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思い出に残る食事

133 :>124 :2000/03/14(火) 21:47
ごめん、私そのおばさんより、124さんの方がかわいそう、って
思った。
>「おばちゃんの唐あげとお母さんの唐あげと、どっちがおいしい?」
これに対して124さんが「どっちもおいしいよ」っていえばよかった
んだよなぁとも思うけど、そのおばさんが普通に「おいしい?」って
聞いたら124さん絶対素直に「うん!」って言ってただろうにな、
って思って(泣)。結局おいしかったんだよね。その唐あげ自体は。

134 :昨日の話 :2000/03/15(水) 01:31
「ホワイトデー何欲しい?」と聞かれたので
「マシュマロ一箱」と答えました。
一箱までは行かなかったけど、なんのひねりも無い
白いマシュマロを3袋と、目覚まし時計をくれました。
雑誌に載っているような気の利いたプレゼントなんて
出来ない彼がちょっとかわいい。
たいした話じゃなくてごめんなさい。

135 :ふと思った :2000/03/15(水) 01:49
伊丹十三の「たんぽぽ」
なんてどうですか?

136 :名無しさん :2000/03/15(水) 16:07
あげー。

137 :名無しさん :2000/03/16(木) 06:45
ここに書きたい思い出がひとつあったのだが
思い出してみるとあまりにも辛すぎてどうしても書けない。

138 :明るい田中麗奈 :2000/03/16(木) 13:15
>137 そんなに辛い食べ物があるのですか?

139 :へほほ :2000/03/16(木) 13:56
まだ、港北ニュータウンが造成地だった頃
初めて母親とピクニックにいったのよ。
たぶん、幼稚園くらいの頃かな。
田んぼやら草原しかないようなところを
てくてく二人で歩いているだけだったんだよね。
でも、自分は、母親と二人でピクニック、ってだけで
なんだかものすごくうれしくて、そのときは
単純に近所を散歩、ってのと変わりなかったんで
お弁当なんか作るわけも無く、そのへんの店で
菓子パンとかジュースとかそんなもんだけ買って
持って行ったんだけど、途中、一休みして食べた
チョココロネがすごくおいしくて。
外で物を食べて、おいしいと思ったのは
あれが始めてだった。
チョココロネを見るとあの時のことをいつも
思い出す。

140 :名無しさん :2000/03/16(木) 15:29
井川比佐志の妻が瀕死の床から立ち上がり
飯つくるシーン。僕も思い出しました。
それとも生卵口移しを思い出したんですか?

141 :明るい田中麗奈 :2000/03/16(木) 16:07
>名無しさん そのシーンは実に日本的で余韻がありました。でも「たんぽぽ」ときいて私が思い出したのは、後者でした。ナインハーフ(だったかな?)を見たとき、「たんぽぽ」のパクリだと思ったものです。

142 : :2000/03/16(木) 16:15
兄と私と小学高学年から中学の頃。真夜中も真夜中深夜2時頃
毎晩酔っぱらっての父ご帰還。接待だかなんだか知らないけれど
その頃事業は絶好調だった。
「おーい起きろぉ寿司だぞ」毎晩決っておみやげの折。
中身は梅しそ巻だけの折。その梅はコリコリカリカリで刻んであって
あんな梅にはお目にかかれないな。
こっちは寝てるのに起され毎晩同じ折なんで適当に食べたり食べな
かったり。いいかげんにしてよと有難みもなかった。
ある遠足の日お弁当箱開けたら梅しそ巻が入っていたりして。
随分はぶりよくやってきた父だけどおきまりの没落して,最後の最後は
都会のアパートで一人で逝っちゃった。
今でも梅しそ巻食べると,「これはホンモノの梅しそ巻じゃない。梅は
カリカリした刻んだものでないと」などと思っています。
兄もそういうそうです。

143 :名無しさん :2000/03/16(木) 16:18
>141 逆だよ。「たんぽぽ」が「ナインハーフ」をぱくったの。

144 :明るい田中麗奈 :2000/03/16(木) 21:18
なるほどその可能性も高いね。どっちが先にできたのかな。「たんぽぽ」の製作は1985年らしいけど。私は先に「たんぽぽ」見たので「ナインハーフ」が真似したと思い込みました。あまり邦画を贔屓にしない私ですが、「たんぽぽ」のほうがずっと良いと思います(比較するのが無理かも知れませんが)。久しぶりに見てみようかな、たんぽぽ。

145 :名無しさん :2000/03/16(木) 21:51
>144
頻繁に現れて殆ど食事と関係ない話ばっかするのはやめてけれ。
いちいちレスに反応しなくて良いからさ。
改行もしてないから読む気失せるのよ。
これにもレスしないでけれ。

146 :まだ思い出じゃないんだ :2000/03/16(木) 22:06
ねえ。悲しい時でも辛い時でも、やっぱりごはんって食べるよね。
でないと生きて行けないものね。
私は先週とてもとても辛いことがありました。しばらくは何も食べれ
なかった。でも今日はちゃんと3食食べてた。だって私の気持ちとは
関係なく、おなかがすくんだもの。なぜかおかしかった。
今はとても言えないけど、いつか、みんなのように、思い出として
つらかった気持ちを文章にできたらいいな。
おいしいごはんを食べたいな。

147 :ぷるぷる :2000/03/17(金) 00:44
ここを読んでいると、涙が流れてしょうがありません。
食べ物って一番身近なもんだから、みんないろんな思い出があると思います。
じゃあ、俺もひとつ。
父が自分で作った、前の晩から水に浸していた大豆をミキサーにかけて
煮ました。それを煮てみんなで綿の布でこしました。
それから、わざわざ沖の海から汲んできた海水を入れるとおぼろ豆腐になりました。
それに塩をかけてみんなで食べたのを覚えています。
父はもういませんが、美味しいものを子供に食べさせようとしていたんだと
思います。感謝です。


148 :明日もキャベツ・・・ :2000/03/17(金) 01:30
親元を離れてしみじみ思ったこと。

親はいつも子供を心配していて、あらゆることに直接首をつっこんでは
こないかわりの間接的な愛情(心配)表現として一番多いのは食事のことでしょう。

大人の年齢になった自分が、大学で遠く離れた地域にいる妹に
宅配便として送るものがそこいらのコンビニで買えるような
食べ物類ばかり・・・。
親と同じ行動をしていた。

そういう私も親に食べ物をよく送ってもらうんですが、
一人暮らしの私にかぼちゃ7個・キャベツ3個・白菜2コ・大根2本は
ちょっと食えんわ(笑)、おかん。
腐らしたら捨てればいいっておっしゃるけどね、せっかく送ってくれた
あなたの「きもち」を捨てる気がして捨てれないのよね〜。
だから送ってくれたその日から当分、3食白菜食ってるときあるよ(笑)

しかし、すばらしい、すばらしい、このスレッド。
日々の生活で汚れがちな心の洗濯ができるよ。
ずっと残っててね、ココ!

149 :名無しさん :2000/03/17(金) 02:30
>56,110さん
きのう、お昼休みに八丁堀をぶらぶらしてて
青森物産センターってとこに入ったんです。
そしたら、どうも遠野さんのおっしゃってる
謎の食べ物はこれじゃないかなってのがあった。
それは、ズバリ「干し餅」。
ラベルには、四角い白いのを藁でくくって
軒先に吊るしてる絵が。
食紅をまぜこんで筋模様をつけたり、あろうことかバターで!風味を
つけたりと、いらんことはしてあったものの
味は、さくさくしてうす甘く、ほんと、パイみたいにこぼれる。
腰の弱いおかきというか、なんか、遠野さんの説明と
符合するとこがすごく多いものでしたよ。
違うかなー。


150 :K子 :2000/03/17(金) 03:03
小さい頃。お父さんが日曜夜はお好み焼きを焼いてくれた。
すごくはりきって、「K子、たくさん食べや」って言って、
焼き方、材料、鉄板にまでこだわって。美味しいもの私に食べさせたかった
んだろうな。

それなのに「お父さんはちゃんと育てられてないんや。悪いけど両親から
下品に育てられてるんちゃうの?」
なんて食べ方のささいなことで言ってしまった。悲しそうな顔してたお父さん。
戦争中、疎開先に親が迎えに来てくれなくて、ひとりですごく遠いとこから歩いて
帰ってきた話も知ってる。いいもん食べさせてもらえなくて身体小さくていじめられたから、
娘にだけは小さい頃からおいしいもの食べさせようとしてくれてた。

あんなことどうして言ってしまったんだろ。
自分が許せない。ごめんなさいって言いたかった。もう遅い・・・。

151 :黄金飴 :2000/03/17(金) 04:01
昔、自分が小学校卒業したあとに、自宅を新築することになり、
少し離れた場所の借家に移り住んだ。
その頃によくなめていた黄金飴という飴を食べると、
その頃の思い出が甦ってきます。
中学校の入学式の次の日は休みだと母に言われて休んだら、
担任から電話がかかってきてびっくりしたこと(母の勘違いだった)
冷暖房がなくてつらかったこと。
しきりがなくてストレスがたまったこと。(1人Hがやりにくかった)
ゴキブリがでてこわかったこと。
母方の祖母と父親がケンカして父親が自分の両親の家に行ってしまい、
何ヶ月か別居していたこと。
などなど。
そして半年以上が経過して無事、家は完成し、家族は新しい家に引越し
した。その後その借家は取り壊されて、駐車場になった。
高校生の頃に同じ黄金飴を食べてみたらば、
中学に入りたての思いでがぶわーって広がってきて、
とても切なくなりました。


152 :>150 :2000/03/17(金) 06:18
号泣。
俺もオヤジの作ってくれたこげた卵焼きまずいなんて言わなきゃ良かった。
食えば良かった。今親になってあのときの親父の気持ちわかるようになった。

153 :明るい田中麗奈 :2000/03/17(金) 09:36
>150 泣ける。普段かまってやれない分反省してはりきりすぎて娘にカウンターを食らう父親の悲哀がよく伝わってきます。

>145 おまえもな。

(ナインハーフも1985年製作のようです。従って、どちらかが他方をぱくったということはなさそうです)

154 :>148 :2000/03/17(金) 10:59
その「きもち」、すごくわかります。

一人暮らしを始めてもう4年。今でも、たまに実家から荷物が届く。
みかんの絵のダンボール箱の中身は、
おせんべい、チャーハンの素、レトルトカレー、豚肉こま切れ3パック、りんご1袋などなど。
荷物が届いたのを見計らったように実家から電話が。
「ごめんね、なんか取り留めのないもの送っちゃって…」と謝る母。
「あんなに肉食べきれないよ」とか、「レトルトカレーならいっぱいあるのに」とか強がってみる。
すると母は必ず、取り繕うような口調で「冷凍しとけば」「いっぱいあっても困らない」とか言い訳を始める。

でも、取り留めないものでも、送ってくれた「きもち」が嬉しい。
「ありがとう」、なかなか言えないけど、今度、言ってみるか。

…食事の話じゃないですね、すみません。


155 :名無しさん :2000/03/17(金) 12:50
ココいいね・・・・
2CH暦半年位だけど・・・
こんなにいいスレッドは初めてみたよ!


156 :!WU? :2000/03/17(金) 12:56
おなかすいた、でもなにもないや、、、と思った瞬間に思い出すのが、おかんが送ってくれたインスタントラーメン。
普段「インスタントなんて食べると身体壊すよ!」って言ってるのに、なぜか送ってくる荷物の中には必ず入ってる。
きっと自分のものぐさな性格を見抜いてるんだろう。
茹でただけのラーメン、具もないラーメン。
だけど送ってくれたおかんの顔を思い出すと、おいしく食べられるんだから不思議なもんだ。
母の日にはおいしいもんでもこっちから送ってあげたいな、と思う。

157 :けん :2000/03/17(金) 17:35
うぅっ!なんて仕事効率を落とすスレッドなんだ。
少しずつ読まないと大泣きしてしまう。
俺の仕事はどうでも良い!(2ちゃんを見てる時点でもうダメだが)
続けてくれ!感動を!!


158 :マヨラー :2000/03/17(金) 18:24
えーと、子供のときに両親が別居していて
私達姉妹は母と一緒にに暮らしていたのですが
別居して2年目に父が東京から私達に会いに来てくれたのです。
3日ほどですが一緒に過ごすことができました。
父はその時の夕食の為にマヨネーズを作ってくれました。
私と姉も手伝って・・妙にはしゃいだのを覚えています。
とってもたくさんのマヨネーズができました。
その味はなんとなくしか覚えていないけれど
手作りマヨネーズと聞くと今でも胸がジンジン痺れます。
あれから両親が離婚して17年もずっと連絡とれずにいるのですが・・

とにかく、それから私はマヨラーです。
下手な文ですいません。


159 :名無しさん :2000/03/17(金) 18:45
>158
お父さんと連絡・・・いつか取れるといいですね。
私も両親が離婚してお父さんと連絡取れない状況ですが。
きっとお父さんもそのマヨネーズの味、思い出す事
あるんじゃないかなぁ。


160 :名無しさん :2000/03/17(金) 19:24
>明るい田中麗奈 さん
だれかが共感してくれのは、いいことだと思う。
だから続けてくださいね。

私の中にも、何か話があるのでしょうけど
思い出すのが恥ずかしくて出てきません
いつか出てきたら書かせていただきます。
こういうスレッド他でも作ったらいいね。
「思い出に残る●●シリーズ 感動編」

161 :名無しさん :2000/03/17(金) 23:47
このスレッドは大好きなんだけど、
145の言うように明るい田中麗奈って人が雰囲気を壊してる。
なに仕切ったつもりになって無駄レスつけてるの?
それと、お願いだから改行ぐらいしてください。

お前もな、っていちいちレスつけなくていいよ。
私は前にネタ書いたら今回は文句だけ、明るい・・さんもネタは良かったけどね(笑)

162 :名無しさん :2000/03/17(金) 23:51
なんで食べ物のはなしで
こんなに面白いのかはふしぎですね〜

食べ物が人と人とを結んでいる部分が
あるのは知っているけど…これほどまでとは。

中国では毎食絶対、家族と食べるという話を思い出しました。
昼、子供は学校から家に帰ってくるらしい。
(みんながみんなという訳ではないと思うが…)

それほど大事という事らしい。(何を置いても食が一番)


加えてもう一言、、、「2ちゃんも、捨てたもんじゃないじゃん!」

163 :名無しさん :2000/03/17(金) 23:55
親しくなりたい人を食事に誘う訳が分かった気がする。

164 :名無しさん :2000/03/18(土) 01:15
いつも田舎のおばあちゃんは仏壇に毎朝炊き立てのご飯を
供えるのが日課でした。夕食にはいつもその日の朝に供えた
ご飯を食べていたそうです。僕が物心ついた頃にはカチカチの
ご飯を食べるのが辛い年になってしまい、お茶漬けにして
「ごはんですよ」を混ぜて食べていたのを覚えています。
そんなおばあちゃんが5年ほど前に事故で死んじゃいました。
買い物の帰りだったらしく、買い物のビニール袋の中に
傷だらけの「ごはんですよ」が入っていました。
お葬式も終わって、家族みんなでその「ごはんですよ」で
お茶漬けを食べました。涙がいっぱい、いっぱい出ました。


165 :嫌なガキだった :2000/03/18(土) 02:47
小学校の卒業記念に、両親はイチジクの苗を買って植えてくれました。
父と二人で、成長するのを楽しみによく木を眺めたものです。
それなのにいざ実がなって父がジャムを作ってくれると、そのジャムが
なんだか汚いような気がしたんです。鳥がつついたかもしれないし、
虫だって食べたかもしれない。それに父はジャムなんか作ったことは
ないはず、そういったくだらないことが理由でした。
結局私はほとんど食べませんでしたが、そのうちに引越しが決まって
木は切られてしまいました。今なら無農薬手作りジャムの良さも
わかるし、木を大事にしていた親の気持ちもわかる・・・。

166 :名無しさん :2000/03/18(土) 03:02
彼の家に初めて遊びに行った時の事。
私の大好物の生麩を彼のお母さんが出してくれたので
ちょっと感激しながら1口食べたら、生麩の中に髪の毛が入ってた。
「うわっ!!」と思ったんだけど、そんな事言ったらわざわざ京都まで
買出しに行ってくれたお母さんに申し訳ないし・・・。
ここは根性の見せ所だ!と涙ぐみながらにっこり残さず食べた。
その後彼とは結婚しましたが、お義母さんは未だに
「あんなに感激してくれて、私も涙出ちゃったのよ〜」
と言ってくれる優しい人です。


167 :スイカジュース :2000/03/18(土) 03:51
まだ私が高校生だった頃、父の田舎に帰ったときに、
おじいちゃんがスイカジュースを作ってくれた。

おじいちゃんは呆けてて、ミキサーにスイカの皮まで入れて、
茶色いスイカジュースが出来上がってしまった。
それを、私に「飲め飲め」と進めた。
おばあちゃんも、両親も「そんな物飲まなくて良いよ」と言ったが、
私のために、畑で重いスイカを採ってきて、一生懸命作ってくれた
おじいちゃんに申し訳なくて、一気に飲み干した。
「美味いか?美味いか?」と何度も聞くおじいちゃんに、
「うん、美味しかったよ」と、何度も嘘を付いた。

数年後、癌で亡くなったおじいちゃんのお通夜に出席した。
「いやー、成仏してくれて、清々したわ〜」と、
どんちゃん騒ぎする親族を後目に、私は一晩中おじいちゃんの側で、
「スイカジュース、ほんとに美味しかったよ」と言い続けた。

あの青臭い、苦いスイカジュース。
今でも味を覚えてます。

168 :お好み焼き :2000/03/18(土) 04:22
それは叔母がホスピスに移る少し前のこと。
叔母は乳癌が再発して肺に転移し、余命数ヶ月と言われていました。
遠くの大学に通っていた私は、帰省したときに叔母を見舞いに行きました。
叔母はこの時すでに告知を受け、病院を離れ、実家に戻っていました。

私が訪ねたとき、叔母はときどき咳をしつつ、お好み焼きを作っていました。
思い残すことがないように、食べたいものを食べておくのだと。
「○○君もどう?」 私の分も作ってくれました。
そのお好み焼きは本当に美味しかった。でも、
(あと数ヶ月でこの人はこの世から居なくなってしまうのだ。四十代の若さで)
そう思うと、悔しくて、悲しくて、胸が詰まってしまい、
私はほんの数口しか食べられませんでした。どうしても食べられなかった。
ごめん、さっき家で昼ご飯食べたからと言い訳すると
そう、と叔母は寂しそうに笑いました。

結局、これが今生の別れになってしまいました。
叔母を偲び、時折お好み焼きに挑戦することがありますが
どうしても、あの味には到達できません。
あのとき、自分も作るのを手伝ったのですが…
無理をしても全部食べておくのだったと、今でも悔やまれてなりません。

169 :へちま化粧水 :2000/03/18(土) 07:00
みなさん、いいお話で、こんな朝から電車の音を聞きながら
ちょっとうるうるです。

私のは「いい話」じゃないけど・・・
彼とつきあって、初めてお泊まりした次の日。近所のイトーヨーカ堂で
二人でお買い物をして、「なんだか肉が食べたい」という彼のために
ステーキを焼いてあげよう、と思いつきました。
そう思って当時お金持ちだった(浪人中のバイトとかで)彼は
けっこういい肉をぽんとカゴに入れて、アパートに帰り、
わたしはごはんを作ってあげることにしました。
なにかステーキソースになるものぐらいあるだろうと思ってたけど
ひとり暮らしを始めたばかりの彼の部屋にはなんにもなくて、
サイコロステーキを焼いて、そこにおしょうゆをじゃーっとかけて
それを出しました。実家でよくやっていて、けっこうおいしいんですよ。
(強火でジャッとしょうゆをやるのがポイント)

彼はおいしいおいしい、って全部食べてくれて、どうやって作ったの?
って言いました。おしょうゆだけ、って言ったら、すごく感心してくれて
あとになって言うには「この子がいい」って、その時に思ったそうです。

いまでも彼は「ああいうのが食べたい」と言いますし、よく作ってあげるのですが
なかなか思い出の味、というものにはならず(笑)、「ちがう!」と
文句を言われます。でも、かならずおいしかったって残さず食べてくれる
彼のことが、私は大好きです。
実際私は、ステーキとか、いわゆる洋食より煮物を作ることが多く
彼も私の鶏じゃが、ブリ大根なんかを食べることのが多いです。
でも、「お前が作るめしばっかりで、他の煮物を食べるとなんか違う、って
いつも思う」って言ってくれて、なんかうれしいような、くすぐったいような。
昨日ケンカして「あなたのそういうのが大嫌い」って言っちゃったけど、
ホントは世界で一番好きです。ごめんね。

170 :へちま化粧水 :2000/03/18(土) 07:10
ああ、長いしつまらない話を書いてしまった・・・

つきあってはじめての彼の誕生日に、ケーキを買おう、と思い
ふたりだけだし、とチョコレートケーキのちいさいのを買い、
お祝いしました。
そしたら、彼が「これじゃやだ」と言い出し、ケンカしました・・・。
彼がいうには、実家ではケーキを買って、なんてお誕生日はやらずに
大きくなったので、「白くて」「丸くて」「いちごがついてて」「チョコの
おめでとうプレートが置いてある」「ロウソクの立った」ケーキが
欲しかったそうです。子供だ・・・
とりあえず、次の日にご希望どおりのものを買って、無事にお祝いしたけど
でもケーキ屋さんでいかにもバースデーケーキフルコース!ってのを
頼んでおいて、「ロウソクは何本に?」って言われて「20本で」って
お願いするの、恥ずかしかったです。「は?」「ごめんね、20本ください」って。
いまでも彼のぶんのケーキはかならず白いやつです。絶対です。




171 :二流サラリーマン :2000/03/18(土) 11:07
ギャンブル好きな父は、幼稚園に入ったばかりの僕の手を引き、
よく、日曜日、横浜桜木町の場外馬券売場に足を運んだ。
けれど、レースをするのはいつも途中まで。午後になると必ず
桜木町の駅に戻り、当時あったミルクスタンドで、
ホットドックを買って、僕に与えた。
ケチャップの甘辛い味と、やわらか歯ごたえが好きだった。
口の周りをケチャップで赤くした僕の手を引きながら、
いつも父の足は横浜港へ向かった。
空飛ぶカモメと港を行き交う船を見ながら、
港湾労働者だった自分の仕事を話をたくさんした。そして、
いつも最後は「この港が大好きだ。この港を支えるような大人になれ」
と僕の肩を掴んだ・・・。

あれから25年。期待にロクに応えられない息子で申し訳ない。
ギャンブルも酒も好きで、小さいアパート暮らしだったけど、
最後はマンションまできちんと買った。オレより遙かにしっかりしてる。
この間、風呂上がりに見た父の足のスネが、筋肉隆々だった面影もなく、
本当に細くなっていたのに驚いた。
ごめん、これから、もっと頑張るよ。

172 :独歩さん :2000/03/18(土) 11:53
このスレッド読んで、昼飯前にひと泣き。ぅぅぅ。

173 :ぷるぷる :2000/03/18(土) 11:59
>独歩さん
私も潤潤しっぱなしです。
良いスレッドですね。


174 :名無しさん :2000/03/18(土) 17:30
あげ。

175 :名無しさん :2000/03/18(土) 18:58
10年程前、当時高校生だったTとオレとで山登りをした。
登山といえるほど本格的なものじゃ無いけど、テントを担いでいって
一泊の予定。
夜になり晩飯にはお約束のカレーを作って食った。頂上までは後少しだったし
荷物が重くなるのが嫌で食料はあんまり持ってきてなかった。
「とっとと寝て朝早く出発しようぜ。」
夜中になって自分達の甘さを思い知らされた。
春だから軽装にしたがその寒い事寒い事、とても寝てられない。腹も減ってくる。
歯をガチガチ言わせながらお互い泣きそうになってたらTがカップラーメンを2つ
持ってきたのを思い出した。周りから急いで木を集めてきて火をつけてお湯を焚いて
カップラーメンを寒さに震えながら食った。そのうまい事うまい事。
白い息を吐きながら「んとに美味いなぁ、今世界中でカップラーメンを一番美味いと
思って食ってんのは間違いなくおれ達二人だけだなぁ、はは」
ゲラゲラ笑いながら一気に食った。結局眠れずに色んな話をしたけど合間に「カップ
ラーメンを一番美味いというおれ達だけどな」なんて冗談を言い合ったりした。ゲラ
ゲラ笑いながら一晩中。ホントににうまかったんだよ。

卒業後の進路もバラバラで余り連絡もしなくなってた頃、Tが自ら命を絶ったことを
聞いた。理由はわからないし聞きたくも無かった。葬式には出れなかったけどTには
こう言ってやりたかった。
「馬鹿やろう。世の中にはカップラーメンよりももっともっと美味い食べ物が一杯あ
 るんだぞ。」

176 :まい :2000/03/19(日) 02:34
末の弟が幼稚園の頃、兄弟3人でパイナップルを
並んで食べていたら父が急に泣き出した事が
ありました。

私の父の父(私の祖父)は、終戦の前後、ある都市の
捕虜収容所に勤めていたそうです。
時々アメリカ軍の飛行機が飛んで来ては、毛布や
缶詰などの物資を落下傘で収容所の近くに落として
行くのだそうです。
もちろん、収容所に勤務するものがその物資に
手を付けるのは御法度でしたが、祖父は決死の
覚悟で(見つかったら、半殺しの目にあったとか)
パイナップルの缶詰を持って帰り自分は一口も食べる事無く、全部を7人の子供に
食べさせ、それをにこにこと見守って見ていたそうで
父は、当時、末っ子で5歳、「親父は、どんな
気持ちで、わしが食べるのを見てたのかと
思うと胸がつまる。」と、ぐっと来たそうです。
もともとからだが丈夫でなかった祖父は、3年後
結核で亡くなりました。

で、父の還暦のお祝いに親戚が、集まったとき
ちょっと、いたずら心が働いて
パイナップルの缶詰を、叔父や叔母達に出して
「お父さんたら、泣き虫で、これ見たら泣くしかなんわ」
と、祖父の話に水を向けると、兄弟皆が泣き出して
しまいました。「あんなに、ぼこぼこにへこんだ
缶詰を抱えて走ったお父さん、どんな気持ち
だったんだろうね。」とか、「学校に行って友達に
自慢したくても、お父さんに口止めされてたから
できなかったのよ」と口々に想い出話が、出ましたが
人の大切な想い出を、汚してしまったようで少し
後味が悪かったです。
ごめんね、お父さん。大切な想い出に、いたづら心なんか働かせて
と、すごく反省しました。

177 :名無しさん :2000/03/19(日) 04:20
何か、何かです。。。。
涙がいっぱいです。。。

178 :名無しさん :2000/03/19(日) 09:00
はじめて文章で泣いた。
ココっていいとこなんだと今気付いた。

179 :名無しさん :2000/03/20(月) 02:31
おあげ

180 :名無しさん :2000/03/20(月) 09:37
あげ

181 :名無しさん :2000/03/20(月) 13:03
朝から夜まで働き通しだった母が忙しい時間の合間を縫ってつくってくれていたものだ。
そんな事はすっかり忘れていた一昨年、私は離婚して一人、今は母だけになった実家に帰った。
自暴自棄になり仕事も辞めていたから、実家で数日を過ごした。
毎晩黙って酒をあおる私を母は何も言わず、早く寝ろと促すだけで先に眠っていた。
ある日、昼過ぎまで寝ていた私が台所で酔い覚めの水を飲むとテーブルに何かあることに気付いた。
作り置きの冷えたオムライス。
メモがあって「用事があって出かけるから、これ食べなさい。」と書いてあった。
私はラップを剥がして、静かにオムライスを食べた。
懐かしさと、切なさと・・・色々な感情がまじって湧き出し、オムライスはしょっぱくなった。
私はその日、帰京する支度をして、また一からやりなおすと母に誓った。
今はまだ一人だけど、淡々とそれでも楽しく生きている。

口に出して言えないけれど……
お母さん、私は永遠にお母さんの息子です。
ありがとう。

近い内に、また帰省します。


182 :181 :2000/03/20(月) 14:40
書き込みミスりました・・・。

小学生の頃、一人っ子で、鍵っ子だったぼくの土曜日の昼食は冷えたオムライスだった。
毎週といっていいほど、ケチャップをつけてラップをかけたオムライスだった。
朝から夜まで働き通しだった母が忙しい時間の合間を縫ってつくってくれていたものだ。
そんな事はすっかり忘れていた一昨年、私は離婚して一人、今は母だけになった実家に帰った。
自暴自棄になり仕事も辞めていたから、実家で数日を過ごした。
毎晩黙って酒をあおる私を母は何も言わず、早く寝ろと促すだけで先に眠っていた。
ある日、昼過ぎまで寝ていた私が台所で酔い覚めの水を飲むとテーブルに何かあることに気付いた。
作り置きの冷えたオムライス。
メモがあって「用事があって出かけるから、これ食べなさい。」と書いてあった。
私はラップを剥がして、静かにオムライスを食べた。
懐かしさと、切なさと・・・色々な感情がまじって湧き出し、オムライスはしょっぱくなった。
私はその日、帰京する支度をして、また一からやりなおすと母に誓った。
今はまだ一人だけど、淡々とそれでも楽しく生きている。

口に出して言えないけれど……
お母さん、私は永遠にあなたの息子です。


183 :名無しさん :2000/03/20(月) 23:10
これがあげずにいられるか!(T_T)/

184 :名無しさん :2000/03/20(月) 23:17
だめ人間だもの・・・・・ミトゥオ

185 :みなさんが羨ましい :2000/03/21(火) 00:23
色々あっても、暖かい家と、食事を作ってくれる暖かい人。
そしてその思い出。

私には、はじめから与えられませんでした。
だからここ読んでいると、羨ましくて、自分が惨めで、涙が溢れます。
みなさんが羨ましい。

186 :名無しさん :2000/03/21(火) 01:52
相変わらず泣けますね。このスレッド。
感動した人、ここに投票しましょう。
1人でたくさん入れたいけど、このスレッドを見た後ではなぜか出来ない。
1票ずつ入れましょう・・。
http://www9.freeweb.ne.jp/computer/nich/cgi-bin/enqsp/enqsp.cgi?

187 :186 :2000/03/21(火) 01:58
あれれ、クリックしただけじゃいけないですね。
ブラウザのアドレス入れるとこにURLを直接コピーすればいけるみたいです・・・。

188 :ANA :2000/03/21(火) 04:10
眠れなくて、なんとなく覗いたら感動しました。

私の食べ物の思い出は、今から10程前の事ですが、
そのころ付き合っていた彼女との思い出になります。

遠距離恋愛でもあり、彼女の母親にあまりよく思われてなかった
私ですが、正式に結婚のお願いを彼女の両親に申し込みに行きました。
当日、緊張で朝まで寝れなかったのに、
「ちょっと休憩。」と思いうつらうつらしてたら、電話が鳴って
ハッ!!としたらもうお昼!(大バカですね(笑) )
大急ぎで彼女に実家に約束の8時間遅れで行きました。

色々と経緯があり、彼女のお母さんに私は好かれてなかったのですが
とても沢山のご馳走を用意していててくれました。
「男の人だから沢山食べて!!」との事でしたが、、悲しいかな
私は学生時代、減量のあるスポーツをずっとしていたので
胃を小さくする(大量に物を食べない)食生活と習慣が身についてて
女性並みの食事料で腹いっぱいになるんです。それに貧乏性なのか
箸をつけて残す という事が嫌いなんですよね(駄目ですね〜。)

「結婚させて下さい。」の返答は「もう少し考えさせて欲しい。」
との事でした。


189 :ANA :2000/03/21(火) 04:31
駄文で済みません!(続きです。)

後で彼女から聞いたのですが、彼女の母親にやはり良い印象を与えられなくて
いわく「男の人の癖に、小食で線が細いね(筋肉質なんですが、(T.T))」
「男の人は豪快なぐらい食べる人がいい、神経質じゃないの?」
と言われたそうです。

それから、1年後色々有って結局彼女とはお別れとなっちゃいました。
4年前、彼女が結婚すると聞き、お祝いするわけにもいかないので
共通の友人に頼んで、その友人からということで3万円分の
彼女の好きだった花を送りました。

彼女には悲しい思い出しか作ってやれなかった悔しさが今でも
フッと頭をよぎります。幸せになってて欲しいなと思ってます。

私は相変わらずの小食ですが、それ以来は
沢山の食事を出されたときはトイレで隠れて吐いてでも(汚くてすみません。)
食べるようにしてます。折角作ってくれたご飯に対して申し訳ないと
思うんですが、「好意には相手の喜ぶように」と思うようにしてます。


190 :>189 :2000/03/21(火) 04:53
少ししか食べれないとわかっていたら、
その少しでも「おいしい」と食べてくれたら喜ぶ人は
たくさんいるよ。今日からもう無理はしないで下さいね。
それにムリしてたってわかったら、悲しがる人もいるから。
あえて、正直に言う勇気も持って!

191 :ANA :2000/03/21(火) 05:25
>190

  ありがとう。

192 :名無しさん :2000/03/21(火) 05:56
いい話しばかりですね・・・

わたしの両親は6才の時に別居し、10才の時に離婚しました。
でもわたしが幼稚園の年少組の時はまだ両親が仲がよくて
日曜日の夜には、いつも2人で晩酌をしていました。
わたしは9時には布団に入れられるんだけど、晩酌の仲間に入りたくて
のどが渇いた、とか、トイレ、とか理由をつけては起き出し
おつまみを食べさせてもらっていました。
ちくわチーズとかサラミとか、たいしたことないものなんだけど
仲間に入れてもらったのがうれしくて
次の日いつも妹に自慢してました。
いまでもおつまみを食べると思い出してしまいます。

193 :192 :2000/03/21(火) 06:08
もう一つ思い出したので・・・

小学校に入った頃から両親の仲が悪くなり、父がほとんど帰って来なくなりました。
ある日、久しぶりに帰ってきた父と母が大喧嘩をし
母が夜中に出ていってしまいました。

不安でわたしも起き出したのですが、なんとなく
ケンカのことは触れてはいけないように思い
「おなかすいたんやけど・・・」と父に話しかけました。
しかし「こんな夜中になにゆうてんねん。さっさと寝ろ」と怒られ、
「なんでママが出ていったん?パパなんかキライや、パパが出ていけばよかってん。」
と言い捨て、布団に潜り込んで泣いていました。

しばらくすると、なにごともなかったように父が部屋にやってきて
「ラーメンと焼きそば、どっちがいいんや?」
と聞きました。
泣きながら「焼きそば」と答え、父と2人で夜中に台所で
鼻をすすりながらUFOを食べた思い出があります。

駄文でごめんなさい。

194 :名無しさん :2000/03/21(火) 08:18
おじいちゃんがぼけてしまって、もう何年もたつのですが…
戦争中、炊事担当だったこともあって、よくいろいろつくってくれた
ものです。なかでもにゅうめんがとてもおいしかったのですが、つくり
かたがいまだにわかりません。なすがはいってて、汁気のないどろっと
したやつです。誰かつくりかた知りませんか。
(ちなみに祖父は富山の人です)

実家はどいなかなのですが、高校時代、帰りがおそくなるといつも
おじいちゃんが自転車で駅の前で待っててくれました。でも私は恥ずか
しくて、無視してさっさと早歩きで帰ってた。おじいちゃんはそのあと
からだまってゆっくりついてきてた。
小学校のころは、学校から帰ると冬はストーブの前でパンをやいたり
豆をいったりしてくれたものです。
おじいちゃんはおばあちゃんよりも背も低くて、戦争のために耳も遠くて
ほとんどしゃべらない、私が朝食のとき新聞を独占してしまうのでずっと
チラシをながめてるような人でした。
もう私のこともわかりません。ゆうごはんのときになにかしたくて台所を
うろうろして、ちゃきちゃきのおばあちゃんにいつも怒られてたことを
おもいだすとなつかしいです。

195 :名無しさん :2000/03/21(火) 12:01
>194
おじいさん、大切にしてあげてくださいね。
このスレッドでよくあるように、亡くなってしまってから、
後悔しないように。

196 :名無しさん :2000/03/21(火) 12:30
うちの4年前に亡くなったおじいちゃんも、
最後の何年かはぼけていてとても悲しかったなあ・・・
仕事の関係で海外にいたので最後に会ったのは7年前でした。
仕事と酒にしか興味が無い祖父でしたが、私とは仲が良かったので
子供のころから一緒にいることが多かったでした。
最後に会ったときは、もう呆け始めていて、とても残念でした。
極度の出不精だった祖父でしたが、私が海外へ行く時は、
わざわざ空港まで来てくれました。 その時、空港の喫茶店で最後に
祖父が飲んでいたクリームソーダは私が注文したものですが、
そんな呆けてしまって子供のような祖父を見ていると、
私は何も言えず、ただとても悲しくなりました。
いまでもクリームソーダのあの緑色を見ると、
祖父のことを思い出します。

197 :名無しさん :2000/03/21(火) 14:20
圧力鍋とこのスレッドは本にしてほしいなあ・・・。
このスレ読んで泣きそうになったら圧力鍋へ(笑)
っていうか、いい板だよね、「食べ物、料理」ってさ。

昨日まである事ですごく落ち込んでいたけど、
なんか、元気になれました。

198 :>194 :2000/03/21(火) 14:51
「茄子が入ってて汁気のないどろっとしたにゅうめん」
実家が金沢なんですが、母がよく作ってくれました。
多分そうめんをゆがかずに乾麺のまま鍋に入れてたんだと思うけど…。
今度聞いてみますね。


199 :名無しさん :2000/03/21(火) 23:58
小学生の頃、塾の帰りが遅くなったとき
同じクラスの男の子が自転車で追いかけてきて、
「先生が送っていけってゆーから」と、つまらなそうにいい
私の家まで一緒に、自転車を押してついてきた。
途中、彼は私に「おごりだからな」と
つぶつぶオレンジを買ってくれた。
彼はいつもバカなことや、私を怒らせるようなことをいうのに
このときは、家に着くまで一言もしゃべらなかった。
私は、そのいつもと違う様子にどきどきして、
ジュースばかり飲んでたんだよな。
みょーにのど乾いてたりして。
異性を意識したのってこれが最初かもしれない。

今も恋人にジュースを買ってもらうと
この時のことをちょっとだけ思い出す。


200 :名無しさん :2000/03/22(水) 00:25
>199 いいな、いいな〜。とーぜん男の子の方も意識してるんだよね、
それって。

201 :匿名希望 :2000/03/22(水) 00:54
ここはホントに泣ける話ばかりで(T_T)
駄文ですが自分の話もひとつ。

今から15年前。小学校6年の5月。当時オヤジの仕事の関係で海外に住んでたんよ。
当時、駐在員同士で母親連中が集まっていろいろ食事を作って晩にパーティーなんぞ
開いてた。親父連中は朝早くから遠い海辺の町へ新鮮な魚を買い付けに。
でかいカジキをうちのオヤジが見事にさばいたりしてたなぁ。
子ども心にオヤジかっこええ!と感じてた。
で、その時は手巻き寿司パーティーだったな。「納豆」があってびっくりした。
なんで「納豆」がこんな遠い異国の地に?と思いつつ、食ってたんだな。
日本から新しく来た人が納豆菌を持って来てくれてたらしい。
ところが、その「納豆」のおかげで翌日に頭フラフラして・・・
なんと腸チフスにかかった。すごい高熱が何日も続いて、必死になって母親が看病して
くれた。いやあんまり覚えて無いんだ。とにかくずーっとそばにいてくれて
冷たいタオルと水分を切らせないように必死に冷たいお茶を作ってくれてた。
汚い水道水を煮沸して氷をたくさん作ってたらしい。
ともかく1ヶ月にわたる闘病生活で俺は10kg痩せ、なんとか回復した。
「あぁ、生きてるんだ」とその時に生まれて初めて感じた。
当時ちょっとひねてた俺はそれほど母親に感謝もしなかったように思う。
もっとあの時に感謝すれば良かった。
母親はその9ヵ月後、俺が小学校を卒業する2週間前、伝染病らしき脳炎で
37歳でこの世を去った。

今でも「納豆」を食べると厳しかったが優しい母親を思い出す。
ありがとう、かあさん。少し遅くなるけど、今度、墓参りに行くね。


202 :194 :2000/03/22(水) 01:40
>198
そうか、ゆがかずにつくってたんだ。ありがとうございます

203 :そういえば50年前・・・ :2000/03/22(水) 05:47
結核で死ぬ前に食べた甘納豆うまかったなぁ…

204 :バッカーです :2000/03/22(水) 10:07
>203
誰だよ

205 :自分の話 :2000/03/22(水) 11:24
じゃなくて悪いんだけど、もう十五年ぐらい前の話。早稲田の教育学部
に岡村っていう教授がいて、「道徳教育がどーたら」という、教職をとって
いる者には必修の課目を教えておられました。その中で、生活保護をうけていて、
本当に貧しかった母子家庭の話が出ました。その母親は、家庭訪問の日、
先生が来るから、というので、自分の食事を削って羊羹をおやつに買って
おいたそうなんです。ところが、その先生は家庭訪問の間にその羊羹を食べ
なかった。そのまま帰ろうとしたので、母親がその羊羹を包んで、「是非
お持ち帰りください」と渡したらしいんですよ。教師はそれを受け取った
のですが、家を出て数メートル行った所のごみ箱にあっさりとそれを捨てた
そうです。その羊羹を後で母子が見つけて、はらはら涙を流した・・・っていう
話だったんですが、岡村教授の結論は「こういう人間は教師になる資格は
ない」ということでした。いやー、その話、うちも激貧だったもので、
本当に胸に響いたんですよ。大きな階段教室だったんですが、泣けて泣けて
仕方なくて、途中で退室しなければならなくなってしまいました。
岡村先生、どうしておられるんでしょう。結局私も教師になりました。うち
は家庭訪問なんてありませんが、あの先生のお話、今でもしっかり覚えて
います。泣き出しちゃって本当に申し訳ありませんでした。

206 :名無しさん :2000/03/22(水) 13:59
このスレッドの書きこみで一本番組作ったらどうだい>テレビ局関係者

207 :>205 :2000/03/22(水) 14:09
似たような話が「人間交差点」というマンガにありました。マンガの
ほうは羊羹ではなくぼたもち(あんころもち?)だったけど。
読んだときは泣けました。思い出したので、ちょっと書き込みを。

208 :名無しさん :2000/03/22(水) 15:27
>205
あの、うちの両親は教師なのですが…
家庭訪問などのときにお菓子を食べるのはいけないことなんですよ。
ルールとしてということもあるし、全部のうちで気つかって食べてたら
おなかこわしちゃうから。だから、生徒側も、出さないか、カタチだけ
とわりきるかにしないと。
…と、いうような話じゃないか…その親子の気持ちはいたいほどわかり
ますけど。その教師のいけないのは、みつかる可能性のあるところで
捨てたってことなのかな。もってかえらないと
いずれにせよ、最近ではイナカでも教師は聖職というかんじはないので、
もうこんなこと(自分の身をけずってまでも先生におもてなしする)は
ないんでしょうね。以前はうちにもお中元やお歳暮がやまほどきてまし
た。今はあまりない、いいことだとおもいます。

209 :名無しさん :2000/03/22(水) 16:53
>208
教師の家は、お中元、お歳暮は親戚以外の物は受け取れなくて、
子供は何となく恨めしく思うものですよねー。
下らない話ですが、カルピスを持って生徒さんの親御さんが、
大学入試に合格したお礼にといらしたとき、
父親が玄関で、まだ在学中の教え子のうちから贈り物を貰うわけにはいかないからと
断っていたのですが、滅多に飲めないフルーツカルピスが入っている箱を
見てしまった私たち兄弟は、引き戸一枚奥なだけの台所で、
「かるぴすーかるぴすー、ほしいよー。」と、大騒ぎをやらかしたのです。
なんとか、親御さんに引き取っていただいた父は、恥ずかしさと怒りで
顔を真っ赤にさせて、「お前らみたいな恥ずかしい子供はうちの子供じゃねぇ!」
と怒鳴り、自分たちをぶん殴ったのでありました。

その後、何週間か後だと思いますが、なぜかうちにカルピスがありました。
年度替わりのご挨拶で出入りの業者さんが職員室においていったものを
父が貰ってきたという記憶があります。
母は、「学校の先生は、絶対にものを貰っちゃ行けないのよ、わかった?
買えなくても、こうやって気にかけてお父さんもって帰ってくれたりするんだから、
欲しい欲しいと騒いじゃ駄目なんだからね。」といいながら、
カルピスを作ってくれました。

親御さんからは、ものを貰っちゃ駄目だという事だけど、
卒業した生徒さんが就職して自分の給料でおみやげ買って
年末年始に遊びに来るのは、とっても嬉しそうにしていた父です。
必ず「俺には酒を土産にしろ!」と言ってましたが、
元生徒さん達もうちが貧乏なのを心得ていて、年末に必ず蜜柑を一箱送ってくれる人、
ハムの詰め合わせをくれる人、子供達のためにジュースの詰め合わせを
持ってきてくれる人と、なんか役割分担していたような。
今考えると、いい人ばっかりだったなー。

210 :>208 :2000/03/22(水) 19:37
教師がモノをもらってはいけない、という話と205さんの言ってる
話の本筋は違うと思うです。
教師が生徒の家庭訪問でお菓子を断るっていうのは、家でも覚えは
あるし、わかるけど

>その教師のいけないのは、みつかる可能性のあるところで
>捨てたってことなのかな。もってかえらないと

・・・・違うと思う・・・。職業柄、その先生が受け取れないなら
「私はいりませんので、ぜひ子供さんに」っていって断固受けとら
なければよかったし、もし受け取ったのなら、自分が食べなかったと
しても、他の好きな人に食べてもらうとか、とにかくくれた人の好意
を無にすることをしてしまったその先生の道徳感の無さが問題なのでは?

 それにその羊羹を出した親は相手が「先生」だからじゃなく、「いつも
子供がお世話になってる人」をもてなしたいという気持ちで羊羹を
用意したんじゃないかな。別に先生に限らず、めったに会えない親戚、
親身になってくれた人が訪問してきてもその家の人は、心づくしを
したんじゃないかな。

211 :>205 :2000/03/22(水) 20:15
うそっ(驚きの意味で)!!その話、自分が小学生のときうちの母が
「PTAで聞いた」っていって話してくれたのとまるっきり同じ話だ!
有名な話だったんだね。
(ちなみにうちは九州。聞いたのは25年ぐらい前)

212 :>211 :2000/03/22(水) 21:29
私も同じ話を聞いたことがあります。

たぶん、「道徳」というものを教えるときに、物の大事さとか
を教えるための1つの話なのではないかと思います。

>210

羊羹ならまだよくて、現金とか、金券をおみあげにする家庭も多い。

213 :名無しさん :2000/03/22(水) 22:30
うぇ〜ん、号泣。
会社でこのスレッドを見つけて読み始めたけど、泣けてきちゃって困るので、
今家に帰って読み終えました。
2chでこんなに感動するなんて、思いませんでした。

私は、実家が好きではなくて、10年ほど前に家を出ました。
でも、家を出て初めて親のありがたさとか、気持ちが分かった気がします。
未だに、母親が、父親が庭の畑で作ったたくさんの野菜や缶詰とかを
短い手紙を添えて送ってきてくれたりしてくれます。
その野菜で、母親の味を思い出したり、電話で作り方を聞いたりして、
煮物を作ったりするのですが、やはり何かが違います。
このスレッドを読んでいて、なんだか実家に帰ってお母さんの
料理が食べたくなってしまいました。

214 :名無しさん :2000/03/22(水) 22:41
叔父の家は、ウチから電車で1時間位の所で蕎麦屋を営んでいて
ちょくちょくと遊びに行っては美味しい物を食べさせてくれたり、
夏休みに一寸仕事を手伝っては結構な額のお礼を貰ったりと
可愛がって貰っていました。
産まれて初めて「ステーキ」なるものを食べたのも叔父の家でした。
叔父が焼いた「ステーキ」は当時、我が家では牛肉を滅多に
食べる事も無かったので、妹と二人でとっても喜びました。
それから、何年かして僕も社会人になっていた有る日の事
叔父が癌で発見が遅れた為、開頭手術をしても患部は全て
取り除けなかったと母から言われました。

手術後、妹と見舞いに行き、自分が癌である事を知らされていない
叔父は、「早く、店を開けなくちゃナ」と言ってリハビリをしていました。
叔母が病室の外で「抗がん剤で気分が悪い筈なのに、メシを食わないと
力が落ちるからって無理にご飯を食べているんだよ」って泣きっぱなしでした。
帰り際に、妹が「叔父さん、またステーキを焼いてね」、叔父が「うん」と
一言。

数週間後、叔父の娘さん(従兄弟)が予定を繰り上げて結婚式を
するとの事で出席し、そこで見た叔父はメッキリと老けてはいましたが、
結構シッカリした様子なので少し、安心しましたが、その数日後、
従兄弟が新婚旅行中に逝ってしまいました。

今でも、あの叔父が作ってくれた2度と食べれないステーキが
忘れられません。

215 :>205 :2000/03/22(水) 23:35
なーんか小学校の時の道徳の教科書「にんげん」に載ってた気がすんなぁ
その子の家は貧乏で、汚い家に住んでたから・・・・ってオチだった

216 :名無しさん :2000/03/23(木) 02:26
私は小学校1年から4年までずっと同じ担任でした。
そのおじいちゃん先生は その年も例年のように家庭訪問にきました。
その日の訪問は家が最初で、当日珍しく私の父もいたのです。
私はすれ違うように友達と遊びに行き、夕方帰ってきてびっくり。
そこは宴会になっていました。すっかり酔っ払っている父と先生・・。
脇にビールが4,5本空いてました。母に「この事は内諸よ」と口止めされ…。
もちろんその日の訪問は家でストップ。後にはまだ3,4人はいたはず。。
訪問予定だったお宅には何と言い訳したんでしょう、、
あとから聞いた話では、先生も奥様を亡くされたり色々あったみたいです。
それだけ長時間いて私の話はほとんどなかったとか(笑)

217 :やだ、もう :2000/03/23(木) 12:47
泣けてきてしょうがないよー。
職場なんで、慌てて目薬さしちゃいました。

218 :名無しさん :2000/03/23(木) 13:35
花粉症なので、会社で周囲をはばかることなく涙を流しながら
読みました。

219 :名無しさん :2000/03/23(木) 15:57
ほろっとはくるけど、泣けないなどれも。
感受性が死んでのかな>自分。

220 :名無しさん :2000/03/23(木) 20:25
高校生の頃、母と兄の3人家族でした。
母も兄も仕事をしていたため、家に一人でいることがほとんどだった私の
唯一の遊び相手は猫のミーコでした。
ある日学校から帰ったら、珍しく兄がいて、「ミーコが車に轢かれて死んだ」
と聞かされました。私は「ふーん」とだけ言っていつものように夕飯の支度をし、
黙々と食事をしました。食べ終わった瞬間、涙が滝のようにあふれてきて
とまりませんでした。それから2日間、涙が止まりませんでした。
なぜあのとき、普通にご飯を食べたのか、今でもよくわからないのです。

221 :名無しさん :2000/03/24(金) 01:28
おばあちゃんがよく作ってくれた みそ田楽のおにぎり。
まるい形のおにぎりを焼いて丁寧に味噌を両面にぬったやつ。
おばあちゃんのしわだらけで今までの人生がしみこんだような手でにぎられたおにぎりは
なんとも言えず美味しくて大好きだった。
今おばあちゃんはぼけちゃって施設にはいっている。
自分でそのおにぎりを作ってみたけど やっぱりあの味にはならない。

222 :名無しさん :2000/03/24(金) 01:39
小学生低学年の頃です。
父が家に昼飯を食べに帰ってきたのですが、何か嫌なことでもあったのか
その日はかなり機嫌が悪かったのです。両親は自営業をやっていて、悪い
ことにその日は休日で人がおらず母も忙しかったため、簡単にカップ麺
で済まそうとお湯の用意をしていたのでした。
食卓についた父が何かのことで母をなじり、気が強かった母は父に言い返し、
父はその母の言葉に反論できなくて、眉間のしわをさらに深くして不機嫌そ
うに黙っていました。
母がカップ麺にお湯を注いでふたをした直後、父がそれを母に向かってなぎ
払いました。ふたが外れて中の熱湯が母の手や足にかかり、母は床にうずく
まって泣いてしまいました。カップ麺の散乱した中で、やけどした手を押さえ
「痛いよう、痛いよう」と子どものように泣く母の姿は、普段母の強気な姿しか
見たことがなかった私にはとてもショックでした。恐らく母にとっても、父の
その仕打ちは非常にショックだったのだろうと思います。
その後、さすがに父も悪いと思ったのか、母を病院へ連れて行きました。
床を掃除しながら、母がかわいそうだという気持ちと、こんな家庭にいる
しかない自分が子どもながらにみじめに感じて、泣けて仕方ありませんでした。
病院から帰ってきた母の、手や足に巻かれた包帯やガーゼは直視できませんでした。
その両親は何年か前に離婚し、去年父の会社も倒産しました。
サンポーの焼豚ラーメンを見ると、その時の嫌な気持ちがよみがえります。

223 :名無しさん :2000/03/24(金) 03:53
せつないねぇ・・・。

224 :>222 :2000/03/24(金) 04:11
これから幸せになられるといいですね。心からそう思います。

225 :>39 :2000/03/24(金) 04:22
その気持ちわかります。
あとで思い返して胸が痛くなるんですよね。
いま悪いと思った気持ち、絶対相手に伝わると思いたいっす。

226 :>61 :2000/03/24(金) 04:23
祖父様はいまも健在なのでしょうか。
つらいですね。自分を思ってくれたお菓子を捨てられちゃうなんて。


227 :226 :2000/03/24(金) 04:24
同じような経験があるので、読んでて身につまされました。


228 :>74 :2000/03/24(金) 04:24
いい彼氏だったね…

229 :>220 :2000/03/24(金) 05:20
とっても辛い出来事ってすぐには実感できないから、夕御飯を食べて
お腹がおちついたら、さめざめと実感してきたんじゃないかな。
私も大好きだったおばあちゃんが死んじゃった時、30分くらいして
いきなり泣き出した。遺体とはとっくに対面してたのに。

230 :親不孝者 :2000/03/24(金) 05:42
高校2年の秋、母が癌で入院した。
若干マザコンの気があった私は毎日学校が終わると病院に直行し
面会時間が終了するまで母と一緒に過ごしていた。
ある日、学校ですごくイヤなことがありムシャクシャした気分のまま
病院へ向かったのだが、病院の駐輪場で自転車の置き場所のことで
警備員にちょっとキツメに注意され、不機嫌だったこともあり口論になってしまった。
ますます不機嫌になった私が母の病室に着いても憮然としたままでいると
母は気を遣ってお見舞いのフルーツ籠からバナナを1本取ってくれた。
当時はバナナが大好物だったのだが、まだ幼かった私は気分の切り替えが出来ず
不機嫌な顔のまま「いらない」と言ってすぐに家に帰ってしまった。
母はキョトンとした顔で私が病室を出て行くのを見送っていた。
それから2、3日の間気まずい思いで病院に行かなかったのだが
次に会いに行った時には母の病状が急激に進行していて
会話すらまともに出来なくなっていた。
その後は死相の浮かんだ母の顔を見るのがイヤで、結局臨終まで病院に行けなかった。
なぜあの時もっと母に優しくできなかったのか。
なぜあの後今まで通り会いに行かなかったのか。
あれから10年以上経つけれど未だに当時の自分が許せない。
そしてその時以来バナナが食えなくなりました。

231 :彼と食べ物と私 :2000/03/24(金) 09:09
8年前、彼は留年の決まった大学4年生で、とても貧しくだらしない生活を送っていた。
お金持ちではないけど不自由のない自宅OLだった私は彼に何かしてあげたくて
慣れない料理を覚ることになる。ほとんど私がお金を出して食材買ってたので
悪く言うと「ヒモ」みたいなものだったかも・・・

初めて彼の部屋で食べたのはカレーライス。
家から2合の米とレトルトのカレーを持って行ってごはんを炊いたのは良かったけど、
カレーライスを盛るお皿がなくて(かろうじてスプーンはあった)、結局、
炊き立てのご飯の入った炊飯ジャーに温めたカレールーを入れて二人で食べた。
一つのお釜から直接食べるのがおかしくて、二人でくすくす笑った。

次に作ったのは親子丼。
「ぶきっちょさんのお料理ブック」と言うレシピ本を買った私は
夕方からバイトに出掛ける彼の出勤に間に合うように一生懸命卵を溶いた。
卵に気を取られるあまり、炊飯ジャーのスイッチを入れ忘れているのに気付き
慌ててご飯も炊いたんだけど時間ギリギリになっちゃって
ご飯が熱いのを我慢して一生懸命かきこんで食べた。
ちょうど「美味しんぼ」の再放送で親子丼の回だった。
自分の作ったものが画面の親子丼と違ってないかドキドキした。

初めてケンカしたのはビーフシチューを作った時だった。
煮込んでいる間に彼がイビキかいて寝てしまったのが悲しくて
お鍋を火から下ろして泣きながら家に帰った。
起きてびっくりした彼が電話で謝ってきてすぐにまた会ったんだけど
お金もないのに大学の生協でお菓子を買ってくれた。
彼の部屋に戻るまでほとんど口を聞くことはなかったけど
手だけはぎゅっと握り合っていたのを覚えている。

3年前、私は彼の扶養家族になりました。
今日の晩御飯は何にしようかな。

232 :名無しさん :2000/03/24(金) 09:21
奥さん、奥さん、まだ朝ですけど。(笑

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0ch BBS 2004-10-30