(日) 02:34
末の弟が幼稚園の頃、兄弟3人でパイナップルを
並んで食べていたら父が急に泣き出した事が
ありました。

私の父の父(私の祖父)は、終戦の前後、ある都市の
捕虜収容所に勤めていたそうです。
時々アメリカ軍の飛行機が飛んで来ては、毛布や
缶詰などの物資を落下傘で収容所の近くに落として
行くのだそうです。
もちろん、収容所に勤務するものがその物資に
手を付けるのは御法度でしたが、祖父は決死の
覚悟で(見つかったら、半殺しの目にあったとか)
パイナップルの缶詰を持って帰り自分は一口も食べる事無く、全部を7人の子供に
食べさせ、それをにこにこと見守って見ていたそうで
父は、当時、末っ子で5歳、「親父は、どんな
気持ちで、わしが食べるのを見てたのかと
思うと胸がつまる。」と、ぐっと来たそうです。
もともとからだが丈夫でなかった祖父は、3年後
結核で亡くなりました。

で、父の還暦のお祝いに親戚が、集まったとき
ちょっと、いたずら心が働いて
パイナップルの缶詰を、叔父や叔母達に出して
「お父さんたら、泣き虫で、これ見たら泣くしかなんわ」
と、祖父の話に水を向けると、兄弟皆が泣き出して
しまいました。「あんなに、ぼこぼこにへこんだ
缶詰を抱えて走ったお父さん、どんな気持ち
だったんだろうね。」とか、「学校に行って友達に
自慢したくても、お父さんに口止めされてたから
できなかったのよ」と口々に想い出話が、出ましたが
人の大切な想い出を、汚してしまったようで少し
後味が悪かったです。
ごめんね、お父さん。大切な想い出に、いたづら心なんか働かせて
と、すごく反省しました。

177 :名無しさん :2000/03/19(日) 04:20
何か、何かです。。。。
涙がいっぱいです。。。

178 :名無しさん :2000/03/19(日) 09:00
はじめて文章で泣いた。
ココっていいとこなんだと今気付いた。

179 :名無しさん :2000/03/20(月) 02:31
おあげ

180 :名無しさん :2000/03/20(月) 09:37
あげ

181 :名無しさん :2000/03/20(月) 13:03
朝から夜まで働き通しだった母が忙しい時間の合間を縫ってつくってくれていたものだ。
そんな事はすっかり忘れていた一昨年、私は離婚して一人、今は母だけになった実家に帰った。
自暴自棄になり仕事も辞めていたから、実家で数日を過ごした。
毎晩黙って酒をあおる私を母は何も言わず、早く寝ろと促すだけで先に眠っていた。
ある日、昼過ぎまで寝ていた私が台所で酔い覚めの水を飲むとテーブルに何かあることに気付いた。
作り置きの冷えたオムライス。
メモがあって「用事があって出かけるから、これ食べなさい。」と書いてあった。
私はラップを剥がして、静かにオムライスを食べた。
懐かしさと、切なさと・・・色々な感情がまじって湧き出し、オムライスはしょっぱくなった。
私はその日、帰京する支度をして、また一からやりなおすと母に誓った。
今はまだ一人だけど、淡々とそれでも楽しく生きている。

口に出して言えないけれど……
お母さん、私は永遠にお母さんの息子です。
ありがとう。

近い内に、また帰省します。


182 :181 :2000/03/20(月) 14:40
書き込みミスりました・・・。

小学生の頃、一人っ子で、鍵っ子だったぼくの土曜日の昼食は冷えたオムライスだった。
毎週といっていいほど、ケチャップをつけてラップをかけたオムライスだった。
朝から夜まで働き通しだった母が忙しい時間の合間を縫ってつくってくれていたものだ。
そんな事はすっかり忘れていた一昨年、私は離婚して一人、今は母だけになった実家に帰った。
自暴自棄になり仕事も辞めていたから、実家で数日を過ごした。
毎晩黙って酒をあおる私を母は何も言わず、早く寝ろと促すだけで先に眠っていた。
ある日、昼過ぎまで寝ていた私が台所で酔い覚めの水を飲むとテーブルに何かあることに気付いた。
作り置きの冷えたオムライス。
メモがあって「用事があって出かけるから、これ食べなさい。」と書いてあった。
私はラップを剥がして、静かにオムライスを食べた。
懐かしさと、切なさと・・・色々な感情がまじって湧き出し、オムライスはしょっぱくなった。
私はその日、帰京する支度をして、また一からやりなおすと母に誓った。
今はまだ一人だけど、淡々とそれでも楽しく生きている。

口に出して言えないけれど……
お母さん、私は永遠にあなたの息子です。


183 :名無しさん :2000/03/20(月) 23:10
これがあげずにいられるか!(T_T)/

184 :名無しさん :2000/03/20(月) 23:17
だめ人間だもの・・・・・ミトゥオ

185 :みなさんが羨ましい :2000/03/21(火) 00:23
色々あっても、暖かい家と、食事を作ってくれる暖かい人。
そしてその思い出。

私には、はじめから与えられませんでした。
だからここ読んでいると、羨ましくて、自分が惨めで、涙が溢れます。
みなさんが羨ましい。

186 :名無しさん :2000/03/21(火) 01:52
相変わらず泣けますね。このスレッド。
感動した人、ここに投票しましょう。
1人でたくさん入れたいけど、このスレッドを見た後ではなぜか出来ない。
1票ずつ入れましょう・・。
http://www9.freeweb.ne.jp/computer/nich/cgi-bin/enqsp/enqsp.cgi?

187 :186 :2000/03/21(火) 01:58
あれれ、クリックしただけじゃいけないですね。
ブラウザのアドレス入れるとこにURLを直接コピーすればいけるみたいです・・・。

188 :ANA :2000/03/21(火) 04:10
眠れなくて、なんとなく覗いたら感動しました。

私の食べ物の思い出は、今から10程前の事ですが、
そのころ付き合っていた彼女との思い出になります。

遠距離恋愛でもあり、彼女の母親にあまりよく思われてなかった
私ですが、正式に結婚のお願いを彼女の両親に申し込みに行きました。
当日、緊張で朝まで寝れなかったのに、
「ちょっと休憩。」と思いうつらうつらしてたら、電話が鳴って
ハッ!!としたらもうお昼!(大バカですね(笑) )
大急ぎで彼女に実家に約束の8時間遅れで行きました。

色々と経緯があり、彼女のお母さんに私は好かれてなかったのですが
とても沢山のご馳走を用意していててくれました。
「男の人だから沢山食べて!!」との事でしたが、、悲しいかな
私は学生時代、減量のあるスポーツをずっとしていたので
胃を小さくする(大量に物を食べない)食生活と習慣が身についてて
女性並みの食事料で腹いっぱいになるんです。それに貧乏性なのか
箸をつけて残す という事が嫌いなんですよね(駄目ですね〜。)

「結婚させて下さい。」の返答は「もう少し考えさせて欲しい。」
との事でした。


189 :ANA :2000/03/21(火) 04:31
駄文で済みません!(続きです。)

後で彼女から聞いたのですが、彼女の母親にやはり良い印象を与えられなくて
いわく「男の人の癖に、小食で線が細いね(筋肉質なんですが、(T.T))」
「男の人は豪快なぐらい食べる人がいい、神経質じゃないの?」
と言われたそうです。

それから、1年後色々有って結局彼女とはお別れとなっちゃいました。
4年前、彼女が結婚すると聞き、お祝いするわけにもいかないので
共通の友人に頼んで、その友人からということで3万円分の
彼女の好きだった花を送りました。

彼女には悲しい思い出しか作ってやれなかった悔しさが今でも
フッと頭をよぎります。幸せになってて欲しいなと思ってます。

私は相変わらずの小食ですが、それ以来は
沢山の食事を出されたときはトイレで隠れて吐いてでも(汚くてすみません。)
食べるようにしてます。折角作ってくれたご飯に対して申し訳ないと
思うんですが、「好意には相手の喜ぶように」と思うようにしてます。


190 :>189 :2000/03/21(火) 04:53
少ししか食べれないとわかっていたら、
その少しでも「おいしい」と食べてくれたら喜ぶ人は
たくさんいるよ。今日からもう無理はしないで下さいね。
それにムリしてたってわかったら、悲しがる人もいるから。
あえて、正直に言う勇気も持って!

191 :ANA :2000/03/21(火) 05:25
>190

  ありがとう。

192 :名無しさん :2000/03/21(火) 05:56
いい話しばかりですね・・・

わたしの両親は6才の時に別居し、10才の時に離婚しました。
でもわたしが幼稚園の年少組の時はまだ両親が仲がよくて
日曜日の夜には、いつも2人で晩酌をしていました。
わたしは9時には布団に入れられるんだけど、晩酌の仲間に入りたくて
のどが渇いた、とか、トイレ、とか理由をつけては起き出し
おつまみを食べさせてもらっていました。
ちくわチーズとかサラミとか、たいしたことないものなんだけど
仲間に入れてもらったのがうれしくて
次の日いつも妹に自慢してました。
いまでもおつまみを食べると思い出してしまいます。

193 :192 :2000/03/21(火) 06:08
もう一つ思い出したので・・・

小学校に入った頃から両親の仲が悪くなり、父がほとんど帰って来なくなりました。
ある日、久しぶりに帰ってきた父と母が大喧嘩をし
母が夜中に出ていってしまいました。

不安でわたしも起き出したのですが、なんとなく
ケンカのことは触れてはいけないように思い
「おなかすいたんやけど・・・」と父に話しかけました。
しかし「こんな夜中になにゆうてんねん。さっさと寝ろ」と怒られ、
「なんでママが出ていったん?パパなんかキライや、パパが出ていけばよかってん。」
と言い捨て、布団に潜り込んで泣いていました。

しばらくすると、なにごともなかったように父が部屋にやってきて
「ラーメンと焼きそば、どっちがいいんや?」
と聞きました。
泣きながら「焼きそば」と答え、父と2人で夜中に台所で
鼻をすすりながらUFOを食べた思い出があります。

駄文でごめんなさい。

194 :名無しさん :2000/03/21(火) 08:18
おじいちゃんがぼけてしまって、もう何年もたつのですが…
戦争中、炊事担当だったこともあって、よくいろいろつくってくれた
ものです。なかでもにゅうめんがとてもおいしかったのですが、つくり
かたがいまだにわかりません。なすがはいってて、汁気のないどろっと
したやつです。誰かつくりかた知りませんか。
(ちなみに祖父は富山の人です)

実家はどいなかなのですが、高校時代、帰りがおそくなるといつも
おじいちゃんが自転車で駅の前で待っててくれました。でも私は恥ずか
しくて、無視してさっさと早歩きで帰ってた。おじいちゃんはそのあと
からだまってゆっくりついてきてた。
小学校のころは、学校から帰ると冬はストーブの前でパンをやいたり
豆をいったりしてくれたものです。
おじいちゃんはおばあちゃんよりも背も低くて、戦争のために耳も遠くて
ほとんどしゃべらない、私が朝食のとき新聞を独占してしまうのでずっと
チラシをながめてるような人でした。
もう私のこともわかりません。ゆうごはんのときになにかしたくて台所を
うろうろして、ちゃきちゃきのおばあちゃんにいつも怒られてたことを
おもいだすとなつかしいです。

195 :名無しさん :2000/03/21(火) 12:01
>194
おじいさん、大切にしてあげてくださいね。
このスレッドでよくあるように、亡くなってしまってから、
後悔しないように。

196 :名無しさん :2000/03/21(火) 12:30
うちの4年前に亡くなったおじいちゃんも、
最後の何年かはぼけていてとても悲しかったなあ・・・
仕事の関係で海外にいたので最後に会ったのは7年前でした。
仕事と酒にしか興味が無い祖父でしたが、私とは仲が良かったので
子供のころから一緒にいることが多かったでした。
最後に会ったときは、もう呆け始めていて、とても残念でした。
極度の出不精だった祖父でしたが、私が海外へ行く時は、
わざわざ空港まで来てくれました。 その時、空港の喫茶店で最後に
祖父が飲んでいたクリームソーダは私が注文したものですが、
そんな呆けてしまって子供のような祖父を見ていると、
私は何も言えず、ただとても悲しくなりました。
いまでもクリームソーダのあの緑色を見ると、
祖父のことを思い出します。

197 :名無しさん :2000/03/21(火) 14:20
圧力鍋とこのスレッドは本にしてほしいなあ・・・。
このスレ読んで泣きそうになったら圧力鍋へ(笑)
っていうか、いい板だよね、「食べ物、料理」ってさ。

昨日まである事ですごく落ち込んでいたけど、
なんか、元気になれました。

198 :>194 :2000/03/21(火) 14:51
「茄子が入ってて汁気のないどろっとしたにゅうめん」
実家が金沢なんですが、母がよく作ってくれました。
多分そうめんをゆがかずに乾麺のまま鍋に入れてたんだと思うけど…。
今度聞いてみますね。


199 :名無しさん :2000/03/21(火) 23:58
小学生の頃、塾の帰りが遅くなったとき
同じクラスの男の子が自転車で追いかけてきて、
「先生が送っていけってゆーから」と、つまらなそうにいい
私の家まで一緒に、自転車を押してついてきた。
途中、彼は私に「おごりだからな」と
つぶつぶオレンジを買ってくれた。
彼はいつもバカなことや、私を怒らせるようなことをいうのに
このときは、家に着くまで一言もしゃべらなかった。
私は、そのいつもと違う様子にどきどきして、
ジュースばかり飲んでたんだよな。
みょーにのど乾いてたりして。
異性を意識したのってこれが最初かもしれない。

今も恋人にジュースを買ってもらうと
この時のことをちょっとだけ思い出す。


200 :名無しさん :2000/03/22(水) 00:25
>199 いいな、いいな〜。とーぜん男の子の方も意識してるんだよね、
それって。

201 :匿名希望 :2000/03/22(水) 00:54
ここはホントに泣ける話ばかりで(T_T)
駄文ですが自分の話もひとつ。

今から15年前。小学校6年の5月。当時オヤジの仕事の関係で海外に住んでたんよ。
当時、駐在員同士で母親連中が集まっていろいろ食事を作って晩にパーティーなんぞ
開いてた。親父連中は朝早くから遠い海辺の町へ新鮮な魚を買い付けに。
でかいカジキをうちのオヤジが見事にさばいたりしてたなぁ。
子ども心にオヤジかっこええ!と感じてた。
で、その時は手巻き寿司パーティーだったな。「納豆」があってびっくりした。
なんで「納豆」がこんな遠い異国の地に?と思いつつ、食ってたんだな。
日本から新しく来た人が納豆菌を持って来てくれてたらしい。
ところが、その「納豆」のおかげで翌日に頭フラフラして・・・
なんと腸チフスにかかった。すごい高熱が何日も続いて、必死になって母親が看病して
くれた。いやあんまり覚えて無いんだ。とにかくずーっとそばにいてくれて
冷たいタオルと水分を切らせないように必死に冷たいお茶を作ってくれてた。
汚い水道水を煮沸して氷をたくさん作ってたらしい。
ともかく1ヶ月にわたる闘病生活で俺は10kg痩せ、なんとか回復した。
「あぁ、生きてるんだ」とその時に生まれて初めて感じた。
当時ちょっとひねてた俺はそれほど母親に感謝もしなかったように思う。
もっとあの時に感謝すれば良かった。
母親はその9ヵ月後、俺が小学校を卒業する2週間前、伝染病らしき脳炎で
37歳でこの世を去った。

今でも「納豆」を食べると厳しかったが優しい母親を思い出す。
ありがとう、かあさん。少し遅くなるけど、今度、墓参りに行くね。


202 :194 :2000/03/22(水) 01:40
>198
そうか、ゆがかずにつくってたんだ。ありがとうございます

203 :そういえば50年前・・・ :2000/03/22(水) 05:47
結核で死ぬ前に食べた甘納豆うまかったなぁ…

204 :バッカーです :2000/03/22(水) 10:07
>203
誰だよ

205 :自分の話 :2000/03/22(水) 11:24
じゃなくて悪いんだけど、もう十五年ぐらい前の話。早稲田の教育学部
に岡村っていう教授がいて、「道徳教育がどーたら」という、教職をとって
いる者には必修の課目を教えておられました。その中で、生活保護をうけていて、
本当に貧しかった母子家庭の話が出ました。その母親は、家庭訪問の日、
先生が来るから、というので、自分の食事を削って羊羹をおやつに買って
おいたそうなんです。ところが、その先生は家庭訪問の間にその羊羹を食べ
なかった。そのまま帰ろうとしたので、母親がその羊羹を包んで、「是非
お持ち帰りください」と渡したらしいんですよ。教師はそれを受け取った
のですが、家を出て数メートル行った所のごみ箱にあっさりとそれを捨てた
そうです。その羊羹を後で母子が見つけて、はらはら涙を流した・・・っていう
話だったんですが、岡村教授の結論は「こういう人間は教師になる資格は
ない」ということでした。いやー、その話、うちも激貧だったもので、
本当に胸に響いたんですよ。大きな階段教室だったんですが、泣けて泣けて
仕方なくて、途中で退室しなければならなくなってしまいました。
岡村先生、どうしておられるんでしょう。結局私も教師になりました。うち
は家庭訪問なんてありませんが、あの先生のお話、今でもしっかり覚えて
います。泣き出しちゃって本当に申し訳ありませんでした。

206 :名無しさん :2000/03/22(水) 13:59
このスレッドの書きこみで一本番組作ったらどうだい>テレビ局関係者

207 :>205 :2000/03/22(水) 14:09
似たような話が「人間交差点」というマンガにありました。マンガの
ほうは羊羹ではなくぼたもち(あんころもち?)だったけど。
読んだときは泣けました。思い出したので、ちょっと書き込みを。

208 :名無しさん :2000/03/22(水) 15:27
>205
あの、うちの両親は教師なのですが…
家庭訪問などのときにお菓子を食べるのはいけないことなんですよ。
ルールとしてということもあるし、全部のうちで気つかって食べてたら
おなかこわしちゃうから。だから、生徒側も、出さないか、カタチだけ
とわりきるかにしないと。
…と、いうような話じゃないか…その親子の気持ちはいたいほどわかり
ますけど。その教師のいけないのは、みつかる可能性のあるところで
捨てたってことなのかな。もってかえらないと
いずれにせよ、最近ではイナカでも教師は聖職というかんじはないので、
もうこんなこと(自分の身をけずってまでも先生におもてなしする)は
ないんでしょうね。以前はうちにもお中元やお歳暮がやまほどきてまし
た。今はあまりない、いいことだとおもいます。

209 :名無しさん :2000/03/22(水) 16:53
>208
教師の家は、お中元、お歳暮は親戚以外の物は受け取れなくて、
子供は何となく恨めしく思うものですよねー。
下らない話ですが、カルピスを持って生徒さんの親御さんが、
大学入試に合格したお礼にといらしたとき、
父親が玄関で、まだ在学中の教え子のうちから贈り物を貰うわけにはいかないからと
断っていたのですが、滅多に飲めないフルーツカルピスが入っている箱を
見てしまった私たち兄弟は、引き戸一枚奥なだけの台所で、
「かるぴすーかるぴすー、ほしいよー。」と、大騒ぎをやらかしたのです。
なんとか、親御さんに引き取っていただいた父は、恥ずかしさと怒りで
顔を真っ赤にさせて、「お前らみたいな恥ずかしい子供はうちの子供じゃねぇ!」
と怒鳴り、自分たちをぶん殴ったのでありました。

その後、何週間か後だと思いますが、なぜかうちにカルピスがありました。
年度替わりのご挨拶で出入りの業者さんが職員室においていったものを
父が貰ってきたという記憶があります。
母は、「学校の先生は、絶対にものを貰っちゃ行けないのよ、わかった?
買えなくても、こうやって気にかけてお父さんもって帰ってくれたりするんだから、
欲しい欲しいと騒いじゃ駄目なんだからね。」といいながら、
カルピスを作ってくれました。

親御さんからは、ものを貰っちゃ駄目だという事だけど、
卒業した生徒さんが就職して自分の給料でおみやげ買って
年末年始に遊びに来るのは、とっても嬉しそうにしていた父です。
必ず「俺には酒を土産にしろ!」と言ってましたが、
元生徒さん達もうちが貧乏なのを心得ていて、年末に必ず蜜柑を一箱送ってくれる人、
ハムの詰め合わせをくれる人、子供達のためにジュースの詰め合わせを
持ってきてくれる人と、なんか役割分担していたような。
今考えると、いい人ばっかりだったなー。

210 :>208 :2000/03/22(水) 19:37
教師がモノをもらってはいけない、という話と205さんの言ってる
話の本筋は違うと思うです。
教師が生徒の家庭訪問でお菓子を断るっていうのは、家でも覚えは
あるし、わかるけど

>その教師のいけないのは、みつかる可能性のあるところで
>捨てたってことなのかな。もってかえらないと

・・・・違うと思う・・・。職業柄、その先生が受け取れないなら
「私はいりませんので、ぜひ子供さんに」っていって断固受けとら
なければよかったし、もし受け取ったのなら、自分が食べなかったと
しても、他の好きな人に食べてもらうとか、とにかくくれた人の好意
を無にすることをしてしまったその先生の道徳感の無さが問題なのでは?

 それにその羊羹を出した親は相手が「先生」だからじゃなく、「いつも
子供がお世話になってる人」をもてなしたいという気持ちで羊羹を
用意したんじゃないかな。別に先生に限らず、めったに会えない親戚、
親身になってくれた人が訪問してきてもその家の人は、心づくしを
したんじゃないかな。

211 :>205 :2000/03/22(水) 20:15
うそっ(驚きの意味で)!!その話、自分が小学生のときうちの母が
「PTAで聞いた」っていって話してくれたのとまるっきり同じ話だ!
有名な話だったんだね。
(ちなみにうちは九州。聞いたのは25年ぐらい前)

212 :>211 :2000/03/22(水) 21:29
私も同じ話を聞いたことがあります。

たぶん、「道徳」というものを教えるときに、物の大事さとか
を教えるための1つの話なのではないかと思います。

>210

羊羹ならまだよくて、現金とか、金券をおみあげにする家庭も多い。

213 :名無しさん :2000/03/22(水) 22:30
うぇ〜ん、号泣。
会社でこのスレッドを見つけて読み始めたけど、泣けてきちゃって困るので、
今家に帰って読み終えました。
2chでこんなに感動するなんて、思いませんでした。

私は、実家が好きではなくて、10年ほど前に家を出ました。
でも、家を出て初めて親のありがたさとか、気持ちが分かった気がします。
未だに、母親が、父親が庭の畑で作ったたくさんの野菜や缶詰とかを
短い手紙を添えて送ってきてくれたりしてくれます。
その野菜で、母親の味を思い出したり、電話で作り方を聞いたりして、
煮物を作ったりするのですが、やはり何かが違います。
このスレッドを読んでいて、なんだか実家に帰ってお母さんの
料理が食べたくなってしまいました。

214 :名無しさん :2000/03/22(水) 22:41
叔父の家は、ウチから電車で1時間位の所で蕎麦屋を営んでいて
ちょくちょくと遊びに行っては美味しい物を食べさせてくれたり、
夏休みに一寸仕事を手伝っては結構な額のお礼を貰ったりと
可愛がって貰っていました。
産まれて初めて「ステーキ」なるものを食べたのも叔父の家でした。
叔父が焼いた「ステーキ」は当時、我が家では牛肉を滅多に
食べる事も無かったので、妹と二人でとっても喜びました。
それから、何年かして僕も社会人になっていた有る日の事
叔父が癌で発見が遅れた為、開頭手術をしても患部は全て
取り除けなかったと母から言われました。

手術後、妹と見舞いに行き、自分が癌である事を知らされていない
叔父は、「早く、店を開けなくちゃナ」と言ってリハビリをしていました。
叔母が病室の外で「抗がん剤で気分が悪い筈なのに、メシを食わないと
力が落ちるからって無理にご飯を食べているんだよ」って泣きっぱなしでした。
帰り際に、妹が「叔父さん、またステーキを焼いてね」、叔父が「うん」と
一言。

数週間後、叔父の娘さん(従兄弟)が予定を繰り上げて結婚式を
するとの事で出席し、そこで見た叔父はメッキリと老けてはいましたが、
結構シッカリした様子なので少し、安心しましたが、その数日後、
従兄弟が新婚旅行中に逝ってしまいました。

今でも、あの叔父が作ってくれた2度と食べれないステーキが
忘れられません。

215 :>205 :2000/03/22(水) 23:35
なーんか小学校の時の道徳の教科書「にんげん」に載ってた気がすんなぁ
その子の家は貧乏で、汚い家に住んでたから・・・・ってオチだった

216 :名無しさん :2000/03/23(木) 02:26
私は小学校1年から4年までずっと同じ担任でした。
そのおじいちゃん先生は その年も例年のように家庭訪問にきました。
その日の訪問は家が最初で、当日珍しく私の父もいたのです。
私はすれ違うように友達と遊びに行き、夕方帰ってきてびっくり。
そこは宴会になっていました。すっかり酔っ払っている父と先生・・。
脇にビールが4,5本空いてました。母に「この事は内諸よ」と口止めされ…。
もちろんその日の訪問は家でストップ。後にはまだ3,4人はいたはず。。
訪問予定だったお宅には何と言い訳したんでしょう、、
あとから聞いた話では、先生も奥様を亡くされたり色々あったみたいです。
それだけ長時間いて私の話はほとんどなかったとか(笑)

217 :やだ、もう :2000/03/23(木) 12:47
泣けてきてしょうがないよー。
職場なんで、慌てて目薬さしちゃいました。

218 :名無しさん :2000/03/23(木) 13:35
花粉症なので、会社で周囲をはばかることなく涙を流しながら
読みました。

219 :名無しさん :2000/03/23(木) 15:57
ほろっとはくるけど、泣けないなどれも。
感受性が死んでのかな>自分。

220 :名無しさん :2000/03/23(木) 20:25
高校生の頃、母と兄の3人家族でした。
母も兄も仕事をしていたため、家に一人でいることがほとんどだった私の
唯一の遊び相手は猫のミーコでした。
ある日学校から帰ったら、珍しく兄がいて、「ミーコが車に轢かれて死んだ」
と聞かされました。私は「ふーん」とだけ言っていつものように夕飯の支度をし、
黙々と食事をしました。食べ終わった瞬間、涙が滝のようにあふれてきて
とまりませんでした。それから2日間、涙が止まりませんでした。
なぜあのとき、普通にご飯を食べたのか、今でもよくわからないのです。

221 :名無しさん :2000/03/24(金) 01:28
おばあちゃんがよく作ってくれた みそ田楽のおにぎり。
まるい形のおにぎりを焼いて丁寧に味噌を両面にぬったやつ。
おばあちゃんのしわだらけで今までの人生がしみこんだような手でにぎられたおにぎりは
なんとも言えず美味しくて大好きだった。
今おばあちゃんはぼけちゃって施設にはいっている。
自分でそのおにぎりを作ってみたけど やっぱりあの味にはならない。

222 :名無しさん :2000/03/24(金) 01:39
小学生低学年の頃です。
父が家に昼飯を食べに帰ってきたのですが、何か嫌なことでもあったのか
その日はかなり機嫌が悪かったのです。両親は自営業をやっていて、悪い
ことにその日は休日で人がおらず母も忙しかったため、簡単にカップ麺
で済まそうとお湯の用意をしていたのでした。
食卓についた父が何かのことで母をなじり、気が強かった母は父に言い返し、
父はその母の言葉に反論できなくて、眉間のしわをさらに深くして不機嫌そ
うに黙っていました。
母がカップ麺にお湯を注いでふたをした直後、父がそれを母に向かってなぎ
払いました。ふたが外れて中の熱湯が母の手や足にかかり、母は床にうずく
まって泣いてしまいました。カップ麺の散乱した中で、やけどした手を押さえ
「痛いよう、痛いよう」と子どものように泣く母の姿は、普段母の強気な姿しか
見たことがなかった私にはとてもショックでした。恐らく母にとっても、父の
その仕打ちは非常にショックだったのだろうと思います。
その後、さすがに父も悪いと思ったのか、母を病院へ連れて行きました。
床を掃除しながら、母がかわいそうだという気持ちと、こんな家庭にいる
しかない自分が子どもながらにみじめに感じて、泣けて仕方ありませんでした。
病院から帰ってきた母の、手や足に巻かれた包帯やガーゼは直視できませんでした。
その両親は何年か前に離婚し、去年父の会社も倒産しました。
サンポーの焼豚ラーメンを見ると、その時の嫌な気持ちがよみがえります。

223 :名無しさん :2000/03/24(金) 03:53
せつないねぇ・・・。

224 :>222 :2000/03/24(金) 04:11
これから幸せになられるといいですね。心からそう思います。

225 :>39 :2000/03/24(金) 04:22
その気持ちわかります。
あとで思い返して胸が痛くなるんですよね。
いま悪いと思った気持ち、絶対相手に伝わると思いたいっす。

226 :>61 :2000/03/24(金) 04:23
祖父様はいまも健在なのでしょうか。
つらいですね。自分を思ってくれたお菓子を捨てられちゃうなんて。


227 :226 :2000/03/24(金) 04:24
同じような経験があるので、読んでて身につまされました。


228 :>74 :2000/03/24(金) 04:24
いい彼氏だったね…

229 :>220 :2000/03/24(金) 05:20
とっても辛い出来事ってすぐには実感できないから、夕御飯を食べて
お腹がおちついたら、さめざめと実感してきたんじゃないかな。
私も大好きだったおばあちゃんが死んじゃった時、30分くらいして
いきなり泣き出した。遺体とはとっくに対面してたのに。

230 :親不孝者 :2000/03/24(金) 05:42
高校2年の秋、母が癌で入院した。
若干マザコンの気があった私は毎日学校が終わると病院に直行し
面会時間が終了するまで母と一緒に過ごしていた。
ある日、学校ですごくイヤなことがありムシャクシャした気分のまま
病院へ向かったのだが、病院の駐輪場で自転車の置き場所のことで
警備員にちょっとキツメに注意され、不機嫌だったこともあり口論になってしまった。
ますます不機嫌になった私が母の病室に着いても憮然としたままでいると
母は気を遣ってお見舞いのフルーツ籠からバナナを1本取ってくれた。
当時はバナナが大好物だったのだが、まだ幼かった私は気分の切り替えが出来ず
不機嫌な顔のまま「いらない」と言ってすぐに家に帰ってしまった。
母はキョトンとした顔で私が病室を出て行くのを見送っていた。
それから2、3日の間気まずい思いで病院に行かなかったのだが
次に会いに行った時には母の病状が急激に進行していて
会話すらまともに出来なくなっていた。
その後は死相の浮かんだ母の顔を見るのがイヤで、結局臨終まで病院に行けなかった。
なぜあの時もっと母に優しくできなかったのか。
なぜあの後今まで通り会いに行かなかったのか。
あれから10年以上経つけれど未だに当時の自分が許せない。
そしてその時以来バナナが食えなくなりました。

231 :彼と食べ物と私 :2000/03/24(金) 09:09
8年前、彼は留年の決まった大学4年生で、とても貧しくだらしない生活を送っていた。
お金持ちではないけど不自由のない自宅OLだった私は彼に何かしてあげたくて
慣れない料理を覚ることになる。ほとんど私がお金を出して食材買ってたので
悪く言うと「ヒモ」みたいなものだったかも・・・

初めて彼の部屋で食べたのはカレーライス。
家から2合の米とレトルトのカレーを持って行ってごはんを炊いたのは良かったけど、
カレーライスを盛るお皿がなくて(かろうじてスプーンはあった)、結局、
炊き立てのご飯の入った炊飯ジャーに温めたカレールーを入れて二人で食べた。
一つのお釜から直接食べるのがおかしくて、二人でくすくす笑った。

次に作ったのは親子丼。
「ぶきっちょさんのお料理ブック」と言うレシピ本を買った私は
夕方からバイトに出掛ける彼の出勤に間に合うように一生懸命卵を溶いた。
卵に気を取られるあまり、炊飯ジャーのスイッチを入れ忘れているのに気付き
慌ててご飯も炊いたんだけど時間ギリギリになっちゃって
ご飯が熱いのを我慢して一生懸命かきこんで食べた。
ちょうど「美味しんぼ」の再放送で親子丼の回だった。
自分の作ったものが画面の親子丼と違ってないかドキドキした。

初めてケンカしたのはビーフシチューを作った時だった。
煮込んでいる間に彼がイビキかいて寝てしまったのが悲しくて
お鍋を火から下ろして泣きながら家に帰った。
起きてびっくりした彼が電話で謝ってきてすぐにまた会ったんだけど
お金もないのに大学の生協でお菓子を買ってくれた。
彼の部屋に戻るまでほとんど口を聞くことはなかったけど
手だけはぎゅっと握り合っていたのを覚えている。

3年前、私は彼の扶養家族になりました。
今日の晩御飯は何にしようかな。

232 :名無しさん :2000/03/24(金) 09:21
奥さん、奥さん、まだ朝ですけど。(笑

233 :名無しさん :2000/03/24(金) 11:25
>231
田嶋陽子が怒りそうな(笑)メルヘンな人ですね
そうそう、ごはんつくってるときの態度ってむかつくときあるよね。
私は、料理してるときに音楽をきこうと思って、かけてたらその横で
テレビつけられたので怒ったことがある。ま、気づかないんでしょうが…
世話するのがキライで、世話してちょうだい!とおもってる私でも、
料理だけは自分でする。というか、食事にかまわない男の人に異常に弱い。
今日は朝から菓子パンいっこしか食べてない、というようなことをきくと
胸がときめきます。
(若い男の子に限る)


234 :名無しさん :2000/03/24(金) 11:52
今朝(と言うより昨日の夜)から何も食べてません。(泣
でもご飯よりもそろそろ睡眠の方が…。

235 :61 :2000/03/24(金) 13:08
>226さん
祖父は亡くなりました。だからよけい辛いです。
母も悪い人ではないので、ちょっと機嫌が悪かっただけだと思います。
けれど、私はああいうことをしないようにしようと思ってます。

236 :名無しさん :2000/03/24(金) 14:18
今気がついたけど、「からい」と「つらい」は
同じ字なのねん。食べ物って奥が深い・・・

237 :ビール :2000/03/24(金) 17:30
 ビールは横に冷やすとうまい、と父は言っていた。
そんなわけはないと、と言っても聞かず、冷蔵庫に決まってビールを横にして冷やしていた。
酒以外煙草もギャンブルやらない親父にとって、ビールに関してだけこだわりを
持っていたのかもしれない。酒が飲めなかった俺は、一緒に飲むこともなかった。

 親父が死んだ時、なぜかそんなに悲しくなかった。あっけないな、とは思ったが、
何か時間が寸断されるような感覚はなかった。親戚が自宅にきて、これからのことを
話し合っているときに、ふと何か酒が飲みたくなり、冷蔵庫を開けた。

 横になったビールがあった。時間がぎゅっと凝縮されて、思い出すべきことが多すぎて、泣いた。

238 :>237 :2000/03/24(金) 18:06
私も、もらい泣き(涙)

239 :名無しさん :2000/03/24(金) 19:45
高校3年生の時、隣のクラスの好きな子を映画に誘って
運良くOKの返事をもらい、映画の後お決まり喫茶店で
とりとめの無い話をしたな。
自分が何話したか食べたかは忘れたが、彼女がエビピラフを
食べたのは今でも覚えている。
店で告白しようと思ったが、すぐ隣に人がいたので店を出てから
告白、返事は「いい友達でいましょう」あえなく撃沈。
高校の友人にたまに会うが、彼女のこと聞けない
「結婚した」と聞いたら心臓止まるかも…

240 :名無しさん :2000/03/25(土) 13:55
age

241 :円谷幸吉の遺書(閑話休題) :2000/03/25(土) 15:37
父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、モチも美味しゅうございました。
敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。
克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゅうございました。
巌兄、姉上様、しそめし、南蛮漬け美味しゅうございました。
喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゅうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。モンゴいか美味しゅうございました。
正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になって下さい。
父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が安まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。

242 :>241 :2000/03/25(土) 15:47
閑話休題の使い方が間違ってるよ。

243 :>241 :2000/03/25(土) 19:46
昔、そのまま歌詞にして歌にしたグループあったよね。
女性ボーカルが「幸吉はもーう、走れません♪」って歌うの。
スポーツ選手にとって仕事以外のいちばんの興味って、やっぱ食べ物なんだなあ
と思うと、なんかやるせない。
世の中にはもっと楽しいこといっぱいあるのに。

244 :名無しさん :2000/03/26(日) 04:13
私の父は40代前半で、ガンのために、発覚してから数カ月で他界しました。
死亡する前日父の病室に行き、いつものように梅干しと、母が作った おかずをを差し入れました。
入院直後からちょくちょく差し入れはしていたのですが、そんなにすぐ死んでしまうとは
考えもしなかった私はそれが億劫で、いつも夕食の時間より遅く届けていました。
帰りがけ父が、何か言いたそうにしていたのをぐっと呑み込んで、バイクで帰る私に
「気をつけてな」と、いつものように一言声をかけました。
それが最後の言葉でした。

その後私は何度か入院することがありました。
体調が良くなると、病院の生活は実に退屈で「次の食事まで後◯分」という気持ちで
時計を見るようになります。
その食事があまりおいしいものではなく、また量も物足りない。
父が差し入れをどんなにか楽しみにしていたか、自分で体験し分かったような気がしました。

私はこれまで、現在の自分がたいした人間でもないわりには、自分の行動を後悔したことが
ないのですが、このことについてはたいへん後悔しています。
もっと早く届けていれば良かった。毎日運んであげれば良かった。
いや、むしろ自分のために、残り少ない父との時間をもっともっと大切にするために、
そうすれば良かった。
差し入れを届けてもすぐに帰ったりするんじゃなかった。

父の死後しばらくの間、梅干しを食べる気になれませんでした。
しかし15年経った現在は、自分で漬けています。
梅干しを漬ける度、あるいはそれを食べる度、思い出してしまいます。

245 :さつき :2000/03/26(日) 14:09
以前、寮生活をしていた時、滋賀の子が、おそうめんをゆでて
どんぶりに入れ、おしょうゆとミョウガとマヨネーズをまぜて
食べていた。最初見た時、ウゲーっと思ったけど、
ちょっともらって食べてみると、おいしくって、あれから10年
いまだに食べてます。

246 :名無しさん :2000/03/26(日) 14:54
小学校一年、入学したての頃。
上級生(6年)が給食の手伝いに来てくれた。
その日の献立は、食パンにスライスチーズ・レタス・マスタード(他は覚えていない)。
「いただきます」の合図で食事を始めるのだが、その前に、
上記の食材からサンドイッチを作らないといけない。
私もサンドイッチを作り始めたのだが、スライスチーズのかけらが
残ったので、つい口にしてしまった。
そのとき、上級生に「まだ食べたらだめだよ」と注意されてしまった。
25年前の、食事に関する一番古い記憶です。なんで覚えているのか。


247 :明るい田中麗奈 :2000/03/26(日) 18:55
私には子供の頃「この世でいちばん美味しい食べ物は?」という質問に真面目に「スイカ」と答えた記憶がある。あの頃のスイカはほんとうにうまかった。

248 :名無しさん :2000/03/26(日) 22:54
私も寮の話し。貧乏な大学の寮に入っていたので、朝は卵かけご飯とお味噌
汁のみ。家は母が厳しかったので、卵かけご飯は犬のご飯と呼ばれていて
食べさせてもらえなかった。だから私も寮に入った当時は、敬遠してたけど、
ある日思いきって食べてみたらこれが思ったよりおいしい!それからは毎日
食べてました。今はアメリカにいるんだけど、一番食べたい日本食としてま
ず思い浮かぶのがこの卵かけご飯です(こっちの卵はこわくて生では食べら
れない)。

249 :名無しさん :2000/03/26(日) 23:44
ポテトチップスが大好きだった俺だが、
子供のころ、祖母が自家製のポテトチップを作ってくれたことがあります。
作り終わったポテトチップを見て、祖母が,
「戦争終わったころ思い出すな」と言って、仏壇にそのポテトチップを
供えて、手を合わせました。
油は貴重品だったんだけど,油が手に入ったときはジャガイモをそうして食っていたそうだ。
今でも,コンビニでカルビーのポテトチップスの袋を見ると時々思い出します。

250 :>248 :2000/03/27(月) 02:38
横レスでごめんなさい。アメリカで生卵。日本人ならやっぱり食べずに
はいられない(笑)。というわけで、自然食品のお店やヘルスフードの
お店に行くと、生で食べられる卵売ってますよ(健康食品として食べる
アメリカ人が多いらしい)。Mothersとかああいうタイプのチェーン
店です。すき焼きするにも生卵がいるので、うちはいつも卵はこういう所
です。値段もそんなにびっくりするほどじゃないですよ。
これからも頑張って卵かけご飯、沢山食べてくださいね!

251 :〉248,250 :2000/03/27(月) 06:05
カナダですが、全然気にせず食べてます。それほど危険ではない
とも聞いたのですが、気を付けたほうが良いですね、これから。

252 :さばおどり :2000/03/27(月) 06:54
私が8歳で、弟が5歳の頃の話です。
当時、母が病気で入院してしまい、父は単身赴任中であることから、
私達は祖母(父方)の家に預けられておりました。
母や私達を嫌っていた祖母は、朝から夜遅くまで舞踊のお稽古に行き、
私達の世話は一切しませんでした。そこで、私達はいつも近所に住む
Aさんという人のいいかたの家でご飯をいただいておりました。
ある日、母が一日だけの許可をもらって退院してきました。
本当は体がとてもきつかっただろうに、母は甘えつく私達を何回も
抱っこしてくれました。
夜は、三人で歌いながらハンバーグをこねて作りました。
「今日はお母さんが帰ってきたから、ご飯はお家で食べます!」
Aさんの家に挨拶に行った時の弟の、何か誇らしげな表情を見て
嬉しくなった私は、その紅潮した頬っぺたに何度も自分の頬っぺたを
擦りつけて家に帰りました。


253 :さばおどり :2000/03/27(月) 06:55
家に着くと、既に料理が食卓に並べられていた。母は暖かい牛乳を差し出して、
「おばあちゃんが帰ってきたから、ちょっと待っていてね。みんなで食べようね。」
と言った。私達がAさんの家に行っている間に帰ってきたようだ。しばらくすると、
着物から着替えてきた祖母が台所に入ってきた。
「お義母さん、お食事の用意できていますので、どうぞお掛けになってください。」
その母の言葉を遮るように祖母は、
「病人の作ったものが食べられますか!何が感染するかわからないのに…」
と言って、母の作った料理を全て残飯の入ったごみ袋の中に捨てていきました。
「も、申し訳ありません…」
さっきまでニコニコしていた母の顔から一気に血の気が引いていきました。
私は(どうしよう!どうしよう!)とただただ混乱していました。
「バカヤロウ!」
突然、弟が叫んで、祖母からごみ袋をひったくりました。
仁王立ちになった弟は、祖母をにらみつけながら、ごみ袋から
母の作ったご飯を手ですくって食べ始めました。
「俺はなぁ… 俺はなぁ…」
後の言葉が出てこずに、目から涙をボロボロとこぼしながら、弟は食べました。
小さな肩を震わせて、必死に強がって…
そんな弟を見て、私も大泣きしながらごみ袋からハンバーグを掴み取って食べました。
「もう、いいのよ。やめて。二人とも。いいのよ。お願いだから…」
泣きながら止める母の声も無視して、私達はむさぼり続けました。
これが私達姉弟の、母の最後の味。悲しさと悔しさの恨みの味…


254 :↑ひゃー :2000/03/27(月) 07:06
ヘヴィーです・・・・ヘヴィー過ぎます・・・ >_<
文章が上手なのがイヤですぅ〜!
しくしくしく・・・


255 :わたしも・・・・ :2000/03/27(月) 07:27
>さばおどりさん
朝から泣きはらした目で仕事に行かねばなりません。
それにしても、悲しすぎます。
どうか現在のあなたは幸せであることをお祈りします。

256 :名無しさん :2000/03/27(月) 08:33
涙が止まりません、さばおどりさん。

このスレッドにはいくつか悲しいお話があるけど、
あなたのは特に悲しすぎる。母を思う弟さんとあなたの気持ちが
おばあさんにつたわらなかったのでしょうか。
同じ人間としてすごく悲しい。
朝から泣かずにはいられませんでした。

257 :名無しさん :2000/03/27(月) 09:46
さばおどりさん、あまりにも泣けすぎる。
二日酔いでも、この涙は忘れる事はできません。

258 :緑一色 :2000/03/27(月) 15:55
泣ける話ではないが…
中学に入る直前の春休みのある暖かい夕方、桜を見に近くの公園まで出かけた。

北国なので、4月中旬でも桜はまだ5分咲きくらいだった。人はあまりいなか
ったが、ふと同じクラスの女子に会った。彼女とは殆ど話をしたことが無かっ
たが、せっかくなので歩きながら、新学期からのことなどいろいろしゃべった
ように思う。確か彼女は直しに出した制服を取りに行った帰りとかだった。

ふと見ると、薄桃色に色付いた川沿いの桜並木の上に、白い満月が昇っていた。
ガキだった俺が、「今日は花見と月見が同時にできてラッキー」みたいなこと
を言ったら、「本当、もし緑一色君と私が大人だったら、一緒にお酒飲めたの
にね…」と彼女。

別に大した意味があるわけでもないのに、厨房にもなってなかった俺はその言
葉に何だか急にドキドキして、「ラムネ飲も、ラムネ、おごるから」と、売店
でラムネを買って彼女に1本渡した。彼女は「ありがとう」と快く受取ってく
れた。その後どんな話をしたかは覚えていない。

でも、あの時の甘く暖かい春の空気、冷たいラムネの味、夢のように美しかっ
た桜と月、そしてそれを見て微笑んでいた彼女の横顔は、今でも忘れられない。

桜の季節にラムネを見ると、思い出して少し切なくなる。

259 :名無しさん :2000/03/27(月) 17:59
小学校低学年のとき、同居していた祖父が入院しました。
昨日までピンピンしていたし、誕生日を目前に控えた私と一緒にプ
レゼントに買ってくれる予定だった鉄道模型の選択をめぐって、カ
タログを見ながらああでもないこうでもないと話していたので信じ
られない気分でした。

父も母も病院に行ったまま夕方になり、おなかをすかせた私と兄は
途方にくれていたのですが、病院にいる母から電話があって、とり
あえず冷蔵庫にあるメロンを食べていなさいと言われました。
15年くらい前なので、メロンといえば高級品、という時代でも無か
ったのですが、いつもは1/4かそれ以下分の、しかもサイコロ状に
切ったものしか食べていなかったので、自分たちで一個のメロンを
好きに食べて良いということがよっぽど嬉しくて二人ではしゃぎま
くりました。
とりあえず半分に切って分けることにし、どこに切れ目を入れるか
で兄とはしゃぎながら言い合っていたところに病院から父が帰って
きて「何してるんだ!おじいちゃん死にそうなんだぞ!」とすごい
剣幕で怒鳴られました。
私たちはシュンとしながらも(怒られたので)味のしないメロンを
黙々と食べ、そのまま寝ました。

翌日、祖父が息を引き取りました。
私は祖父の身体を綺麗にしおわった後に病院に到着し、おそるおそ
る祖父と対面しました。
病院自体が恐くて堅くなっていた私が冷たくなった祖父との対面を
冷静に出来るはずもなく、恐ろしくなってすぐに部屋から出てしま
いました。

260 :名無しさん :2000/03/27(月) 18:01
そこで、母から「○○(私の名前)へ」と祖父の字で書かれた封筒
をもらいました。
中をあけるとお金が入っていて、私と約束したプレゼントを買うよ
うにと祖父が母に言付けをしたそうです。

私の誕生日に行われた葬儀の時に、父が葬儀屋の用意した白い座布
団に涙を一粒だけ落としたのを隣に座っていた私は見ました。
そのとき、自分の父親(=私の祖父)の死が迫っているというのに
メロンの切る場所ごときの事で大はしゃぎしてしまったことや、
誕生日のプレゼントを買うようにとお金を残してくれた優しい祖父
の死に顔をまともに見てあげられなかったことへの後悔が一気にや
って来ました。

私は今年でもう25になるのですが、父にあんなに怒られたのは今の
ところあれが最初で最後です。

このスレッドを見始めてかなり経つのですが、今になって突然この
話を思い出してしまいました。
今となっては祖父の顔や声の記憶は薄くなりつつありますが、雰囲
気だけはなんとなく思い出せます。

私も多分、父に対しては父が祖父に接していたのと同じ様な接し方
をしていると思うので、もう少しトゲの無い接し方をしたいと思い
ました。


261 :からあげの :2000/03/27(月) 22:33
話読んでて思い出しちゃった。
高校生のとき公園で子供にいじめられてた子猫を、そいつら怒鳴りつけて
取り上げてきたんだわ。
6ヶ月ぐらいに育った頃かなあ、夜に弁当のオカズのチキンカツを
揚げてたらいつものように猫がねだったんで、かけらをあげたんだ。
そして食べ終わったら、猫がじいーーっと真剣な顔して人の目を
見つめたんだ。「もう1個ほしい」っていうんだったらニャ―ニャ―
鳴くんだけど、黙ってじーっと見つめるんだ。
ちょっと気味悪くなったんだけど、すぐ寝た。
・・・翌朝、猫、家の前で車にひかれて死んでた。



262 :名無しさん :2000/03/28(火) 00:46
でも、最初は普通に感動したりうるうるしたりで楽しんできたんですが
皆さん泣きネタ合戦になってきて、最近は引いてしまいます。
さばおどりさんのネタも既に小説ででてますよね。誰かは言いませんが。

皆さん、スレッドの趣旨に立ち返りましょう。


263 :>262 :2000/03/28(火) 01:47
い〜や。ネタでもいいぞ!!
もっと俺を泣かせてくれ〜。

264 :名無しさん :2000/03/28(火) 03:33
完全に泣かせネタスレッドになってしまってる。
そのためには小説、エッセイのパクリあり、創作ありで・・お腹一杯。

265 :名無しさん :2000/03/28(火) 04:01
そうだな。創作っぽいのもある。パクリも有るんだろう。
しかし、たいがいはホントのことだと信じたい気分。
揶揄するレスもいいけど、それじゃ次の人が書き込みにくい。
2チャンネルの良心っぽくなってきたからさ、このスレッド。
大事にしようぜ。

266 :名無しさん :2000/03/28(火) 04:46
つまらない話ですが聞いてください。(涙とは全然関係ないです)
中学生だったある冬の日のこと。その日の夕食はカキ鍋でした。
家族みんなでカキを食べてた時、自分も何個目かのカキを口にしてたら
突然奥歯に「ガリッ」と何かが当たりました。
以前、歯に詰めたもの(銀色のヤツ)が取れたことがあったので、
今回もそうだろうと、おそるおそる口から出してみたら、白いモノが目の前に。
「何コレ?」次の瞬間ビックリ。「真珠?」そう、色も乳白色でまんまるなんです。
大きさは直径4ミリほどですが、本当に真珠そっくりでした。
家族の反応は「へー珍しいこともあるもんだ、でも価値もないし」(カキだから?)
でも捨ててしまうのもなんか惜しくてしばらく大事にしまってました。
(結局どっかにいってしまったが)あれ以来カキを食べても何もでませんが、
今でもたまに思い出します。(スミマセン下らない話を書いてしまいました..)

267 :名無しさん :2000/03/28(火) 05:15
>266

牡蠣の中にまれに真珠が入っているそうですが、それに
当たるとは266さん、運がいいな。それは天然真珠でしょう。
明治天皇が皇后と食事をしていたときに、皇后の食べていた
牡蠣から真珠が出、それを羨ましがってたくさん牡蠣を注文して
食べた(でもでなかった)という逸話もあります。

>262
気持ちはわかるけど、悲しい(泣けるネタ)思い出=
思い出に残る食事っていうのは、別に外れてないと思うよ。
ただ、「楽しくて思い出に残る食事の話」も知ることがで
きたら本当にいいですね。



268 :>248 :2000/03/28(火) 08:01
卵のこと、ありがとうございます。一応生で食べられる卵があるとは
聞いてたのですが、ものすごく高いと友達が言っていたので、手をだし
てなかったのです。今度コープをのぞいて見ます。

269 :名無しさん :2000/03/28(火) 11:31
 離れて暮らしているので、月に1度か2度くらいしか会えない彼女が
います。たまに泊りがけで遊びに行く時は、夕ごはんを何にするかで
盛り上がるのが常です。
 とりあえずメインディッシュを決めたら、スーパーに一緒に買物に行き、
サイドディッシュをどうしよう、あれも食べたいがこれも捨てがたい、などと
互いに検討しあいながら食料品売り場をくまなくうろつきます。
 スーパーから帰る道すがら、今回の料理の手順とそれぞれの担当をどう
するかを相談し、帰宅と同時に相談した通りに調理を始めます。

 ワタシは、このように夕食ひとつで大騒ぎしてますが、たいへん楽しい
ものです。今は現在進行形ですが、これが将来、思い出すと切ない記憶に
なるのかもしれないと思うと、ちょっと複雑な気持ちになります。

270 :さばおどり :2000/03/28(火) 12:21
>262さん
私の話が小説ですか…
できればその小説の表題を教えてもらえませんでしょうか。
是非、読んでみたいと思います。
私の母は重度の肝炎でした。昔、看護婦だった祖母の行った行為は
感染の可能性が高いことから考えると、あながち間違いではありません。
ただ、もっと他のやり方がなかったのだろうかと、未だに思い出しては
怒りを感じ、泣いてしまいます。祖母の実家は嬉野という温泉町で
母はそこのスナックで働いていて、父と知り合い、結婚しました。
やはり田舎であることから、いろいろと揶揄されていたそうです。
祖母はそんなことから、私が生まれた時も「うちの〇〇(父の名前)
の子供じゃなか!どこか知らん男と作ったとやろうもん!」と
言って、けっして孫とは認めなかったそうです。ただ、父の兄の子供
達にはとてもやさしいおばあさんでした。母のなくなったとき、
父はAさんから私達がどのような生活をしてきたかを知り、
憤怒して、葬儀の後に私達を引き取り、祖母とは絶縁しました。
ただ、父はあまりにも多忙であった為に、結局私達は
宮崎にある母の実家に預けられました。宮崎の祖父、祖母は私達に
とてもやさしくしてくれました。父も毎月会いにきてくれました。
現在、私は大阪の大学に通っており、弟も春から大阪の調理師の
専門学校に通います。とても幸せに過ごしております。
最後に長文、駄文をお詫びし、ご挨拶といたします。

271 :>270 :2000/03/28(火) 14:15
うんうん、がんばれ。
俺は信じていたさ。

272 :名無しさん :2000/03/28(火) 14:28
>さばおどりさん
今はお幸せなんですね。よかった。

話しが「ネタ」という人もいるけど、全く同じ環境だった人もいるのでは
ないでしょうか。私はここにある話しを「ネタ」くくりにしたくないです。
悲しい話が多いのは、楽しい事はすぐ忘れちゃうからでしょうか。




273 :ふに :2000/03/28(火) 14:57
里帰り中の「なー」に読ませる為age


274 :名無しさん :2000/03/28(火) 16:27
ネタでもいい
それでも泣けるのなら
それでいい

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0ch BBS 2004-10-30