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■世界制服をたくらむモララー〜35着目〜■

570 :( ´∀)・∀),,゚Д)さん :03/12/03 18:27 ID:zQ0hau+k
いまは計算機の授業などをしているが、コンピュータは、昔から呑込みの悪い男だった。HITAC10が導入された時点では、特にそうであった。
 アセンブラ?何?それどんな意味?などとこだわるものだから、まったく前に進まない。みんなスイスイとプログラム実習している中を、たったひとり悔しく眺め
ていたことを思い出す。こういうものはぱっと理解することができない。
 アセンブラでは、特にブランチ(ジャンプ命令)というものや、サブルーチンがわからなかった。飛ぶって何?空や羽根がないのに飛ぶ?うおー、わからん!こん
な調子だった。

 特にわからなかったのは、実際に作業するまでの手続きだ。メーカーの人は、さんざんアセンブラ言語の話をしながらも、具体的な作業については、口頭でサッと
説明するだけであった・「そんなことは副次的な知識だよ」といわんばかりの説明である。
 これには学生達もまいったようだ。結果的にアセンブラの教科書だけやたら多くなり、プログラムはまあまあ書けるが、具体的な作業方法がわからない、という奇
妙な状況になった。しかしあまり不満を持つ人は少なかったようだ。
 当時の大学研究者は、電算室にカードを提出するだけで作業が終わり、その後は電算室職員の仕事だった。誰かひとり、具体的に作業できる人がいればいい、とい
うような扱いだった。
 アセンブラも少しはわかり、HITAC10(H10と略)がどうやら私の管理になりそう、という状況になった時、操作マニュアルというものを書いた。
 まずは本体に電源を入れ、テレタイプASR33という端末へ紙テープをセットしなさい、から説明が始まった。これはH10時代の研究室学生全員に配布した。
今日のパソコン時代ではこんな初心者用マニュアルは常識であるが、当時は実は皆無だった。
H10でちょっと自慢(というか問題行動)なのが、インターフェース入出力装
置を作ったことだ。
 保守契約上許される行為でなかったが、H10の裏フタを開けて、I/O説明書を頼りに、本体基板に直接ラッピングワイヤをからませ、アドレス、データ、スト
ローブ(制御信号)を取り出した。上司の岩田先生にも内緒で、電流加算型の8ビットDAを2台、μA709演算増幅器で組立て、オシロでX−Yフライング・ス
ポット・スキャン表示を行った。これを用いて電子回路研究室で初めてグラフィック表示されたのが、微分方程式のサークル試験(2階の調和振動)の円であった。

 この周辺装置は保守契約違反であるが、黙認で続行しながら(日立電子さんに御礼申し上げます)、この装置をいろいろ活用した。当時、電気展というものがあり、
この装置とXYレコーダーにより「電子ふくわらい」を作り、現大学体育館で、子供の人気を呼んだ。ペン先に電磁石を備え、迷路を4方向スイッチでよけながら、
ふくわらいの目や鼻を取り上げ、自動的に顔を作る物であった。
 次年度の学生専門実験は、この入出力装置が中心になった。オシロ画面によるボーリング・ゲームやパチンコ・ゲームが学生の手により完成し、パチンコ玉がくぎ
を通過するたびに、ASR33のベルがチンチン鳴る効果は人気を呼んだ。インベーダ等のビデオゲームが登場する2年前くらいである。事業化すればいい商売にな
ったであろう。

 隣の相馬さんのところでは、この頃、TSS端末が導入され、いまのインターネットのような実験を開始しつつあった。H10の入出力が可能になったので、OK
ITAC4300とのツイスト・ペア線での文字転送実験も試みた。RS232Cのような波形を、研究室間で送受信実験をした。
 また別の研究室の菅野先生という方から、構内ネットワークの案はないかと声をかけられ、SDLC(Synchronouse Data Link Control)、HDLCのような通信プ
ロトコルはじめ、ARPAネットの文献調査を始めた(IBMのジャーナルで毎回特集されていた)のもこの頃だった。菅野先生を通じて、今でいうFTPプロトコルの
ような通信のしくみを、日立製作所に提案したが、あれはどうなったのだろうか。


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